何事もなかったように装い、月曜の朝に急ぐ。
私はガラス越しに人間たちを意味もなく眺め、
薄めのコーヒー啜り、
ときどき新聞の活字に気を取られ、
そして、また意味もなく、人間を眺める。
一晩中かけていた曲はインドの友人宅で聴いていた、
坂本龍一のDiabaramだ。
友人を思い感傷に浸るわけでもなく、
特に意味はなく。
けれど、その曲を繰り返し聴覚から注ぎ込むことで、
人間としての私が、根底から疼く。
それは邪悪さかもしれないし、
魔性の、
慈悲に満ちた奥ゆかしさも、
人間としてその兆候を読み解くには、
一番手っ取り早く、確実だ。
肉眼ではみえないもの、言葉で説明のできないこと、
この世の中にはそうしたものの比重が、
相対的な重要度を語るとき、
私はこの一点に終夜灯の役割や修養があると信じて疑いを持たない。
鏡に映る醜容のすがたかたちを整えながら、
人間の装い、
つまり、人間を人間としてたらしめている性質に、
その闇を考えるには、月曜日は適さない。
そして、寄り集めた朝の景色の中ではコーヒーの味すら、
かみ締めたくなる。