ちょっと前の話になりますが、年のせいでしょうか、身体が冬の寒さに耐えられなくなってきており、とうとう養命酒を買ってしまいました。とりあえず寝る前に付属の小さなコップで一杯(20ml)を飲みます。飲んですぐに体内がポカポカ熱くなったりはしませんが、冷えに負けない身体づくりができればいいかなと。「酒」というくらいですから、アルコール分が14%あります。ワインか日本酒くらいあります。一杯が二杯、二杯が三杯、そのうち茶碗でガブガブ飲むようにならないように注意。
以上、日常に潜む依存症の脅威。
さて、池波さん。この作品は上泉伊勢守という戦国時代の武将のお話。歴史の教科書に出てくるような主要人物というわけではありませんが、剣術の流派のひとつ「新陰流」の創始者です。新陰流といえば柳生一族じゃないの?合ってます。
戦国時代、上野国(現在の群馬県)、大胡城の主、上泉伊勢守秀綱。このあたりは長野業政という武将が治めています。戦国時代も中盤にさしかかり、天下取りは各地に登場した戦国大名のいずれかに絞られてきます。そうなってきますと、地方の小規模の豪族たちはもう自分が天下取りをしてやるという夢は捨て、生き残るために「誰の下につくか」を考えます。上泉伊勢守のいる上州の周囲には、甲斐の武田、越後の上杉、相模の北条という面々がいて、長野業政は上杉方についています。武田と北条は同盟を結んで「打倒・上杉」で上州、信州に攻め込もうとしているといった状況。
物語は、長野業政の次女、於富が婚約者の小幡図書乃介とふたりで乗馬デートをしているシーンからはじまります。この図書乃介というのは上州・国峰城主の小幡信貞の従弟にあたります。ちなみに信貞の妻の妹が於富。つまり長野業政にとって小幡家に娘ふたりを嫁がせるというのはそれだけ重要に思ってるということ。
この若いカップルをじっと見ている野武士たちがいます。どうやらただの覗きではなさそう。やがてふたりを囲みますが、於富は目にもとまらぬ早業で野武士たちをやっつけます。じつは於富は上泉伊勢守の門下生だったのです。
そんなこともありつつ、ある日のこと、於富は伊勢守に挨拶をしに大胡城へ。夜も遅くなったということで、於富は大胡に泊まっていくことに。するとその夜、伊勢守と於富は今風にいえば「一線を越えた」になるのでしょうが、伊勢守にすれば「弟子に手を出した」わけであって、これはマズイです。しかも相手は長野業政の娘で婚約中。本人の弁は「あの夜はどうかしていた・・・」
伊勢守は室町時代当時の「武道の聖地」であった常陸国・鹿島で剣法の修行をします。ちなみにこのときの指導者はかの剣豪、塚原卜伝だったとか。きびしい修行を終えて上州に戻った伊勢守は大胡の城主となります。
いくら城主が剣の達人とはいっても、地方のいち豪族にすぎず、長野業政に仕えます。業政も伊勢守を非常に頼りにしています。
武田・北条とのせめぎ合いが続く中、図書乃介が武田側に寝返ったという衝撃ニュースが飛び込んできます。はたして於富は無事なのか・・・
まあ、於富の件はさておき他はあらかた史実ですので、池波さん風に書くなら「ここでくだくだとのべることはあるまい」ということ。とはいえ、それじゃ書評ブログの意味が無いじゃんというわけで、特筆すべき(ことがら)をいくつか。この当時は稽古も真剣でやっていたそうで、あるいは刃の部分を覆った状態にして稽古していたとか。いずれにせよ危険なので、安全に稽古するために(竹刀)を開発したのが伊勢守という説。
旅の途中で、狼藉者が子どもを人質に取って小屋に立て籠もる現場にたまたま居合わせ、伊勢守が「私が子どもを助けましょう」といって弟子に頭を剃ってもらい僧侶のふりで小屋に握り飯を持って近づき「腹が減ってるだろう」と声をかけ、狼藉者が扉を開けたその瞬間に小屋に飛び込んで子どもを救った、という伝説。
冒頭では伊勢守(秀綱)と書きましたが、歴史上では(信綱)となっています。この(信)の字は武田信玄の信。大胡の城を明け渡して自分は旅に出るといって甲斐の国に入ってなんだかんだで信玄に会って、いたく気に入られて信玄から名前の一字をいただいたというわけですね。
あと「新陰流の創始者」ですが、伊勢守は近畿・大和国にある柳生の里を訪れ、主である柳生宗厳が伊勢守に弟子入りをして、伊勢守が編み出した「極意」を教えてもらいます。それが鹿島発祥の剣法のひとつ「陰流」をさらに発展させた「新陰流」。
のちに宗厳は徳川家康の前で新陰流を披露し、家康からぜひとも指南役にとお願いされますが、息子の宗矩を推挙します。宗矩はご存知の通り秀忠の剣の指南役となり、大坂の役では秀忠の命を守り(七人の刺客に囲まれるも一瞬のうちに倒したという逸話)、家光の代には幕府の初代「大目付」に就任します。
のちに「剣聖」と謳われるようになるほどの人物だと数々の伝説や逸話がありますね。そういえば、宮本武蔵が囲炉裏の前に座ってる塚原卜伝に斬り付けようとして卜伝は鍋蓋で受け止める、いわゆる「鍋蓋試合」が有名ですが、そもそも武蔵の生まれる前に卜伝は死んでるらしいですね。浪曲「森の石松三十石船」で「弁慶と野見宿禰が相撲を取ったらどっちが強い」というセリフが出てきますが、まあ脚色というかフィクションというか、当時の人はそれでやいのやいの言い合って楽しんでたんでしょうね。