ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

「間違のこと」

2015年05月20日 | 随想・日記

               

恩田逸夫氏が「四次元」114号に宮澤賢治の「八月二十七日 出生説への質問」なる論考を提出された。その翌月の115号「四次元」に、「誤謬の諸相(1)高村光太郎の『間違のこと』」と題して以下のような書き出しで掲載されている。

 宮沢賢治の出生日について、戸籍上と家の人の考えとで違うといわれていることに関心を持って、『八月二十七日説への質問』を書いてみた。ところがその直後、高村光太郎にもやはり出生日の正誤に触れている文章があるのを知って、たいへん興味深く感じた。勿論これは賢治のことについてではなく、自分の出生日をはじめとして、語謬の種類を挙げ実例を示したもので『間違のこと』と題する随想である。(以下は写真図でご覧ください)ー四次元よりー

       

 恩田氏の東京書籍から出版されている「宮澤賢治論」には「出生説」は1巻に収められているが、「誤謬の諸相」は3巻に収められている関連からか読者に読みおとされがちであった。

 誕生日に付いて石川啄木にもいろいろあった。 

    

角川文庫新訂版「石川啄木」(上左側の写真)の 金田一京助氏の誕生日の論は採りあげられず、「石川啄木全集第八巻」年譜(岩城之徳)ように、戸籍上に届けられた日が採用されて現在は上の写真の内容のようになっている。

余談であるが「賢治研究80号」に、奥田弘氏が「佐藤隆房『宮沢賢治』によれば」とある「70・10五版」は、すでに26年三月一日(合資会社冨山房発行)〈おそら4版〉に出版がなされていた。この〈4版〉本の発行日は、昭和26年3月1日で、年譜清六編で、出生日が8月27日と記されている。小倉さんが8月27日説を公表したのは、「昭和文学全集第十四巻宮沢賢治集が最初である」(洋々社宮沢賢治6)と記述しているが、27日誕生日を既に清六さんが決められて書かれていたのであった。

奥田氏の諸種の論も、確たる証拠の提出とは言い難い今日、賢治の誕生日も確実な証拠が無いのであるから、八月一日の戸籍上に正されたならばよかろうと思う。現在ならばたれの迷惑にも損失にもならないのであるならば、不確実にしておくよりもそろそろ啄木の年譜のように戸籍上の誕生に決められた方が良いのではと考えられる。

浜垣氏の「宮沢賢治詩の世界」は誕生日に付いて明快に記されている。コメント欄も必見である。

 高村光太郎全集からではなく、随想より 

    


「石造美術」の権威者

2015年04月22日 | 随想・日記

 

 「工学博士天沼俊一氏の設計した『塔の青写真』を、小倉豊文氏が送ってきた、その設計図通りに白ミカゲで造った」と森氏が記述している。さて、すでに他界している「天沼俊一博士」に頼」んだことは、どうも小倉さんの何かの勘違いであろうかと思われる。塔ができたのは事実であるが、誰でもが抱かれるであろう疑問は、見解の相違ではなく解明されないのである。それで私は以下のように思う。

 「当時の石造美術の学問的権威者」であるなら、天沼博士を師としてつかえ教えを受けた川勝政太郎博士ではなかろうか。 天沼俊一氏には「石磴篭」の研究はあるが、日本建築・日本古建築史家のエキスパートで知られた人物であるが、「石造美術の学問的権威者」であるならば、川勝政太郎博士であろう。「石造美術」の名を余に初めて公表されたのも川勝博士である。図面コピー(青焼き図面であろう)の策制は、おそらく当時の史迹美術同攻会の何方か(たとえば中西亨氏)であろうかと推測される。

      

 川勝政太郎著「石造美術」昭和十四年二月十一日発行 スズカケ出版部 (会誌「史迹と美術」も最初は同所から出ている)新版「石造美術」は(株)誠文堂新光社 昭和五十六年十一月十五日発行

