スポーツを見ていると、選手はいつも結果が全てですからという。勝たないと意味がないんですと言う。絵を描くことは違うように思う。完成した作品を求めてはいるが、制作するなかで描く対象物をどのように描き、どのように彩色していくかを悩んだり苦しんだりしている。しかし、制作するという行為は喜びや楽しさでもある。今回は、制作途中の絵と完成した作品をご覧ください。
利律子の作品
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Keikoの作品
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スポーツを見ていると、選手はいつも結果が全てですからという。勝たないと意味がないんですと言う。絵を描くことは違うように思う。完成した作品を求めてはいるが、制作するなかで描く対象物をどのように描き、どのように彩色していくかを悩んだり苦しんだりしている。しかし、制作するという行為は喜びや楽しさでもある。今回は、制作途中の絵と完成した作品をご覧ください。
利律子の作品
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Keikoの作品
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いつもなら美術館に行って絵を観てくるのですが、今回は神奈川近代文学館へ行ってきました。そこで発見したことが2点あります。
皆さんは夏目漱石が絵を描くことをご存知でしたか。それもなかなか趣のある絵を描いていることに気づきました。個人的には正岡子規の絵よりしゃれているように思います。それから木下杢太郎の水彩画は繊細で色彩も自然の色を忠実に表わしていて綺麗でした。文学と絵、文学と音楽、絵と音楽、映像と絵、あらゆるものが一本の線で結ばれているように思います。
もう一つの発見は当たり前と思われるかもしれませんが、神奈川県は近代の文学者の聖地になっていることです。夏目漱石、森鴎外、太宰治、三島由紀夫、黒岩重吾等など、時代は違てもその土地の魅力なのか同じ文学をする仲間たちが引き寄せるのか分かりませんが、多くの文学者がそこで沢山の作品を生み出していったことは事実です。
夏目漱石「アカザと黒猫図」
木下杢太郎画「百花譜」から さんしゅう
木下杢太郎画 つた
木下杢太郎画 はちじょうあきのきりんそう
木下杢太郎画 ほたるぶくろ
「目からうろこ」という言葉がありますが、今日私はそれにピッタシな場面に出会いました。
私は、火曜日は毎週「岩国市中央公民館」で行われている「英会話中級」に参加しています。
そこでの話題の中で、「最近の子供は漫画を描かなくなったので、漫画が思うように描けない」という私の言葉に、「スコットランド」出身で「スペイン」や「アメリカ」に長く住んでいた英語教師が「とんでもない」と言うようなことを言い、「日本の子供たちの漫画を描く能力のすばらしさ」を語ってくれました。
「外国の子供たちは日本人の子供のように漫画がかけない」と言うことをしばしば言うので、そういえば外国のクラスの「美術授業」の参観をした時、「描写力」がとても低いように見えたことを思い出しました。
そして彼女がその理由らしきことを言ったのを聞いて、「なるほど」と思うところがあり、とても参考になる学習ができました。
それはどんなことかと言えば、我々日本人は小さい時から、日本語を書く時、「筆順」を学んで、それをたびたび練習するので、そういう「コピー」のようなことはとても得意であるようなことを言っていました。
確かに書く手順を「漢字」という題材で日夜書いているわけですから、そうした真似をして描くことは得意になるのかも知れません。
と言うことは、絵画の中でもこれはあてはまることですが、「見えるとおりに描く」のは決して「オリジナリティ」がある作品ではないことになります。
「日本人は真似をするのがとても上手である」と言う言葉は、戦後よく使われていた言葉ですが、ここにも大きな落とし穴があり、いつしか「発想」や「違う視点」というものがおろそかになっているのではないかと思いました。
外国の人は「文字」を書く時、我流で書くので、日本人に教える時には理解できないらしく、わかりやすく書き換ええるようなこともいっていました。
こうした会話の中で、私は中学生を教えている生徒たちの作品から思い当たることがたくさんあり、しばし納得してしまいました。
ようは、「日本人の目」だけでなく「グローバルな目」で見ると、物事は当然違って見えるということです。
毎日の生活の中で「当然」と思っていたものが、実は大きな「偽り」であることがしばしばあります。
絵を描く時に必要なことは、「あまり常識や周りの目ににしばられず、自分の感性を信じて描いていく」ということが一番大事なことのように思います。
「自然な感覚」や「違う視点」こそが、人に訴える力を持っているものだと今日改めて理解できたような気がします。
ここにあげている2点の作品は岩国市の小学生が描いた作品ですが、これらの作品からどういう風なことを感じるでしょうか?
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