先週の日曜日、関東南部は日中は汗ばむ陽気でしたがその次の日は一気に十二月の気温。それまで布団は毛布と薄手のかけ布団だけでしたがさすがに寒くて厚手の羽毛布団を引っ張り出しました。この羽毛布団、そこそこ高くていいやつなのでものすごくあったかい、のはいいんですが、猫が布団にもぐってきても七〜八分くらいしたら熱くて出てっちゃうので、それがちょっぴりさみしいですね。
以上、ネコと庄造と。
さて、井上ひさしさん。この本は伊能忠敬を描いた「四千万歩の男」という小説があって、それの経緯とか出版後の対談とかが収録されていて、まあ小説ではないのですが、それでも読み応えじゅうぶんです。
まず伊能忠敬さんの人物像から。江戸中期の延享二年(一七四五)、上総の九十九里沿岸、現在の千葉県九十九里町で生まれますが、十七歳で下総の佐原の名主、伊能家に婿入りします。婿入りしたときは伊能家の身代(財産)はそこまで多くはなかったのですが、忠敬さんは米の仲買などで商才を発揮(文中では「かなりあくどいことをして儲けた」とありますが)し、二十倍以上に増やしたそうです。佐原は天領(幕府の直轄地)で、領主から苗字帯刀を許されます。伊能忠敬の有名な肖像画で裃を着て刀を大小、というのはもともと武士の出ではなかったのですね。
そうして、五十で隠居します。そこで天文学、当時は星学といったそうですが、の勉強をはじめます。当時は鎖国状態ではありましたが、現在の北海道あたりにロシアの船がたびたびやってきていたそうで、幕府から蝦夷地へ測量に行くことになったのですが、じつは本来の目的は、地球の大きさを知るためだったのです。
まず、A地点から北極星の位置を調べて、そこから真っ直ぐ北上して北極星が一度上がった位置をBとして、その距離を測ります。その距離かける三百六十で地球の円周がわかるということで、なんとほぼ正確に計測されたそうですが、しかし問題があって、当時の日本は大名家とかが治めている領内は今でいう国であり、その境界線はつまり国境で、現在と同じく国境を超えるのはフリーでは無理でした。ところが幕府の仕事で測量をやってますと通行札を見せればハハーとなって大手を振って国境を通過できるのです。
またしても問題が。測量に使うものなのですが、縄や竹だと雨や湿気で長さが変わってしまうという難点があるのですが、そこで忠敬さんは自分の歩幅を使って距離を測ります。まあ昔の大工さんなども指先から肘までとか親指と人差し指とか自分の体を使ってやっていたそうで、何歩だからこのくらいの距離だとやってたそうですが、真っ直ぐ歩かなければダメなので、途中に水たまりや穴、さらに馬のウ●コが落ちててもあーこのままいったら踏んじゃうと分かっていても避けることは許されず・・・
そんなこんなで日本の海岸線をすべて歩き回ります。それがこのタイトルの四千万歩なわけですね。じつは完成の前に忠敬さんは亡くなってしまいます。残りの伊豆諸島は弟子が引き継ぎますが、なんとこの地図、幕府の図書館に貯蔵されます。そこであの、シーボルトが国外持ち出ししようとした事件が起こります。明治に入って正確な地図がほしいとイギリスの測量隊にお願いします。イギリス人たちはもともとあった日本地図を見せてくれといって、伊能忠敬の地図を見せるとあまりに正確な地図だったので自分らは必要ないわといって帰国します。
井上ひさしさんがなぜ伊能忠敬の小説を書こうと思ったのかというのは、日本人の寿命が伸びて老後の「第二の人生の過ごし方」が大事なテーマになってくるのではないか、伊能忠敬は老後、当時は隠居ですが、隠居したあとに大事業を成し遂げたわけですから、二人分の人生ですね。
二人分の人生、といえば、仕事もしつつ大学生(通信制ですが)もやってて、いちおうは二人分の人生のような生活を送っていますが、ハッキリいって楽しいです。おそらく忠敬センパイも楽しかったのではないのでしょうか。