    

 小倉さんの著書に「広島県古美術巡礼」や「山陽文化財散歩」がある。会誌「史迹と美術」は先月で八百五十号をこえているが、とくに関西方面での購読者会員が多く、このことは小倉さんもご存じであった。昭和三十年頃「瀬戸内海地域における地域社会と神社祭祀」のテーマ研究で、文部省科学研究費申請等々で多忙であったようである。だから間違えたのでもないであろうが森荘已池氏の論考が気になるところである。諸氏の見解・ご教授を乞う。 こんなことは宮沢家が青図面等を発表すればすべてが解決するのであるが。

 

  

 


賢治墓所「五輪塔」設計図の謎

2015年04月21日 | 随想・日記

          

        賢治墓所の五輪塔由来考雑感  (前回の続き)

 小倉さんの記述に「ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は『賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・』と話しかけて来た。」とあり、墓を作るならば設計図を送ると約束をして「そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。」とある。ところで昭和25・6年頃には「宮沢賢治の詩の世界」の浜垣氏も指摘しているが、天沼俊一は昭和二十二年には他界している。 如何してこんな謎がうまれたのだろう。この事に付いは私は小倉さんに聞く勇気がなかった。

 はなしは変わるが 「宮澤賢治と法華経」森荘已池の「賢治と法華経の関係」には以下のようでようである。(39~43頁)

      

真ん中の写真図の最後の二行に「五輪の塔は、その方の権威、工学博士天沼俊一氏の設計した塔の青写真を、賢治研究家、広島の小倉豊文氏が送ってきた。その設計通りに造った。」と見られる。小倉さんの文章と森氏の上記の内容が一致している天沼俊一氏、浜垣氏も疑問視しているが小生にも大いなる謎である。次回は川勝政太郎氏の五輪塔にふれたい。

              (間違い語句一部訂正しました  言う⇒思う等)


宮澤賢治墓所「五輪塔」随想

2015年04月19日 | 随想・日記

                       

  いつだったか小倉さんとお会いしたときである。川勝政太郎さんの話におよんだ。「なんでお前は川勝をを知っているんだ」と言われた。

 「日本石仏協会」の総会に花巻から島二郎さんが出て来られた時には、会場がわたくしの住まいに近かったこともあり会の後によく連絡がありイッパイやった。ある時などは窪徳忠の日本学術振興会「庚申信仰の研究」などの話におよんだ。その影響もあってかわたくしのところには川勝政太郎の「石造美術入門」や「日本石造美術辞典」があった(川勝政太郎の著書はそれ以前からだったかも知れないが)。川勝さんのことや「史迹と芸術」にも話が及んだことがあった事を小倉さんとお話をした。その後の話に付いてどんなことを話たかは忘れたが、或る時の「賢治研究会」の会場で、小倉さんが「新修・全集」の「イーハトヴ通信第五巻月報8」=イーハトヴ地理8=に五輪峠高原の五輪塔にふれて、「花巻市の身照寺にある宮沢賢治の墓は、この五輪の塔をうつしたものであるという」この記事にえらく立腹して抗議をされた事があった。小倉さんは「四次元」創刊号と8号9号とに「五輪峠」の論考があり、また五輪塔にも大変想いを寄せていた方だったとわたしは思う。

 話の前置きはこのくらいにして、賢治墓所の五輪塔由来考私感に移ろう。早速本題に入るのですが、まずこの「賢治墓所五輪塔」に付いての最初の出薯記事は、普通社発行の「宮澤賢治と法華経」(昭和三十五年二月十二日発行)の『森荘已池 賢治と法華経の関係』(41頁)である。それ以前の記事は佐藤寛さんの「四次元」の何処にも記されていない。その後の記事は管見では洋々社発行昭和五十七年六月十五日「宮沢賢治第2号」に、小倉さんの「二つのブラック・ボックスー賢治とその父の宗教信仰」の後半である。以下のように書かれている。

 賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、ニ十回記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無名の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代用的造形でもあったからである。

 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治が勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮澤家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治の墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然ととしたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころのことであった。  つづく


紛らわしい「羅須地人協会付近略図」=賢治聞書

2015年04月14日 | 地図

 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料年譜篇』337頁に、菊池正『賢治聞書』からとして「羅須地人協会付近略図」が採りあげられている。「昭和四七年十月一日付き」と括弧内に記されているが、その後に「昭和二年当時の年齢」云々とあり、この「略図」が当時の「別荘付近略図」に間違えられやすい。

 菊池正の「賢治聞書」は以下のようなガリ版刷りであるが、詳細は大内秀明編著 「賢治とモリスの環境芸術」(有)時潮社2007年に出ているので興味がおありの方はそちらを見て戴きたい。

               

 賢治が桜で「羅須地人協会」とした昭和初期当時は以前にも紹介した。伊藤克己は父熊蔵と一緒に生活をしていたので、「賢治聞書」や「新校本」記載されている様なこれらの家はまだ無かった。またこの聞書には「先生が仂いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います」や「近所の人たちでさえ耕作することを好まなかったようです。」などと有るが我が家ではその近所に畑があった。伊藤与蔵が間違えたのか菊池が聞き違えたのかは分からないが、どうも聞き書きとしても誰かが書いたものにしても、よほど注意・その内容を心して読まないとゝ最近特に思う。


荻堀橋

2015年02月27日 | 地図

 「ワルトラワラ・第38号」(2015・2・1発行)を賢治研究者のA先生からいただいた。その122ページに

 「●賢治周辺の聞き書き18 賢治エピソード落穂拾い 第二十一話 荻堀橋と安野橋 」と題して泉沢喜雄氏が書かれていたので、わたくしにとっては懐かしい場所なので拝読をした。泉沢氏は花巻の方のようですので、わたくしのこれから書きますのは蛇足です。

 豊沢橋と荻堀橋との中間ほどに、砂利を運び出すための道路に沿って川原に下りる馬車道が作られていた。地図で言ふ荻堀と豊沢川の土手までの川原の草原が、佐藤隆房や関登久也の本に書かれている「エピソードの舞台」であった。

 荻堀橋から約150m程の上流に、小川と少し高くなっていた小笠原農園の間に、我が家で地主から借りて耕作していた稲田が有った。この小川は「こおほね」等の良く生えていた湧水の小川で清流にふさわしい小川であった。南側の斜面崖伝いには、東北本線鉄橋ちかくまでクルミの木の古木に、夕焼け近くになるとカラスの大群が山にかえっる途中の集合休憩地であった。

 この荻堀橋は南部叢書(第九册)「二郡見聞私記」(144・242p等)には「扇子堀」橋とある。

 


河本緑石の年賀状

2014年12月26日 | 地図

前回のブログに、 宮澤賢治と「アザリアの友たち」アザリア記念会事務局長・向山三樹氏よりコメントをいただいた。その全文は以下のようなものである。序でであるからわたくしのも載せておく。

 

  河本緑石研究会を拝見して

 保阪嘉内住所 (向山三樹) 2014-11-03 20:41:12

 保阪嘉内とアザリアの友たちの交友に関心をもっていただきありがとうございます。ご指摘の件ですが嘉内の住所は当時の手紙では他は全て東長崎と記載してあり、次男の保阪庸夫氏にも確認しました。従って河本義行さんが単純に間違えたものと思います。砂鉄精錬と鉄工所も無関係に思われます。今後ともよろしくお願いします。保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会事務局長向山三樹

 

  河本さんが単純に間違えた? (ヤジュル) 2014-11-04 17:12:08

 向山様

コメント大変有難う御座いました。お礼申し上げます。

豊島区には、西武線の東長崎駅は在りますが、地名に東長崎は確か無かったと思いますが。当時は長崎仲町・長崎南町は在りましたが。東長崎がお解りでしたならご教示お願いいたします。

