晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

ジョン・ダーントン 『ネアンデルタール』

2009-01-16 | 海外作家 タ
まず、なんの前知識も持ち合わせていずに、この本を手に取ったなら、
まず題名から、古代人類に関する本なのかな、と考えるのは当然。
装丁も古代人類の頭蓋骨ですし。

そして、著者は、写真でピュ―リッツァー賞を受賞しています。

しかし、裏表紙には、ミステリ?サスペンス?を匂わすあらすじが。
ドイツのネアンデル渓谷(タール)で発見された古代人類の骨は
およそ2万5千年前には絶滅しているネアンデルタール人。
しかし、ある有名な古代人類学者の教え子のもとに届いた頭蓋骨は
検査結果によると100年以内のものであると・・・

うーん、面白そうだ。

ヒマラヤ、中央アジアで現地の民族から目撃談が多い『雪男』、
イエティという名で呼ばれている未確認生物が、実は、かつて
ホモ・サピエンスとの闘争により敗れて山奥に逃れることになった
ネアンデルタール人の生き残りであるという大胆な構想。

そして彼らは、ホモ・サピエンスが発展できた要因である、言語
によるコミュニケーションの代わりに、相手の視覚中枢に意識を
飛ばして他者との意思疎通を図ることができる、という特殊能力
を身に付けている。

それを最初に発見したロシアの山岳探検チームはその研究を途中で
放り投げて、なぜかアメリカにその情報が漏れ伝わることに・・・

ネアンデルタール人がもし生きていて、そして彼らがどんな生活を
しているのか、という設定は、こういう分野(考古学、古生物学)
に多少なりとも興味のある私にとってはたまらなく面白いです。

彼らは、凶暴で野蛮な洞窟に住む部族と、穏やかで平和的な谷の部族
に分けられています。
洞窟には壁画があり、額の出っ張ったネアンデルタール人武装グループと
額の平らなホモ・サピエンス武装グループの戦のシーンが描かれていて、
ホモ・サピエンス側がネアンデルタール側に和平を持ちかけようとしている
絵と続き、ネアンデルタール人が地面に掘ってあった穴に落ちて殺されて、
ネアンデルタールの怒りに満ちた形相の顔の絵で終わるというもの。
つまり、ホモ・サピエンスは、敵を騙し欺いて勝利を収めた、と壁画は
記しており、ネアンデルタール人は先祖の無念、恨みを忘れることなく
ヒマラヤの奥地に生き延び、人間を極端に恐れ嫌っているのです。

人間は、2足歩行となって、道具を手にし、言語を発達させて、その結果
知恵と知識が膨大に膨れ上がって、地上のリーダー格にのさばっていますが、
かつて森から草原に生活の場を移すこととなる人類の祖先は、その時代の他
の動物とガチンコの殺し合いでは弱かったのでしょう。だからこそ身に付けた
知恵と知識は確かに人類の発展に寄与するものなのですが、それは謀略と欺瞞。

本を読み終わってテレビをつけると、そこには厚顔無恥な政治屋の顔、顔、顔。
謀略と欺瞞のどす黒い色に塗られた世界は、霊長類生き残り戦争のように
見えてしかたありません。

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デブラ・ドイル、J・D・マクドナルド 『サークルオブマジック・魔法の学校』

2009-01-14 | 海外作家 タ
ハリー・ポッターの世界的人気のおかげか、魔法もの、ファンタジーもの
の映画や本が売れたりして、ハリー・ポッターよりもはるか前に出ていた
指輪物語やナルニア国ものがたりなど、なんかハリー人気に便乗してるよ
うに思えなくもないんですけど(映画会社側が、ということ)。

ちなみにこの『サークルオブマジック』も、帯にはハリー・ポッターより
も先に出版されてこっちが原点だ、みたいなことが書かれていましたが、
いろいろな困難があって、友情もあって、まあ、そういう意味ではハリー
の原点だといってもいいのですが、結局は販売促進のための常套句なので
すから、比較しながら読んでもあまり面白くはないですよね。

舞台は中世、騎士になるために訓練していた12歳の少年が、ある日突然
少年の住む城に訪れた魔法使いに、自分も魔法使いになりたいと言って、
遠く離れた魔法学校に紹介してもらって入学する、といった話。

主人公の少年は、学校に入学しても、なかなか魔法が覚えられずけっこう
落ちこぼれ。でも先生方は、そんな彼の特別な才能を知っていて、進級の
追試もかろうじて合格させてもらえる。

なんだかんだあって、かくかくしかじかで、街で出会う黒髪の女の子と、
かつて城に住んでいたときに共に騎士になるために訓練していた従兄と
3人で冒険へ。

正直、ぐいぐい物語に引き込まれる、といったものではありませんでした。
でもとりあえず続きは読みたい(全4巻あるとのこと)。
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ダルトン・トランボ 『ジョニーは戦場へ行った』

2008-12-26 | 海外作家 タ
一般的に、売れたり話題になった小説が映画化やドラマ化され、
映像で見る前にまず原作を読んでから、というのが正しい流れかと
思うのですが、中には、映像を見てから原作を読んだほうがいい、
というのもあり、アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」
なんかは、まさにそう。

そして、「ジョニーは戦場へ行った」も、まさに映画を見てから原作
を読んだほうがいいと思ったのです。

話は、第1次世界大戦に兵隊としてヨーロッパに行ったアメリカ人青年
ジョニーが、戦地で半死半生となり、目、耳、鼻、口が不自由になって、
両手両足も切断されます。

自分は死んではいない、意識はあるということが確認できます。
やがて、体の感覚をつかさどる機能の中で残っている皮膚でまわり
の状況、時間などを確認しようとするのです。

1日に6回来る(ことは皮膚感覚で知っている)看護婦か医者に、
頭をまくらに長く打ちつけてツー、短く打ちつけてトン、という
ふうにモールス信号を送ろうとします。

映画では、このジョニーの信号が「S・O・S」と伝えるところで
終わりとなるのですが、じつはここからが、この作品の反戦文学の
旗印とされる大事なシーンなのです。

この信号に気付いた医者は、ジョニーの胸に指で文字を書き、
W H A T
D O
Y O U
W A N T
(何がほしい、何がしたい)
と訊ねます。

ここから、怒涛のようにジョニーは伝えます。
自分の人生、宗教、政治、戦争、そして、未来の若者たちに送る
メッセージ。

この映画を見たとき、正直「物足りない」感があって、そして原作を
読み終えて、なるほどこの作品中の伝えたいこと余すことなく映画に
盛り込むのはムリだわな、と独り合点。





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