テーマは「自立」で少女期の欠如部分を補填・補足していきましょう、と
新しい主治医となる方に満面の笑みを浮かべながら言われたとき、
私は泣きそうになった。
じっとこらえた。
初対面だし、ここで号泣したら、いくら私でも格好がつかない。
いいや、その方の人格や人品やお人柄に加え、
感性の鋭さに一撃を食らわされた気分だった。
私は二箇所の病院で主治医となる医師を二名持つわけになるが、
1年も付き合っている主治医は、正直だけれど青さが目立ち、
彼にとっても私という患者を通して、
その方との交流は医師としての将来を左右することになるだろう、と思った。
少女期の欠如・・・・・・
本当に重たい言葉だ。響きだ。
私は少女期というものを飛び越えて生きてきた。
いいや、生きざるを得なかったのだ。
だからだろう、両親が揃っていながら家庭への憧れをあまり持てず、
母とは違う母親になろうと、
必死に、一生懸命に、娘とは真剣に向き合ってきたつもりだ。
それが彼女の一生を左右し兼ねない時間になることを、
私は私という人間の過去を通して、養育環境を紐解くことで、
自分という存在に対する漠然としながらも確実な体感を
まだ消化できていないことを自覚しているためだ。
人間の基礎となる部分に欠如が生じた場合、
その人間は一生そこを埋めなければ、偏りが解消されることはないのだ。
植物には土が命であるように、人間にも土台となるいしずえが必要となる。
今日は寄り道をしながら病院へ向かうことを計画した。
話題の新丸の内ビルの鉄板焼きランチをひとりで堪能して、
そこで働く若いイケ面たちにどきどききゅんきゅんして、
地下の叶 匠壽庵でお茶を嗜み、お薦めを包んでもらい
いざ鎌倉へ・・・・・
私が私として生きていくために、
その少女期の欠如をようやく埋められる確信に、
私はご縁を無視することができないと、神様を思った。
ちなみに神様とはみんなが拝む神ではなく、
人間の姿をした、私にとって大切な魂の伴侶を神様と呼んでいる。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
吉田山の霊場に卜居して斯文の徒となった人。
現今、大人の女性に対するとの理由から、
苗字ではなく私の呼称である名前を呼ぶ了解を得るために、
禁忌を犯すような、神殿の祠の扉を開くような、
厳かな気持ちになると告白し、
祠を開帳してその神体を仰ぎ見る心情で、
あなたの名前を呼ばせていただけたら・・・・・・と思うのです。
毎日、ほぼ同時刻に届く電子メールは、
編集者と作家の卵の関係をすでに事実上超越しており、
これが私を悩ますだけの手腕だとしたら、
彼は仕事のできる男として賞したいと思う。
なぜならば、
彼の文章には新しい言葉を毎日数語ずつ学習できる漢字が溶かされていて、
私はそれを辞書を駆使し、理解し、会得する。
自分の言語にするために専用ノートに書き記す。
むろん、そうではない場合を考えても、
筆を執る作業が停滞しないということは、
それは私の才覚ではなく、彼の知恵や能力の高さを物語るに過ぎない。
悔しいけれど、それが物を書く場合の私の現状だ。
ピアノを奏でるように私の魂にソナチネやショパンを用い明察する。
たとえばそれが冥府や太古から届くのであれば、
それならば私にも物事の道理が多少はさとることができるのだ。
けれど、今世の出来事にしては、
毎日のそれは私の魂をあまりにも優しく演奏し過ぎるのだ。
切なく、そして苦しい。
珠玉の短編を子宮に宿し、
一瞬のうちにそれに陣痛を起こすなど、
神業以外、私にその経験はない。
無二の容れものである風のいたずらにしては、
気品に満ちた音の組み合わせは、私の今後を左右する。
一度、連続して生み出される麗容の語、
つまり、整って美しく、うるわしく、うららかな存在に
近づいて触れるということは、
それ以上のものを迎え入れることは容易であっても、
それ以下は拒絶し、それを自身に入力を許すことは、
言葉の階級や水準や程度を低下させることを意味し、
私にはそれが恐怖であり、
そのときは筆を下ろす時機であることは明確なのだ。
同性では経験済みのそれでも、異性に魂を抱かれることは
外界の物事を認識する感覚が、
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の感覚のどれもが研ぎ澄まされていくことを
否が応でもはらいのけるのではなく許し、迎え入れる行為は、
諸行事物としか解釈の域をはるかに超越している。
仏教でいう前世からの因縁であるなら、
私たちは浅からぬゆかりや定めを意識しながら、
三世の現世において魂の置き場を探し当てた価値を受容するだろう。