さて、東京には・豊島区には東長崎は無かったのです。 

わたくしも以前調べたこともあるのですが、宇津木令氏の「東京長崎物語」をご覧ください。http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/bird_eyes/start/w_n.htm 

河本緑石氏が単純に間違えたのではないのです。河本氏の名誉のためにも保阪家に有るのでしたなら、向山さん是非お教え願いたいのです。それから

 本緑石研究会 【長崎東or東長崎?】
この住所について
ロゴス古書さんのブログに http://blog.goo.ne.jp/rogosu123 「河本緑石の書いた保阪嘉内の住所が長崎東とあったので年譜の修正を」という指摘がありましたが、「アザリア記念会」の向山三樹さんから「他の手紙の住所は全て東長崎とあり保阪庸夫氏にも確認しましたが、河本緑石が単純に長崎東と書き誤ったものと思われる」とのコメントがありました。お伝えしておきます

 わたくしは「年譜の修正を」などとは書かなかった。ここでは仏教のように空を論じるのではなく、科学にそくした実証的で、かつ合理的な思考法の形成過程を望みたいものと思っただけである。

 

 (地図 東京都豊島区町名の由来抄 より)


河本緑石研究会を拝見して

2014年10月30日 | 地図

 一週間ほどまえ「河本緑石研究会」がFacebook 写真覧に保坂宛のはがき写真等を発表されていた。

保坂嘉内宛河本緑石書簡⑤は、昭和8年1月5日 東京市豊島区長崎東町三ノ八0七であった。

  昭和八年ころの地図  現豊島区の地図の一部  

旧長崎東町の三は一部現高松一丁目である。年賀状の宛先住所は「岩囗鉄工場」内の住所と思われる。

保坂年譜によると この頃「アミノ酸醤油・砂鉄製錬など農村副業の研究を行う」とある。砂鉄製錬とこの住所内の鉄工場との関連はわたくしには解らないが、雑司ケ谷に転居する前の事のようである。

(現在の地図上では 高松一丁目「千川中学校」下側の{}とある一画)

 一部年譜には、「昭和七年三月豊島区東長崎に転居」とあるがこれは間違いであろう。東長崎と長崎東は場所が全く異なる。

        追記 拡大画像 11,2日  二字訂正 高松一町目の町を丁に。


ミニコンサート

2014年09月29日 | 地図

http://blog.livedoor.jp/tohokunoumin/archives/40388584.html

こちらもどうぞhttps://twitter.com/ecofarm_makino


こんにやく「推論」

2014年07月30日 | 随想・日記

  

 こんにやくの

 す枯れの茎をとらんとて

 水こぼこぼと鳴る

 ひぐれまぢかの笹はらを

 兄弟二人わけ行きにけり

            文語詩 未定稿 [こんにやくの] より

 

 「校異」によると、「冬のスケッチ」第ニ四葉の章に手入れしたものであると言う。

 

 小野隆祥さんと佐藤勝治さんが「冬のスケッチ」関連に付いて、ご両人の考えが異なったときだと思うのだが、どう云うわけかわたくしが小野さんからコンニャクに付いての問い合わせのお手紙を貰ったことがある。トシさんが入院したことがある東大分院の古い建物の一部(南東裏・病棟?)の写真と、その斜め前庭に生えていた大木の写真とを送った時だったと思う。

 わたしは花巻で「こんにゃく」を食した事はあったが、蒟蒻の生えている実物は見た事が無かった。たぶん当時岩手では蒟蒻は栽培も野生もなかったと思う。東京に住むようになって群馬県の下仁田や埼玉県の秩父地方に出かけたときに、あの異様な茎の「こんにゃく」を初めて見た。ところで賢治の行動先で「水こぼこぼと鳴る 笹」があるところとはいったい何処だったのだろうかと考えたことがあった。

