晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

ジェーン・オースティン 『自負と偏見』

2011-04-18 | 海外作家 ア
この作品の日本語タイトルは翻訳者によって「高慢と偏見」
となったりもするのですが、原題のPride and Prejudice
でいうところの"Pride"をどう捉えるか、によって違ってく
るのでしょう。

というのも、この作品に出てくる登場人物の性格描写は、まあ
明け透けというか、表も裏もしっかりと描かれているので、単純
に善い人悪い人(相関図にして誰にとっての)という区分けが
難しいのです。

これだけひとりひとりの人間を複雑に描くと、そのキャラが
弱くなったりもしますが、そこは揺るがない何かを持たせること
によって確立はさせていますが、しかしその「何か」が誤解や
偏見を生んでしまうことも多々あり、それをどう解きほぐして
いくかのプロセスが楽しいのです。

イギリスの片田舎に、金持ちで独身の紳士が引っ越してくるとい
うニュースが飛び込んできて、村の独身の娘を持つ家々はちょっと
した騒ぎになります。
これは、文豪夏目漱石も絶賛したこの小説の冒頭「独りもので金が
あるといえば、あとはきっと細君をほしがっているにちがいない、
というのが、世間一般のいわば公認真理といってもよい。」(訳者
によってニュアンスの違いはあるでしょうが)で、まあこれがこの
物語のすべてを語ってるといってもいいでしょう。

この村のベネット家、この家には5人の娘がいて、母はぜひとも
長女のジェーンをこの金持ち独身紳士に”あてがおう”と躍起に
なります。

引越し祝いとでもいいますか、ビングリー家でパーティーが催され
ることになり、ベネット家も招かれます。ビングリーはジェーンと
ダンスを踊り、たがいの第一印象は上々。ところが次女のエリザベス
にとっては、このパーティーは最悪。
というのも、ビングリーの親友のダーシーという男が、何かにつけて
文句タラタラ、あげくエリザベスに向かって、ベネット家の娘たち
はみな美人と聞いてたけど、あんたはそれほどでもない」みたいな
ことを言われる始末。

さて、見栄っ張りな母はさっそくビングリーとジェーンを結婚させよ
うとやる気まんまん、一方父親は、娘たちが幸せなら相手が誰だって
別にいいというスタンス。ところが、なかなかビングリーとジェーン
の恋の進展はうまくゆかず、ビングリーの妹はエリザベスを何かと
目の敵にしたり。というのもビングリーの妹はダーシーとくっつきたい
のですが、それには先のパーティーで彼といっしょにいたエリザベスが
邪魔で・・・

ただでさえゴチャゴチャしているところに、コリンズなる牧師が出て
きたり、ダーシーの過去を知るウィカムという男も登場したりして、
さらに複雑に。

ところで、訳者があとがきで指摘しているように、文中で男の登場人物
どうしが話をしているシーンがほぼ無いというのは読み終わったあとに
そういえば、と思いました。というのも、作者は父親が亡くなったあと、
母と姉妹とで暮らしていたそうで、この作品のベースは「女たちだけ」
の会話になっているので、周りにヒントが無かったとのこと。

ぶっちゃけ、2組のカップルがくっつくかどうか、という他愛もない
話といってしまえばそれまでですが、冒頭の一節にあるような”普遍性”
を感じることができます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・アーヴィング 『サーカスの息子』

2010-12-09 | 海外作家 ア
アーヴィングの作品を読むのはこれで2作目、ちなみに1作目は
「ホテル・ニューハンプシャー」でしたが、なんというか、きちんと
説明できませんが、作品の中に描かれている世界に一歩足を踏み
いれたら吸い込まれ、その世界観を体に浴び、でもその作品を読
んでいる“自分”を俯瞰で見ている、なんだか意味不明な解釈で
すけど、つまり読書というよりは「不思議な体験」をした、そんな
感覚になったのでした。

