晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

井上靖 『蒼き狼』

2022-06-08 | 日本人作家 あ

あっという間に6月になってしまいました。関東は梅雨入りしましたね。家の中で過ごす服兼パジャマとして作務衣を着てまして、サイズはMなのですが、自分にはちょっとだけ大きいような。まあ大は小を兼ねるという言葉の通り小さすぎて着られないということはありませんので別にいいっちゃいいんですが、そういえばシャツなんかでも同じMサイズでもメーカーによって大きかったり小さかったりがあります。

以上、味噌汁のお椀は大きいやつを使ってます。

 

さて、井上靖さん。中国が舞台の歴史ものがいくつかありますが、この作品はモンゴル。モンゴルといえばここ最近では相撲ですが、世界史の授業で出てきたのはモンゴル帝国。日本史の授業だと蒙古襲来、元寇ですね。

13世紀前半、一代でモンゴル統一、中国北部、中央アジア、アラブ圏まで征服したのが成吉思汗(チンギス・カン)。文中での表記は成吉思汗ですのでそれでいきたいと思いますが、この表記だとどうしても丸い鉄鍋でラム肉と野菜を焼いてタレつけていただく北海道の名物料理が浮かんできますが、名前の由来は(羊肉といえばモンゴル料理でモンゴルといえばチンギス・カン)というのが定説というか共通認識ですね。

幼名が鉄木真(テムジン)といって、ボルギジン氏族という部族で、全モンゴル部族の支配者の称号である汗(カン)の、いちおう本家筋にあたる家柄なのですが、鉄木真が生まれた当時は各部族が争っている状態。父親は勇者エスガイ、母親はホエルンといいますが、鉄木真の生まれる前、エスガイはメルキトという部族との争いに負けて、ホエルンはメルキトに連れさらわれてしまいます。エスガイはのちにメルキトからホエルンを奪い返すのですが、実はこのときホエルンはメルキトの男の妻になっていて、鉄木真が生まれたときには父親がエスガイなのかどうか確証はありませんでしたが、ホエルンは「この子の父親はエスガイに間違いない」と言い張ります。このことはのちにエスガイが亡くなったときに鉄木真が思わぬ形で知ることとなるのですが、これがのちの鉄木真の人格形成に大きく影響します。

鉄木真には弟が5人(うち2人は異母弟)と妹が1人いますが、出生の秘密を知ってしまったきっかけは異母弟が「父親がメルキトのお前はエスガイの後継者ではない」と鉄木真への服従を拒否したことで、鉄木真はこの異母弟を殺害してしまうのです。モンゴル人のルーツは蒼き狼と惨白い牝鹿から生まれたという神話があり、自分がモンゴルの汗になるためには狼にならなければならないと鉄木真は心に誓うのです。

鉄木真は17歳になり、ボルテという娘と結婚します。しかし、あろうことかメルキトの襲来に遭ってボルテが連れさらわれてしまいます。この当時の一番の有力者である、父エスガイと交流のあったケレイト部族の長トオリル・カンに助けを求め、トオリル・カンの盟友ジャムカとともにメルキト征伐に向かいます。無事にボルテを連れ戻したのはよかったのですが、なんということでしょう、彼女は妊っていたのです。

そして、ボルテは男の子を出産します。「名をつけて下さい」というボルテに向かって「俺の子かどうか判らぬ」と突っぱねます。今ならこんなことをSNSに投稿しようものなら大炎上。しかしボルテは「貴方の子ではないという証しはどこにもない、貴方の子です」といい、頭の中が混乱している鉄木真は「ジュチ」と名付けます。その意味は「客人」。将来この子も自分と同じ苦しみを持つ運命で、その苦しみから解き放たれるには自分自身が狼にならねばならぬという宿命を背負っている子に「お前も狼になれ」と心のなかで言います。

それはそうと、トオリル・カンとジャムカは駐屯地から引き上げようとしません。じつはこの2人、盟友とはいえ、どちらか先に引き上げたら背後から襲撃される恐れがあるとお互いにまったく信用していないのです。鉄木真は現時点でどちらかに属したほうが得策と考え、トオリル・カンとジャムカ両者に「同じ日に反対方向にこの地を引き上げては」と提案し2人は同意し、鉄木真はジャムカに付いて行くことに決めます。そしてジャムカと盟友の契りを結びます。やがてジャムカの配下の中に鉄木真の配下に移る者が現れ、気がついたら鉄木真の部隊はかなり大きくなり、そんな中、ジャムカから離反したというみすぼらしい老人が「神から鉄木真は全蒙古高原の王となる人だとお告げがあった」と預言します。そして、とうとう汗になることを宣言します。やがてジャムカとの戦いに勝った鉄木真は勢いそのままに中国の金国と戦争中のモンゴル民族にとって仇敵のタタル族を背後から襲ってタタルを滅亡させます。そして、父と慕うトオリル・カンと蒙古高原の支配者争いをしなければならない日が来て、この争いに勝ち、全蒙古の王となり、各部族の長から「成吉思汗」と呼ばれます。「盛大なる大君」という意味で、このとき44歳の成吉思汗はアルタイ山脈を超え、北はバイカル湖、南はゴビ砂漠そして万里の長城を超えていかなければならぬと心に誓い・・・

モンゴル軍の編成はまず末端が10人の小隊で小隊が10個集まって100人の中隊、中隊が10個集まって大隊となります。このような「階層構造」だと、情報や命令の伝達が各隊のリーダーに伝えればいいのでスムーズに行われます。

65歳でこの世を去るまでずっと他国との争いの日々。高麗との連合軍で日本に攻めてきたのは孫のフビライの代になってのことですが、最後の方で末子のツルイの息子としてちょろっと名前が出てきます。成吉思汗の時代の中国は金と南宋とに分裂していて(さらに西部には西夏があった)、成吉思汗は南宋には攻めませんでした。インド、クメール王朝、アラビア半島とビザンチン帝国、神聖ローマ帝国にもケンカを吹っ掛けることはしなかったのですが、勝ち目のない戦はしない(インドに攻めようとしましたが中断)のと、味方を極力失いたくないというスタンスで、しかしモンゴル統一からたったの20年弱でユーラシア大陸のほぼ全域を手中に収めるというのはたんに「機を見るに敏」だけではなかったと思います。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 伊能さんと高村さん | トップ | 六月なのに五月晴れ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本人作家 あ」カテゴリの最新記事