  「まむしぐさ」も「天南星テンナンショウ」も「こんにゃく」に何処となく似ている。どちらも「里芋科」であるからであろう。子供の頃、我が家の東南端崖ふちの上の所に、「まむしぐさ」が数株植えてあった。ねんざなどをしたときにその茎?を擦って貼り付けるのだと祖母に教わった。この茎は蛇より気持ちが悪いと思ったものである。木村陽二郎監修「図説草木名彙辞典」(柏書房発行)によると「まむしぐさ」も「てんなんしょう」も蛇蒟蒻の別称と記されている。わたしは、賢治はこのどちらかを「こんにやく」と詠んだのかと考えていた。

 あるとき清六さんにこの文語詩の[こんにやく]について伺ったら、「これはフィクションでしょう」とのことだった。小野さんとの手紙のやり取りから随分時日が経ってからのことであった。

 わたくしは哲学も禅も解らないが、「蒟蒻道」なる語句を最近あるところで拝読したので蒟蒻問答ならぬこんにゃくについての思い出でのメモである。

 

   推論

      推論というものは、既知の事実を考察することによって、未知の事実を発見することを目的としている。したがって、推論は、真なる前提から出発して真なる結論に到達するかぎり、よい推論である。要するに、推論の妥当性の問題は、まったく事実にかんする問題であり、たんなる思考にかんする問題ではない。   パース 上山春平訳

 


賢治の赤いトマト

2014年07月28日 | 自然科学

 平来作「ありし日の思い出」(草野心平編「宮澤賢治研究」)の中に「忘れがたい事」として「羅須地人協會」なる一文がある(274p)。

  春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくつて色々な花を植えられた。

  先生はいつも自分が何処かへ出かける時は、小さな黒板に必ず行先や帰りの時間をしるされて出かけるのであった。

  いつか宅に遊びに行つた時不在であつたので、黒板を見たら畠で働いて居る事がかゝれてあつた。早速畠に逢いに行つたら、先生はチューリップの手入れをして居つた。

  先生は仕事を終へてかへり、縁側に腰をおろして二人で色々と語り合つて居る間に、昼飯時間となつた。先生はそばに赤くなつて居るトマトを四つ五つナイフで採つて私にくれた。・・・・・・・前後略。

 平のこの文章では「チューリップの手入れをして」居たのは何月なのかは良く解らないが、「赤くなっていたトマト」の時期なら九月ごろであろうか。  佐藤文郷のこと の中程の文をもう一度お読みいただきたい。

〈大正七年八月一日東北6県農事試験場長会議を八戸分場に開くことになつたので何か珍しいものを作る様にとの命令でであった。それで場長と相談して先ず玉蜀黍と蕃茄を出すことを計画し成功したので場長から賞められた記憶がありますが、其の頃東北地方では露地で8月1日までに蕃茄(注トマト)の完熟は出来なかったらしく、全く今昔の感がある。〉

平の 「春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである」とはどんな意味だったのか。そして昭和二年の事だったのかも解らないのである。露地の植え込みは、チューリップはヒヤシンスと同じ季節の9.10月頃に行うのであるが、昭和二年か三年の事であったのか。賢治の「MEMO FLORA」ノートには、ヒヤシンスやグラジオラスの球根に付いてのメモはあるが、チューリップの球根は定かではない。平の「羅須地人協會」は、「先生は農学校を辞し花巻の東南の八景と言う一角に自分一人の家を建ててしばらく暮らしたのであった」とあるが、自分一人の家を建てたのではない、宮澤家の別荘として建てられたのであることは周知の事実でだし、春の北上川ほとりの砂畠でチューリップを見たのかどうかはわたしは疑問をかんじる。

 

  


