なんかね、潮風が効く体質ってあるらしいよ。
それはなにげない友人との世間話の中から突如飛び出してきた、
予言にも似た処方だった。
確か、自然療養の種類を検索していたとき、
「クリマセラピー(気候療法)」という初めて耳にする言葉と、
外国の海のようなどこまでも透き通るマリンブルーのカタログを、
南房総のあるカフェでみつけた。
そのSEA BLUEは海外のものではく、
南房総の色彩だと表紙には説明書きされていた。
その色彩にも、そのデザインにも、療法にも、
予言が予言そのものではなくなる予感や確信や手ごたえを覚えた。
過ぎ去った夏の余韻など見つけることのできない海岸は、
白い貝殻でできた砂浜だった。
押し寄せたり引いたりする波音だけが響く静寂の海岸は、
物悲しくあり、悲哀でもあり、けれど、母のような温かさを常に感じた。
だからか私はひとり膝を抱えて緋色の夕日を
ぼんやりと眺めていることが好きだった。
朝礼で、体育の時間で、避難訓練の、動作が遅いと怒られるときのように、
膝と股の間には隙間などつくらず、小さく背中を丸めて、緋色に染まる。
それと一体になる。
風に吹かれる。
そうしてじっと、私は自然になろうとしていた。
それは生でも、死でも、どのような種類の自然でもよかった。
交通事故によって負った不具合は、想像以上に私の心身を破壊し、
いつもなら、優しい横顔で私の経過に一喜一憂してくれる主治医が、
機会を見計らったように呟いた。
僕たちが生きている時間ではおそらく、自然治癒以外の方法での完治は無理だ。
見込めないとか、確立とか、他の方法で、言葉を選ぶ余裕はないのか?
私は無理とか、仕方ないとかいう類の言葉が大嫌いで、
閉じ込めていたものをすべて吐き出すように拒否反応が起きた。
それを見計らう機会は今じゃない、と言いかけてやめた。
医師も必死なのだろう。
彼の無精髭をみつけるたび、それがすべてを物語る。
けれどね、医師になった以上、感性が鈍ってしまったら、
治せるものも見落としてしまう。
医療が患者を生み出していく様を、私は患者となった自分を通して、
嫌というほど突きつけられてきた。
疾患との日々が、眺めるだけの天井が、美しい裸体のような装丁の本が
大切な存在を教えてくれた。
それは、私の傍らにある、自然との共生だった。その処方だった。
自分でも驚くほど、自分が自分ではなくなっていった。
すべてにおいて受容など安易なことではないのに、
それがこと障害となると道のりは険しい。
死が敗北だと考えがちな西洋医学のように、
私もそれを受容したらどうなるのだろう。
どうなるのだろう・・・・・と何度も考えるうち、
頭の中がぐるぐると壊れた洗濯機になった。
水が飛散ってしまうため、周囲を、自分をも傷付ける。
もう十分考えたから・・・・・・と自分なりの結論を出して
ただ、自然を見つめることだけに没頭した。
それが、私の生きる道なのだもの。
もういい・・・・・・
過去を振り返ることも、未来に不安を覚えることにも飽きて
自然だけを、今を、みつめよう。
南房総に移住した友人はことあるごとに、私の悩みなんてさ、と言う。
ほうれん草に虫がついたとか、トマトの糖度が低いとか、
わかめをもらい過ぎたとか、
東京で、女経営者でバリバリ仕事していたときが幻想だったような、
嘘みたいに、
なんだかあったかい悩みなんだよね・・・・・としみじみ言う。
潮も潮風も体にいいらしいから、入っておいでよ。
すこしぐらい冷たくても、波が荒くても、大丈夫だから。
海に浸かっておいで、という。
健康になりたいなら、言うことを聞きなさい。
なんだかこの人、お母さんみたいだと思った。
心の中でそう思いながら、私の愛情の欠如を、母との確執を、
このお母さんが弱っている私を引き受けてくれているのだと思った。
しぶといんだから、さらわれたりしないよ。
私と同じ匂いのする人間は大丈夫。
私はお母さんに言われるとおり、海のお風呂に浸かって、
海底の足に伝わる感触や、さざ波の振動や、
色彩を何層にも重ねる海原の中で、わんわんと泣いた。
声を出して泣いた。
大人なのに泣いた。
確かに感じたの。子宮に戻された感覚が。
スキップをしながら帰ったら、そのお母さんは言った。
今日の晩御飯は、海のご馳走よ!って。
私は快方へ向かっている。
軽率に完治などという言葉や、
健康のすべてを取り戻したなんてことは言わない。
いいや、私の性格を考慮すると、言えない。
それは、そこには他者の人生が密接に関与するためだ。
これからも、3年、
いや、5年程度の経過観察を主治医に付き合ってもらい、
その中でこれ以上の悪化は加齢にも影響されない、と
お墨付きをもらったとき、
自分でもそれを体現したときで、
私は言おう。胸を張って、治ったよ、と。
それまでは、この難病について、特に公の民としての私見など
私は述べるつもりはない。述べられないといった方が正解だろう。
けれど、許してもらおう、この程度の感情の吐露は。
春先のポピーたちや、
木々や、
波間の輝きや、
朝日の眩しさや、
緋色の色彩や
潮の匂いや、
地平線の空の色や、
海の、すべてを許す寛容さや怖さや、
体を丸めてじっと風に吹かれていると、
自然が痛みをさらっていったんだと気付く。
自然を理解することは、自分を、他人を、
この広大な宇宙を理解することを意味する。
だから、ここにいると、この土地の風に吹かれると、
あったかい悩みしか近づいてこないのだろう。
私にはそれが、今なら痛いほどわかる。