『サーカスの息子』の舞台はインドのボンベイ。現在では公式名称が
英語読みから現地語の「ムンバイ」になった、インド西部、アラブ海
に面する、インド最大都市。
カナダのトロント在住の医師、ファルーク・ダルワラは、ここムンバイ
で生まれ、その後オーストリアで医学を学び、オーストリア人女性と
結婚し、子どもが生まれて家族はトロントへ移住。
ファルークは、たびたびインドへ「帰郷」します。その大義は、軟骨
発育不全が原因の小人症の遺伝子を研究するためで、彼がよく知る
サーカス団員の小人ヴィノドを介し、遺伝子サンプルを集めようと
します。

しかしヴィノドは血液採取を拒否、そしてサーカスで事故に遭いサーカス
を退団、その後、小人でも運転できる「方法」を編み出し、「ダー警部」
シリーズに主演する映画スター、ジョン・Dの運転手をやることに。
このジョン・Dとは、ファルークにとって弟とも息子ともいえる存在で、
産まれてまもなく母親に捨てられ、ファルークの両親のもとで育てられ
ます。
そして、人気シリーズ映画「ダー警部」の脚本を担当しているのは、なんと
ファルークなのです。

この映画は、インドの複雑に入り組んだ宗教問題を扱ったりするので、
なにかと物議をかもします。最近では、映画を真似た殺人事件が起こったり
して、そしてとうとう、ボンベイの会員制高級クラブ「ダックワース・クラブ」
内で殺人事件が発生、被害者の口の中に、ダー脅迫のメッセージが・・・

ファルークは、ある出来事を思い出します。それは20年前、突然キリスト教
に改宗した衝撃的な(本人にとって)身体の“異変”の起こった前後、ある
殺人事件に出くわすのですが、その20年前の事件と、クラブ内で起きた
事件には、ある繋がった“何か”があると考えたファルークに・・・

さらにファルークには悩みが。じつはジョン・Dには双子のきょうだいが
いるのです。彼らの母親は、インドで双子を出産、なんと「片方」だけを
連れてアメリカへ戻ってしまったのです。
その片方が、なんとボンベイに来るというのですが、さて、ジョン・Dに
どうやって話せばいいものか・・・

物語上の現在進行形からいきなり過去の回想へ話が飛び、そしてまた戻り、と
目まぐるしく動きまわります。その中で小出しで語られる、登場人物の出自、
過去、人生を変える出来事。

そして、インドという国の、あまりに独特な世界を、時にリアルに、時に
幻想的に描きます。そこにあるのは「ただ、インド」なのです。

インドに在住しているわけではないファルーク、トロントでも、帰化したとは
いえ、何度も理不尽な差別にあいます。自分の居場所はどこか、帰るべき場所
とはどこか、アイデンティティに苦悩。
歩み続けていた足を止め、ふと「なぜ」と思ったときに、人は「異邦人」を
感じる、とはアルベール・カミュの言ですが、ファルークはまさにどこへ行こうと
異邦人を感じます。彼の帰るべき場所とは?そこは心の中に常にあっても、たとえ
視界に入っていても、本人が気付いていないだけなのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェフリー・アーチャー 『運命の息子』

2010-07-28 | 海外作家 ア
『運命の息子』は、ジェフリー・アーチャーお得意の「サーガ」と
呼ばれる、主人公(ふたりの)が生まれてから、年代記のように
書かれているもので、「ケインとアベル」や「チェルシー・テラスへ
の道」なども同じくサーガ。

保険外交員のマイケルと教師のスーザン夫婦に、待望の赤ちゃんが
できます。そして、産まれてきたのは元気な男の子の双子。
両親は、ナサニエルとピーターと名付けます。

同じ日、同じ病院では、製薬会社役員ロバートも、我が子の誕生を
心待ちにしていました。というのも、妻のルースは過去に流産し、
おそらくこれが最後のチャンスと医師に告げられていたのです。
どうにか男の子を出産し、安堵するルースとロバート。
しかし、数時間後の夜明け頃、新生児室に見回りに行った看護婦の
ヘザー・ニコルは、ルースとロバートの男の子が息をしていないのを
発見。そして、「魔が差した」のか、同じ日に産まれて、同じく新生児室
にいた双子の片方を、ロバートとルースのほうに入れてしまった
のです。