佐藤文郷のこと

2014年04月26日 | 自然科学

 佐藤文郷のことが気になっていた。 「宮沢賢治とその周辺」(川原仁左エ門編著)『「農界の特志家」(佐藤文郷)301頁~』に見られたからである。また「新校本宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料篇360頁」にもとりあげられているからでもある。何かで佐藤のことに付いて記した文を読んだ気がしていたのだが古いことなのでその本が思い出せなかった。整理をしていたら見つかったので紹介をしたい。

               八戸分場時代の思い出  

                                平川 甚四郎

 八戸分場は本場が青森市石江から黒石へ移転にきまったので、南部地方へも分場設置の要望がでた。当時当局としては尻内地区を目標に物色したが敷地と経費の関係で八戸の旧南部城趾、今の八戸小学校の場所に決定した。そのためか土壌は砂利混りやら表土、心土は勿論作土は色々で試験に随分苦労したが反面作物の選定に都合よかった。水田は城趾の南下「長根リンク」の水下であった。

 試験地は田畑共余り広くないのに品種の比較試験を主に各種耕種法等に畑作は南部地方特産の大小裸麦、大小豆、粟、稗、蕎麦、菜種、玉蜀黍、馬鈴薯から各種蔬菜花等に至るまで優良品種の種苗の配布と耕種法改善の指導に努めた。それで南部三郡に亘り委託試験地を設け、之が調査指導にも乗り出すので仲々多忙であつた。職員は場長と私の二人で外に常農夫一人に見習生助手として当時長内孫太郎、前田直三郎、松原庸一、大村末吉、三浦儀一、佐藤多一郎等が居られた。事務室、農畜舎は南側に、場長官舎は正門(今の南部会館真向)の右側にあった。私の官舎が無かったので大正五年二月に就任して江渡旅館に下宿していたが、五月に世帯をもつたので常海町の船越香邸(当時群農会長、後に県農会長)の近所の寂しい所に借家して通勤したが、何分試験場の仕事は今時と違って朝は人夫の指導で六時には出勤、晩は晩で作業は日没までやり、その後後始末をして帰ったので帰るのがいつも夜八時過ぎになった。それに日曜として休めないとあつて新妻に一、ニ回逃げられることもあったが佐藤場長の母堂と奥さんに面倒を見て貰った事を今でも時折当時を追懐して笑って居ります。

 初代分場長は三戸町出身の盛岡高農卒で三本木畜産学校教諭から就任された、佐藤文郷技手で仲々の勉強家で試験計画から万端に亘り識見は高かった、殊に大正六年から全国的に育種(品種改良)に主力を注ぐことになったが、何分試験地は狭いので従来の試験も地方のために縮小する事も出来ず苦労した。

 佐藤場長は仲々の貴公子でお酒は強い方ではなかったが煙草はよく嗜むほうでした。趣味として囲碁、謡曲は熱心でその面で地方民と広く交友を結び信望があつた。当時の本場長は大脇正諄技師で県の勧業課長兼務で月に1,2回分場へも参られた。大脇場長は玉蜀黍が大好物で之を焼いて食べるので場長用として試験地外へ特に作ったものであった。

 大正七年八月一日東北6県農事試験場長会議を八戸分場に開くことになつたので何か珍しいものを作る様にとの命令でであった。それで場長と相談して先ず玉蜀黍と蕃茄を出すことを計画し成功したので場長から賞められた記憶がありますが、其の頃東北地方では露地で8月1日までに蕃茄の完熟は出来なかったらしく、全く今昔の感がある。大脇氏は大正8年から寒地稲作栽培の論文で博士号をとられ間もなく秋田県勧業課長兼試験場長に転任された。その時の記念に私は「農者国本」の一葉を揮毫して貰って書斎に掲額崇敬している。大正7年から黒石本場の中村胖場長代理は宮城県技師へ転任になりその後任として丹治七郎技師が参られたが中村氏は一ヶ年位で再度黒石本場へ復帰したので、丹治技師は八戸分場長として参ることになり佐藤分場長は大脇氏の斡旋で岩手県軽米の製麻会社の試験地の技師として分場長を退任された、佐藤氏も当県技手であったのでせめて技師(高等官)に昇格してからの退任であればと心ある者から惜しまれた。

