石田徹也遺作集 |
パッチワークの先生から、”AERAアエラ”に載っていた記事を勧められ読む。
偶然にも、この方のお母様が、数年前パッチワーク教室の生徒として
通っていらした事、お聞きする。
このお話だけで、ぐっと身近に感じられる。
しかし、ページをめくり、作品を見た瞬間、引いてしまう。衝撃の作品。!
(石田 徹也↑を クリックすると、HPにとび絵画掲載されてます。)
第一印象は良いと、言えない印象の作品でしたが、記事を読むうち印象が変わる。
一度見たら絶対に忘れられない作品であり、もっと、見たいと思える作品でもある。
何より、絵に込められたメッセージが心に食い込んできます。
残念ながら、静岡県立美術館でこの夏の間展示があったようなのですが、
すでに終わってしまったようです。
県民ギャラリーのコーナーでの展示だったようで、タイミングが悪く悔やまれます。
~AERAアエラ・2007/9/24記事の内容~
☆2005年5月、踏み切り事故により31歳で亡くなる。
☆代表作「飛べなくなった人」が表紙をかざる「石田徹也遺作集」が
去年の5月発売から書店で売り切れが続出。
きっかけは、昨年9月放映のNHK教育テレビ「新日曜美術館」。
45分にわたって石田の作品と生涯を紹介。
放映後、問い合わせが殺到し、オンラインショップ、”アマゾン”
の国内サイトで遺作集が売り上げ総合第1位となり、番組の
感想を綴るブログ件数も、数日間で数万件まで膨れあがった。
(私も、その内の一人になったと 言うこと…?)
☆この「石田徹也現象」と呼ぶべき熱は、未だ冷めやらない。
☆故郷の静岡県で遺作展が開かれた際にも、遠方から来場者が
駆けつけ、作品の前で立ち尽くし、涙する人もいた。
☆実物の作品は、想像以上に巨大で、遺作集より色彩が明るく
作品の表情も、ユーモアを帯びてみえた。
☆両親が会場に置いた「寄せ書き」には、「涙がこみ上げてきました。
本当にすみにくい世の中です。見て見ぬふりしていた自分と直面
した気になりました。」「同じ年代の年頃の息子がいます。彼らの
世代の奥底にある悲しみが伝わり、胸が苦しくなりました。」
☆石田作品の「語り部」となりつつある、明治学院大学文学部の
山下裕二教授は「誰もが社会に抱く違和感を、石田君は黙々と
描き続けました。この違和感は若者だけが共有するものではなく
とうの昔に封印した年代にも、静かに響いてくるもです。何より
石田君は情けない自分をひたすら愚直に描いている。その分、
作品と鑑賞者の距離が近づいたのではないでしょうか。」と…。
☆石田の作品にはほぼすべてに「自画像」が登場する。
☆1973年、静岡県焼津市にうまれた。4人兄弟の末っ子。
幼い頃から絵が好き。92年武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン
学科へ入学。広告デザイン、イラストを学ぶが、関心は絵画へと
移り、就職活動はせず、96年「画家として創作していく。」と
覚悟を決めていた。
☆実家に、数十冊におよぶ石田の「創作ノート」が保管されている。
どんな夢をみたか、どんな映画を観たかなど、アイデアに繋がる
ものを細かく書き記している。「ベルトコンベヤー上の人の
シリーズで 工場労働者(幸福さのかけらもなく)」などと…
☆いくつかは作品も売れたが、生活は苦しく、時給の高い深夜の
肉体労働・過酷な労働環境が鋭敏で繊細な石田の心を傷めて
いるように みえた。
☆どんなに、生活が苦しくても、両親からの送金を「自分が駄目になる
から」と断り続けた。
☆交際していた女性とも、「幸せすぎて絵が描けないから」と別れて
しまう。
☆宮沢賢治ののようなストイックさで、石田が目指したものは…
「「禁欲生活を始める。これ以上堕落してはいけない。持続的な
努力をしなければいけない。」と…。
☆わが身を削りながら、疾走するように描き続けた作品は200点。
☆母・サチ子さんは、
「私たちは、恥ずかしながら、画家としての徹也のことをほとんど
何もしりませんでした。徹也の絵を見てくれた方々に、教えて
いただく事ばかり。何か、宝物をいただいているような思いです。」
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ざっと、こんな↑内容でした。
ただ、抜粋しただけなので 伝わらないかな??
グサッと、心に食い込んだこの感覚、伝わると良いのですが…。
まず、HPにいって絵観てほしいな。
うまく語れませんが、誰もが持っている閉塞感とか違和感(社会)を
”これでいいの~”、と代弁してくれている。いや、そんなに強く
主張していませんよね。
ジーンと心に伝わり、考えさせられる、と言ったほうがいいかも…。
何時の日か、実物の作品と対面できるといいのに……。
もし、お付き合いして下さった方がいらしたら、お礼申し上げます。
拙い文章にお付き合いくださりありがとうございます。