マイケルとスーザンは、双子のひとりピーターの夭折に嘆き悲しみます。
そして、残ったひとりナサニエル(ナット)を大事に大事に育ててゆく
のです。

ロバートとルースのダヴェンポート夫妻の待望の男の子フレッチャーも、
元看護婦で乳母のヘザー・ニコルの愛情こもった世話のおかげですくすく
と育ちます。

ナットとフレッチャ-は、やがて別々の高校に進学、そしてフレッチャーは
名門イェール大に、ナットはコネチカット大に進みます。
ここに、やがてふたりにとってのライバル、ラルフ・エリオットという人物が
出てきて、ナットがイェールに進学できなかったのはラルフのせいで、その後
フレッチャーとも関わりが出てきます。
こいつが、まあ嫌な男でして、なにかというと二人の足をすくうような行動を
影に日向に、ネズミのように狡猾にしやがるのです。

アーチャーの人物描写があまりに上手なせいで、登場人物に容易に感情移入でき、
喜び、怒り、悲しみを共有するといいますか、ラルフが憎憎しく思えます。

時はベトナム戦争。ナットのもとに召集令状が届き、彼は志願します。しかし、
世論もそうですが、同世代、特に大学生たちの間ではこの戦争に疑問視する向き
が大勢となりつつあったのですが、ナットはベトナムへ派遣され、名誉の負傷を
受け、帰国後つかの間ですが地元の英雄となります。

フレッチャ-のもとには召集はこなかったのですが、新聞に勇敢な兵士が記事に
なって、なぜかフレッチャ-はこの青年兵士が気になります。

その後、ナットはニューヨークの金融関係へ、フレッチャ-は大手法律事務所へと
就職。しかし、ふたりとも、ほぼ時期を同じくして、キャリア途中で辞職します。
そしてナットは地元に戻り、学生時代からの親友トムの父親が会長の銀行に入社、
フレッチャ-は、妻の父で上院議員ハリーの引退に伴い、州選出の上院議員選挙に
出馬するのです・・・

大河ドラマのようなふたりの男の年代記あり、ナットにかけられたある男の殺害容疑
の裁判での法廷サスペンスあり、1冊で2度3度おいしい気持ちになります。

なんといっても、ラストの、「ん?」というような締めくくり方。物語を、よーく、
よーく読んでないと、このオチは不完全燃焼で終わってしまうでしょう。
それにしてもイジワルというか、人を食ったようなというか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルナール・ウエルベル 『蟻(アリ)』

2010-05-10 | 海外作家 ア
はじめは、昆虫生物学かなにかの本かと思い、裏表紙を見てみると、
読者からの好評価の反響、さらに各紙誌絶賛の書評もあり、ああ、
これは小説なんだと分かり、読んでみることに。
タイトルどおり、主人公は「アリ」なのですが、著者は幼少の頃から
アリに魅了されていたそうで、その生態の描写は多少のフィクションも
織り交ぜてはいるものの、リアリティある迫力で、読むものをミクロの
世界に誘い、飽きさせません。

フランスのパリで鍵の会社をクビにされたてのジョナサンと妻のルシー、
息子のニコラは、亡くなった伯父エドモンの遺産が手に入り、古いアパ
ートに引っ越すことに。
しかしジョナサンはエドモンのことをあまり憶えておらず、祖母に聞く
と、子供のころからそれは変わり者だったとのこと。
そして、祖母はエドモンからジョナサン宛ての手紙を手渡します。
そこには「何があっても絶対に、地下室には行ってはならない!」
という、たった一行の文章があったのです。

引っ越したアパートには確かに地下室に行く扉があり、伯父のメッセージ
どおり、ジョナサンは自分も家族も誰も地下室に行けないように、封鎖
します。
しかし、飼い犬がある日行方不明になり、封鎖した地下室の扉が少し開いて
いて、犬は地下室に行ってしまったということで、ジョナサンは地下室に下
りてみることに。すると、階段の途中、血まみれになって死んでいる犬が・・・