 丹治分場長は1年位で米国シャトル大学へ留学のため退任、その後任として北大から佐藤弘毅氏が来任されたが之亦2年位で郷里福島県相馬農学校長に転任のため退任された。佐藤文郷氏は軽米の試験地に一年半位で辞められ岩手県農会技師就任され私も会議等で時々会って八戸分場時代を語ったが、岩手県農会在任4,5年で盛岡市で他界された。丹治七郎氏は米国から帰朝後 宮城県農事試験場長に就任、私も2,3回訪問した事があったが其後九州の熊本の試験場長に転任 水稲挽化栽培で名をなしたが丹治氏亦熊本で他界された。郷里は福島で未亡人は書道を教えている。

 私は大正9年春八戸分場から県の穀物藁工品検査所へ転任となりましたが当時は佐藤弘毅分場長在任中であったので私の分場在職中初代分場長佐藤氏、2代丹治氏、3代佐藤氏と3代に亘った次第であります。

 大正10年か、佐藤氏の後任に岩田豊技師が分場長に就任、間もなく分場は今の五戸町へ移転になった。

     (五所川原市役所)

         青森県農業試験場六十年史 昭和34年11月1日 発行   139頁より

 

  

 


「アザリヤ」と中村さんにくれた「実験花卉園藝」メモ

2014年03月17日 | 随想・日記

 

 「実験花卉園芸」初版は大正5年6月であるから、大正6年7月に「アザリア」第一号がでたというと何らかの関連があるのであろうか。文語詩一百篇「山躑躅」校異に「変種たしかにあり」と詠われているように、明治・大正時代の牧野「植物図鑑」には石楠科にみられるとうりであった。しかし牧野の「日本植物図鑑」(北隆館大正十四年九月発行)や東京博物学研究会編纂「植物図鑑」(初版は明治四十一年・大正十一年三月・十九版)には「azaiea」名は見られない。

  文語詩一百篇「山躑躅」の論考は小林俊子氏等を見られたい。

                

  こちらはおまけ⇒

(上巻からのコピーです) 


「賢治研究」70

2014年01月24日 | 随想・日記

             

         賢治研究70 Ⅱ・Ⅲ頁の写真

 先週表題の「賢治研究 70」を賢治研究会から送ってもらった。どういうわけかこの号だけがわたくしの手元に無かったのである。紛失か知人に貸すかしたので、無いとばかり思っていた。今度送られてきてずいぶんさがしていた70号の上記の写真を見て、確かにこの70号は私は見ていなかったのを知った。会が私の処には送付されていなかったのであろう。なぜなら「賢治愛読の園芸書3冊」の写真を見て驚いたのである。70号に中村ノブ氏(旧姓安藤・南城小学校第一回卒業生大正13年3月25日)が、賢治からいただいた本であるという。この三冊本はわたくしのところにもあり、この70号の写真をわたくしが見ていたなら、「わたくしの賢治蔵書ノート」に記して有る筈であったのであるが。

       右は上巻最初の挿絵

 わたくしは 「発行所褒華房 実験花卉園芸藝」三冊の、花壇に必要な当時としては新品種の花卉を列記してあるのと、「牧野植物図鑑」には見られない各行の英名及び別名や、項目書き出しの詩的解説文が、賢治でなくとも魅了される文であるから好きである。なんといっても新品種の解説と写真が豊富であるからでもある。

 70号を送られてきたその晩に「座談会 賢治像・賢治作品の評価をたどる」(164~193頁)をさっそく読んだ。入沢・杉浦氏等の発言には何かの機会があったなら思ったこと‥を語りたいものだ。


あけましておめでとうございます

2014年01月01日 | 随想・日記

  あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。