愛について思考を巡らすとき、
それを明らかにするとき、
パスカルが「パンセ」の中で説いた一文を思い出す。
人間は葦にたとえられるような弱いものであるが、
考えるという特性を持っているとして、
思考の偉大さを語った。
私は最近、人間について・・・というよりも、
愛についてあれこれと心身の思考を合わせようとする。
人を愛するということは、
容れものである肉体などは私にとって視感から本能への伝達機能に過ぎず、
では、愛する人を丁寧に扱うとき、向き合うとき、
人生や心や魂の領域を考慮すべきことに気付いた。
それはどのようなことかといえば、
あなたが異性へ肉体を露にすることはあるだろう。
けれど、肉体の内部に潜む精神を露にする瞬間は
長い人生においても何度も出会えるものではないのでは、という気付きだ。
たとえば精神を露にしたとき、
それを受け、支え、認めることが果たしてできるのか。
「まだあなたの精神には衣が一枚纏っている」と指摘し、
愛する異性が目前に立ち、
とまどいながらその一枚を、精神の肌を露にするのを眺める。
それこそが上質の時間であり、
人生や心や魂を包み込み、
愛撫するという愛を表現する本来の姿を指すのではないか、と。
僕にとって大切な異性があなたであってくれたら嬉しく思います。
そして、あなたの人生や心や魂を包み込む異性が僕であれば幸いです。
私の物事を捉える視座が、
通常の、世の中を生きる上ではこの感受性が邪魔をする。
けれど、これがなければ創作はできない。
魂が泣き声をあげるとき、
魂を包み、抱きしめ、あやすとき、
文学が私の内側に入り込み、
または私が文学の内側を旅をするとき、
そこからどのような味わいの言葉が生を受け、
始覚と抱き合えるものなのかを、
同志と文学論について語った一節から
私は遊離することができなくなってしまった。
それは才能などという容易な呼称では片付けられるものではない、
胸の張り裂ける時間や嗚咽の響きが
波浪や青の虚空からしか誕生しない珠玉だと知った。
その優しさは闇と情交を成就させたことから、
学び、それを身に付けたことを感受した。
海に投げ入れれば潮が干(ひ)けるという珠があるという。
それを投げ入れれば私たちは出会える。
そして、満珠を投げ入れれば潮が満ち、
私たちは海へ戻ることができる。
所詮、私たちは考える葦なのだから・・・・・・