一方、パリ郊外のフォンテーヌブローの森にある、赤アリの都市“ベル・オ・
カン”での話が、人間界の話と交互に描かれていきます。
ベル・オ・カンはこの地域の六十余ある都市連合最大の「巣」で、その近く
には赤アリの敵である小型アリの都市や、宿敵白アリもいて、さながら戦国
時代の様相。
ベル・オ・カンに住む327号(327番目に親アリから生まれた)は、遠征
の帰り、仲間たちが死んでいるのを発見、それは未知の兵器によるものと考え、
かつて「ケシの丘の戦い」で小型アリとの壮絶な戦争があって以来の、ふたたび
小型アリとの戦争が始まるかもしれないと、急いでベル・オ・カンに戻って報告
するのですが、兵隊アリたちや見張りアリたちは327号の言う事を信用せず、
327号は女王アリに直接報告することに・・・

一体、地下室には何があるのか。ジョナサンは地下室に下りてみることに。
はじめの調査から戻ってきたジョナサンは明らかに様子がおかしく、妻ルシー
は、地下へ下りるのをやめさせようとしますが、ジョナサンはふたたび地下へ。
そして、ジョナサンは戻ってこなくなり、ルシーも夫の安否を確認しに地下へ
行き、また戻ってきません。警察と消防隊もこの部屋の地下室に下りて、その後
上がってくることはありません。
孤児になってしまったニコラは孤児院に預けられてしまいます。

物語は、人間界の地下室にまつわる話、アリの世界の話、そしてジョナサンの
伯父のエドモン・ウエルズが生前書き残した「相対的かつ絶対的知識のエンサイ
クロペディア」の、アリの生態に関する説明、その他、地球の大自然の観察があ
いだあいだに書かれていて、読み進めていくうちに、だんだんと人間界とアリの
世界が混同してきます。

地球が誕生して、陸上に動物が進出して、さいしょの「社会組織」を形成した
のは、アリの祖先である生物で、かれらは弱く、捕食の対象でしかなかったの
ですが、他の昆虫とちがって、たとえばトンボのように羽を持たず、カマキリ
のように武器を持たず、ガのように擬態もせず、生き残る術として「集団で行動
しよう」ということになったのです。

社会組織すなわち「群れ」とは、そこに暮らす仲間たちが幸せに生きることが
基本目的ですが、中には利己的な目的で動くものが現れて、内部崩壊、はては
絶滅となってしまいます。
しかし、過去の間違いを教訓に「社会組織」はさらにより良い暮らしを手に入れ
ようと模索し、少しずつですが前進していると信じたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェフリー・アーチャー 『プリズン・ストーリーズ』

2010-03-30 | 海外作家 ア
この作品は、著者ジェフリー・アーチャーが2001年から
2003年まで、刑務所に収監されていたときに、囚人仲間
から見たり聞いたりした話を小説にした短編集。
刑務所内での話はノンフィクション小説として出版されて
いるものの、そのノンフィクションでは載せられなかった、
ちょっとした話をまとめて、ほかにも、海外の面白話など
もあります。

それぞれがユーモラスで、シニカルな作品になっているのです
が、ちょっと気になるのが、中には、ある一定レベル以上の英語
を理解できるか、あるいは海外の文学に詳しい人でなければ
その意味がわからない「オチ」があり、はたしてどれだけの人
が分かるのかと余計な考えを持ってしまいました。

それは、「もう10月?」という作品で、アイルランド人で出稼ぎ
でイギリスに来るも、仕事がなく、寒い冬をしのぐために故意に
軽罪を犯して10月から春の間、収監される、といった話で、この
オチが、
「リバプールの建築現場で働いてるときに、いまいましいイギリ
ス人現場監督が、偉そうに梁(ジョイスト)と桁(ガーダー)の違い
を知ってるか、と聞いたんだ。でももちろん知ってたさ、ジョイス
は『ユリシーズ』を書き、ゲーテは『ファウスト』を書いたんだよ」

かなり難易度の高いというか、高尚なというか、もちろん知っていれ
ば「ニヤッ」とすること請け合いなのですが。

他の作品「めざせダウニング街10番地」でも、イギリスの政党の
党首選挙に3人の立候補が出て、ひとりが本命のスマートな候補、
もうひとりが若いだけが取り柄の候補、そして最後に高齢の候補。
ある新聞がこの3人の候補者を豆に例えて、本命が「ストリング
ビーン(さやえんどう)、若いのが「ジャンピングビーン(ぴょんぴょん
豆)」、そして高齢の人が「ハズビーン(過去の人)」という、こちらも
ちょっと難易度の高いネタ、というかシャレ。

