晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

井上靖 『おろしや国酔夢譚』

2020-10-19 | 日本人作家 あ
今月に入って初めての投稿。

「環境が変わって~」などという毎度おなじみの言い訳もそうなのですが、個人的な話をしますと、十月一日より通信制の大学に入りまして、休日や空いてる時間は読書というよりは大学のテキストを読んでおりました。
なにぶん働きながら勉強する苦学生なもので、趣味に時間が回らないのですが、まだ不慣れといいますか、まあそのうちペース配分というか時間の上手な作り方が出来てくると思いますので、ノンビリいきましょう。

というわけで、井上靖さん。

この作品は、江戸時代に大黒屋光太夫という人の船が漂流してロシアに着き、それから十年後に光太夫ともうひとりは日本に帰るのですが、だいぶ前に読んだ三浦綾子さんの「海嶺」という作品の主人公、音吉も漂流してアメリカに流された話で、光太夫ともうひとりは日本に帰国できたのに対し、音吉は帰国できませんでした。「海嶺」の音吉らは尾張の熱田の港から、光太夫らは伊勢から江戸へと向かう途中で遭難するという似たような境遇だったのですが、片やアメリカ、片やカムチャッカ半島。
この大黒屋光太夫という人物、じつはこの本を読む前から知っていまして、十一月一日は日本の「紅茶の日」でして、光太夫が当時のロシア帝国の女帝エカテリーナ二世の招きで紅茶を飲んだ日ということになっています。それが記録に残ってる最初に日本人が紅茶を飲んだ日、ということですね。

天明年間(一七八十年代)、伊勢白子の浦から、神昌丸という船が出帆します。船乗りは船頭の大黒屋光太夫はじめ十六人。駿河沖で嵐に遭い、舵が折れて、八カ月の漂流(この間に一人が死亡)ののち、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。しばらくすると島民がやってきて光太夫らを囲みます。
敵意が無いことを示すために船に積んであった木綿を差し出すと「付いて来い」といってるらしく、行ってみると、こんどはさきほどの島民とは別の人種が。これがロシア人で、彼らはラッコやアザラシの皮を求めてこの島に来ていたのですが、光太夫たちはこの時点では当然そんなことは知りません。

この島で過ごすこと一年、その間に船乗りは飢えと寒さで六人も亡くなり、生き残りは九人に。この間、日本人漂流者は島民たちの仕事を手伝ったりして、そのうち彼らの言葉も片言ですが覚えて、それから二年後、先述したロシア人たちの迎えの船が来るのを待ちますが、来たと思ったら船が座礁。こうなったら自分らで船を造ろうということになり、ようやく船が完成。なんだかんだで日本人九人は島に四年もいたことになります。

船はカムチャッカ半島のウスチカムチャツクという港に着きます。そこで光太夫らはカムチャッカ政庁の役人に連れられて別の船に乗り、ニジネカムチャツクという街に着きます。そして光太夫はオルレアンコフ長官の家に、他八人は秘書の家に泊まることに。ここでも長期間留め置かれ、その間に三人が亡くなり、生き残りは六人に。

一年後、六人は川船に乗り、カムチャッカ半島を横断し、オホーツク海を西に進んで、大陸のオホーツクという港町に着きます。そこから川を遡ってヤクーツクへ、そして次は陸路で、冬のことですから橇で移動、彼らが伊勢を出帆してから六年余り、イクルーツクに到着します。

この街で、光太夫たちは日本語を話すふたりのロシア人青年と出会います。なんと彼らは、光太夫らよりもずっと前にロシアに漂流した日本人の息子で、自分たちがロシア入りした初めての日本人ではなかったと知り驚きます。
ここで、光太夫らはイクルーツクの役人にお願いして、中央政府(サンクトペテルブルク)に帰国の嘆願書を送りたいと頼みます。そこでラックスマンという学者を紹介してもらいます。ラックスマンは彼らの話を聞いて、帰国嘆願書を出し、さらに「家にいつ来てもいい、そのかわり手伝ってもらいたいことがある」といいます。手伝いとはラックスマンの持っていた日本地図の違う箇所の訂正と、正確な地形や地名を書き込む製作。ラックスマンは地質学者で植物学者なので、日本という島国に非常に興味があり、国の機関である科学アカデミーと繋がりのあるラックスマンと出会えたことで、光太夫らに帰国の可能性が・・・

先述したように、光太夫はエカテリーナ二世に会っています。つまりサンクトペテルブルクに行って、帰国の許可がもらえたというわけですが、日本に帰国するのはもうひとり。では他の船乗りたちはどうなったのでしょうか。

ロシアも日本が他国(中国とオランダ以外の)との交易をしていない鎖国状態であったことは知っていて、しかし日本との交易を強く望んでいて、日本人漂流者たちを厚遇していたのです。そして当時の中央政府(つまり幕府)への親書を携えて、光太夫ともうひとりを乗せた船は日本へと・・・

日本史ですと、一八五三年に浦賀沖に黒船が「突如」やって来てそりゃあもう上へ下への大騒ぎになったという感がありますが、その前にもイギリスやロシアなどの外国船は交易を求めて日本に来ていました。その都度「外国との交易はできない」と突っぱねてきたわけですが、ペリーはちょうど幕府の求心力も落ちて日本国内がガタガタになろうとしていた頃にナイスタイミングで来たんですね。

寒くなってきたことですし、光太夫が飲んだであろうロシアンティーでも飲みますか。

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