「弱き者の生き方」
※文中に使用している言葉は「私」のものというよりも、
五木寛之氏・大塚初重氏の引用であることをお断り申し上げます。
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暗愁・・・・・・
平安時代、物書きや文化人が好んで使った言葉で、
明治維新から大正中期まで使い、日本人はこの言語を理解し好んで使用した。
今でいうあたかも流行語のように。
この暗愁は昭和20年7月、永井荷風が日記に記して以来、
以後今日まで使用する者はいない。死語に等しい。
光が濃いということは、同時に影も濃いことを意味する。
戦後、日本または日本人は、のぼるだけの文明、後ろ向きではなく、
ポジティブや明るさばかりがよしとされている風潮において、
暗愁が姿を消した。
これといった意味もなく、
これといった理由もなく、
すぅ~っとそこへ、落ちてしまう瞬間を感じる、陥るときがある。
そして、その状態がしばらく、
ときにはある程度の長い時間としてつきあわなければならない時期がある。
日本人が泣くというモチーフ、
つまり昭和17年ごろまでは、日本国民は本来よく泣く国民であった。
泣くということで言葉では表現できない感情を吐露する。
戦後、そうしたことが蔑まれ、嫌われ、軽くみられてきたのではないか。
泣くことは忘れてはならない。
暗愁とは、人間の根源的な感情であるからだ。
気持ちが萎える、屈することは
人間が生きていく上で実はとても重要な行為であり、
それが現代では、抹消し、毛嫌い、人間そのものを否定するようだ。
それは雪吊りそのものを意味し、
雪折れを防ぐために、庭木などの枝を支柱から縄で吊り上げることを意味する。
どんなに太く強くまっすぐな枝であればあるほど、
その雪吊りは必要とされる。
逆にしなる木には雪吊りは必要とはしない。
その理由は、自分でしなる木は加重をそのしなりで雪を吹き飛ばすことが
自らの力でできるからだ。
人間も同じではないだろうか?
自殺者が3万人を超える異常事態の中において、
死を選択する者は、本当に弱いのだろうか?という疑問。
想像に過ぎないが、おそらくそれは想像を裏切るものだと推測される。
続く・・・・・