さまざまな知識を吸収することでより理解が深まるものもあるので、
学校での勉強以外にもまだまだ勉強は必要だなあ、と思わされました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブライアン・オールディス 『スーパートイズ』

2010-03-04 | 海外作家 ア
SF作家であるオールディスが描いた短編『スーパートイズ』が
映画監督スタンリー・キューブリックの目にとまり、彼の中で
これは映像化しなければ、という想いがほとばしったのでしょう、
しかしキューブリックはこの作品を作る前にこの世を去り、そして
この作品を相続したのがスティーブン・スピルバーグで、彼の手
により「A.I.(Artifical Intelligence~人工知能~)」というタイトル
で映画化されます。

『スーパートイズ』は、近未来、デイヴィッドという名のロボットが
自分のことを人間だと思い、パパやママを彼らの子供であるよう
に愛するのです。
しかし、人間でもないのに人間のようにふるまうロボットに、ママ
は愛情を返してくれるばかりか、時にいらだつのです。
唯一のともだちであるクマのぬいぐるみ、テディはデイヴィッドを
なぐさめます。

言語あるいは思考回路の故障とみなされ、デイヴィッドはスクラップ
工場に捨てられてしまい・・・

『スーパートイズ』は、短編の3部構成となっていて、はじめの
作品「いつまでも続く夏」を読んだキューブリックが、これを
映画の冒頭にしてそれから物語を発展させてゆきたいという構想
があったそうです。たとえばピノキオのようにデイヴィッドを人間
にする魔法がどうのであったり。
そしてキューブリック亡き後、スピルバーグに2作目「冬きたりなば」
そして3作目「季節がめぐりて」を渡し、全体の構想を作り上げた
ということになります。

手塚治虫さんの「鉄腕アトム」といえば、勧善懲悪のロボットアニメ
という印象が強いのですが、原作の漫画では、マッドサイエンティスト
である天馬博士が失った我が子そっくりのロボットを作るのです。
それがアトムであり、しかしそれは我が子の蘇りではなくただのロボット
で、博士は気が狂いアトムを捨ててしまうのです。
そして捨てられたアトムをお茶の水博士が育てていく、という、いわば
アトムは近未来の孤児であるところから話ははじまります。
アトムは学校に通うのですが、自分が人間ではなくロボットであること
に悩み続けます。

『スーパートイズ』が発表されたのが1969年、「鉄腕アトム」は
それよりも前に発表されてアニメ化もされています。別にここで
オールディスがアトムをパクったかどうかを書くつもりはありませ
ん。どちらが先かを論じるならばアシモフのロボット3原則やチェコ
の作家チャペックの戯曲まで出てくるのでキリがない。
あくまで共通のテーマとして、ロボットの悲哀、拒絶された愛
を描いていて、新しい不条理、新しい哲学ともいえるでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイケル・ヴェンチュラ 『動物園 世界の終わる場所』

2010-01-19 | 海外作家 ア
マイケル・ヴェンチュラは、アメリカのコラムニスト、エッセイスト、
脚本家で小説家と幅広く活動し、前に読んだ小説「ナイトタイム・
ルージングタイム」という、ミュージシャン業界のドロドロした内幕
を描く内容で、これが面白かった、というか、視点と感性がユニーク
だな、と感じたものです。

『動物園 世界の終わる場所』は、中年の外科医アビーが妻と息子に
去られて、息子を動物園に誘うも、父親に対する尊敬は持たれておら
ず、どうせ一人で行けないから誘うんだろ、と小ばかにされ、ヤケに
なったアビーは動物園に一人で行き、そこで虎に話しかけられます。
そして虎の囲いの近くにいた女性、リーと出会い、アビーはリーに
惹かれてゆくのです。

アビーは、幼いころから「幻聴」のような、自分に話しかけてくる
存在に悩みますが、同じような症状を息子も持っていることを知り、
精神科医に連れていきます。

家庭が崩壊し、息子は心の病気に苦しみ、アビー自身は虎に話しかけ
られて頭は混乱しますが、虎のアドバイスと自由奔放なリーのおかげ
で、だんだん正気に向かっていきます。

動物園の動物たちに自分を投影し、ときに人間とはかくも愚かな存在
と嘆き、ときに囲いの中で過ごす動物たちに比べて人間のなんと自由
なことよと喜びます。ある種のアニマルセラピーともいえます。

「世界の終わる場所」とは、自分をノアに見立て、自分の肉体を動物
のパーツで形成した「箱舟」になぞらえます。
ここまでくると「ちょっと頭のアレな人」となるのですが、人間とは
そんなに高尚な種ではなく、サルとDNAが1パーセントしか違わず、
存在の意味や意義を見出そうとしますが、地球にとっては何がしかの
理由があるから人間は存在しているだけで、その理由とは、ほんの
偶然(気まぐれ?)で滅んだ恐竜や陸に上がれなかった海洋生物と
違いはないのでは。

つまり、地球の歴史にとって、人間の存在とは取るに足らない種
であるからして、あまり深く物事なんか考えんでよろしい、という
俯瞰的な哲学がこの本にはあるように思えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピーター・エイブラハムズ 『ザ・ファン』

2009-12-17 | 海外作家 ア
『ザ・ファン』は、ロバート・デ・ニーロ主演で映画化され、
たしか公開は10年以上前でしょうか、とても面白かった
と記憶していたのですが、つい先日、本屋で物色してい
ると、原作の小説を発見。
まだ読んでいなかったというのと、映画とは少し内容が
違う部分があるということに興味ひかれて、購入。

アメリカの(舞台は明らかにされてませんがおそらくボストン)
ナイフ会社に営業として働くギル・レナードは、街の野球チーム、
ソックスの病的なほどの大ファン。
厳しいノルマで心が腐りかけていたときに、ソックスに大物選手
ボビー・レイバーンが入団することに。
ある日ギルは、大事な得意先の営業をソックスの開幕戦に行って
すっぽかしてしまい、会社を解雇されます。
さらに、開幕戦には元妻と暮らしている息子と出かけており、試合
途中で息子を球場に置いたまま営業先に行ってしまい、球場に戻
るとすでに試合終了、息子は親切な人に家まで送り届けてもらって
おり、元妻からは息子に会わせないと告げられます。

荒んだ気持ちのギルは、リトルリーグをやっていた少年時代を心の
拠り所とし、故郷に戻ると、かつてのチームメイトと再会します。
しかし、そのチームメイトは窃盗を生業としていて、それに加担
してしまったギルは、とうとう自暴自棄になってしまい・・・

一方、鳴り物入りで入団したボビーは、開幕戦以降まったく打てず
とうとうスタメンから外されることに。
前のチームでつけていた背番号11はすでにソックスの他の選手が
つけており、譲ってもらおうとしますが断られ、そんな些細なことも
気にしてしまいます。
カウンセリングや医者に診てもらっても特に異常はなく、なかなか
スランプから抜け出せません。

ソックスは遠征でカリフォルニアに移動、そこで、試合終了後、球場
のシャワー室で、ボビーに背番号11を譲ってくれなかった選手が、
何者かに刺されて殺されてしまい・・・

ギルとボビーのそれぞれ別の人生と、やがて現れてくる接点を描い
ていて、ミステリーはほんのサイドメニューくらいの役割。
じつはソックスの選手を刺殺した犯人はギルなのですが、それから
チームは追悼の意もあって快進撃。
やがてギルはボビーにじわりじわりと近づいてゆくのです。

物語の合間に、ギルがよく聴くラジオ番組があり、リスナー参加で
ギルはたびたび番組に電話出演しています。
これが話の「ちょっと一服」的な役割を果たし、さらに物語上、事件
を解決するための「道具」しても使われていて、とても効果的。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェフリー・アーチャー 『十四の嘘と真実』

2009-12-09 | 海外作家 ア
『十四の嘘と真実』は、文庫サイズで30ページほどの短編と、
あとは数ページしかない短編の計14作が掲載されていて、ど
れも最後には「うーん」と唸るような、短かいながらも奥深く仕上
がっています。

なかでもこれがオススメというのが、「死神は語る」という、短編
と呼んでいいのか、わずか1ページの作品で、オリジナル作品
ではなく、古くは戯曲などで使われたことのある話だそうですが、
ちょっとした落語とも、いやいやこれは立派な短編小説だともと
れます。

バグダッドの商人が、召使いを市場に買い物に行かせます。
すると、召使いは顔が青ざめて震えながら戻り、
「だんな様、市場の人ごみの中で女にぶつかり、振り返って
みると、その女は死神でした。そして私を脅かしたのです。
馬を貸してください。死神から逃れたいので、サマラの町ま
で行けば死神に見つからないでしょう」
商人は馬を貸し、召使いは馬にまたがりバグダッドから逃げ
出します。
商人が市場に行くと人ごみのなかに死神がいるのを見つけ、
話しかけました。
「今朝、うちの召使いを脅かしたのはなぜですか」
すると死神は
「あれは脅かすつもりではなかったんです。わたしはただ
驚いただけなんです。じつは今夜、サマラの町で彼と会う
ことになっているので、バグダッドにいるのを見てびっくり
したんですよ」

ジェフリー・アーチャーをして「ストーリーテリングの技術とし
て、これ以上の好例にはお目にかかったことがない」と言わ
しめる、ちょっとぞくっとくるような、こんなに短いのに感動すら
おぼえます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・アーヴィング 『ホテル・ニューハンプシャー』

2009-09-13 | 海外作家 ア
アメリカ文学におけるジョン・アーヴィングであったりカート・
ヴォネガットは、日本でも学問の対象になったりするのです
が、こういった前情報のようなものが敷居を高くしているので
はないでしょうか。まずは純粋に「娯楽」としての物語を楽し
む、分析したり研究したりするのを否定はしませんが、どうして
も学問に扱う文学は高尚つまり難解、とする考えが読むことに
二の足を踏ませ、不幸にも排他的であったり閉鎖性を生み出して、
もったいない。

『ホテル・ニューハンプシャー』は、独特の世界観が紡ぎ出さ
れて折り重なって物語が形成されているので、読んだ人によ
ってそれぞれ違う印象を持つような作品なのではないでしょう
か。
登場人物は、物語を一人称(ぼく)で語るジョン、父と母、同性
愛の兄フランク、ジョンと愛し合っている姉のフラニー、小人症
という病気の妹リリー、難聴の弟エッグのベリー家が中心とな
り、父方と母方の祖父や学校の友人その他もろもろ、個性的で
設定というかそれぞれの相関がしっかりと位置付けられていて、
そして、この作品が「おとぎ話」だと評される(作者もそういって
いるらしい)ように、熊のステイト・オ・メインや飼い犬のソローと
いった動物が物語の重要なファクターなのです。

全体的な話としては、アメリカの田舎町の高校跡地にホテルを
開業させたベリー家が、その後かつての知り合いをたよって一家
はオーストリアへ移住、そこで第2次ホテル・ニューハンプシャー
を開業、しかしいろいろあってアメリカに戻ることになり・・・
ひらたくいえば、家族の成長物語なのですが、別の側面もあり、
フラニーが高校時代に同級生にレイプされ、その悲劇から立ち直
っていくといった話でもあります。

非現実的な話もあれば、きわめて現実的な話もあり、それが交互
に駆け抜けていくようで、ソリッドでシンプルなのか、ものすごく手
の込んだ複雑な仕上げなのか、この捉えどころの無さがそれぞれ
違った解釈となり、自分なりの解釈を探すという楽しみもあるのでは
ないでしょうか。

話の後半で、フィッツジェラルドの「華麗なる(グレート)ギャツビー」
が物語に関係してくるのですが、『ホテル・ニューハンプシャー』を
読む前に「華麗なる(グレート)ギャツビー」を読んでおくことを強く
お勧めします。2倍楽しめるかと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする