ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

良いお年をお迎えください

2013年12月27日 | 随想・日記

 

                良いお年をお迎えください

 

 

           http://www.youtube.com/watch?v=oTNxHo2f81c


陸中の隠念佛

2013年12月16日 | 随想・日記

   「旅と傳説」に掲載された「陸中の隠念佛」は、

森口多里著「町の民俗」の第五章 餘禄 「陸中の隠念佛」としても掲載されている(昭和十九年六月発行)。            

               

  以下のコピーは発行所三元社の「旅と伝説」からである。 昭和九年七月発行 九月号 「旅と傳説」に「陸中の隠念佛 北野 壽門(樋口正文)名で掲載されたもの。 

        

 樋口氏は「水沢市史 民俗編」「御内法(かくし念仏)水沢派」の執筆者である。(水沢市史6民俗第六章 民間信仰 第八節506~533頁 S53・12・28発行)

 

  [文一部訂正]    


旅客運賃表ー昭和七年ー

2013年12月15日 | 随想・日記

 

                

 


「隈」と「熊」のこと

2013年11月09日 | 随想・日記

             

 ずいぶん前の事である。清六さんの処へお邪魔した時である。熊蔵さんと圭吾さん(圭吾の字が違うかもしれない)の話になり、その時そして「隠し念仏」の話になった。筑摩書房の「31年版」と「42年版」の、「隠し念仏」関連についてであった。

 「憎むべき『隈』辨当を食ふ」と「隈」田を植ゑる」や(隈はしきりにもどかしがって)は、詠んでいる場所と人物が異なることにおよんだ。弁当を食ふの処は外台の川原での出来事で熊さんであるが、しきりにもどかしがっての最後から五行目の「城あとのまっ黒なほこ杉の上には」は小舟渡辺りから花巻城跡を観た作ではないかと云う事になった。小舟渡の佐藤ジッコに人物が改変同化されていると。それから話が進んで清六さんは、文語詩[秘事念仏の大師匠][一]の稿異に『憎むべき「寅」飯をはむかも』とあることなどから、随分気を使っていたようなので、『あまりにもあからさまなので「熊」を「隈」にかえておぎあんすたんすじゃ』ということだった。「31年版」と「42年版」は、そのために「隈」に統一されている。

 十字屋版の第二巻 文語詩稿 壱百篇 に関連(秘事念仏の大師匠)がでているが、「隈」に付いての関連詩稿は、「組合版」にも小倉さんの「角川版」にも載って無い。校本全集で初めて整記にでた。これらの関連詩は「鉛筆できれいに書かれたもの」のようである。

 ツイッターに 

入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月5日

@fladonogakobuta (続き)なるべき作業で、できるだけ早い時期に、新進気鋭の研究者の中から、「よし、それは自分が(もしくは、自分たちが)やってみせよう」という方が現れて欲しいものだとかねてから願っている。

 入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月5日

宮沢賢治作品の遺稿群については、校本・新校本全集によって、その逐次変化が厳密に跡付けられているが、それらの作品の作者没後の刊行物(とりあえずは諸全集)における収録本文や異稿の差異・変化を綿密に跡付ける作業は、いまだになされていない。これは、賢治作品享受史の重要な基礎と(続く)

 入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月3日

@signaless5 またまた念の為に申しあげますが、「隈」・「熊」に関連するどの詩稿にも、賢治以外の人の手による改変の跡は一切存在しておりません。

小生は研究者でも若くもない。入沢氏の記事を拝見してのメモである。清六さんからは色々なものを貰った。写真はその一つである。中身は原稿複写版十二枚である。

 


星めぐりの歌

2013年11月07日 | 随想・日記

 

 

                       星めぐりの歌 


つぶやき

2013年10月11日 | 随想・日記

 

   入沢康夫氏がツイートに、私にとってはたいへん耳の痛いことが書かれていた。

 

   自分のタッチする場をできるだけ「賢治が書きのこした物」に限って、伝記的な事実については、口を慎む事。

   これが私の基本的姿勢で、今日まで、まずまずこれでやって来られたと思っています。

   伝記的考証や穿鑿はまったくもって不得手で、気がのりません。

 

「穿鑿」は別にしても、賢治研究あらゆることについて氏の右に出る人はいないでしょうが、上記の言葉はわが肝に銘じたい。

 

 

 

 


「日本稲作講義」と「春と修羅」1

2013年09月30日 | 自然科学

     (画像はクリックすると大きくなります)

      

 川瀬の「肥料学」と永井の「日本稲作講義」は、『本当の百姓になる』決意をした賢治を観るときに、とりあげられて然るべき本であるが、「化学本論」や土壌学の本ほどには、研究者の対称にされていない。千葉明氏の「盛岡高農・関豊太郎教授から岩手大学農学部・吉田稔教授まで」は参考になる論文である。(ただし賢治の大正11年 「岩手県稗貫郡土性調査報告」の参考文献著書は、関豊太郎著「土壌学講義」の出版されたのが大正15年であるから、大工原銀太郎著「土壌学講義」・発行所褒華房その他であろう。)永井威三郎の「日本稲作講義」との連関は「『春と修羅』の『第三集』」の稲作にいくつかが詠まれているので、目次だけでも覗き観るくらいはされたいものだと思う。(「近代デジタルライブラリー」で著者名か本の題名を入力し検索をして、著書名{右側}か{目次・番号}かをクリックすると見られます。)詳細省略。追記尚「肥料学」に付いては「宮澤賢治イーハトヴ学事典」[ライフワークの発進2・3]等を参照されたい。

(下部に線が引かれている文字のところをクリックしますとリンク先が開きます)

 


農学校の教師を辞めてからの宮澤賢治ー購入された本代

2013年09月24日 | 随想・日記

       (画像はクリックしてご覧ください)

      

      

 上記書は 「宮沢賢治の読んだ本ー所蔵図書目録補訂ー 奥田 弘」の初頭にある蔵書番号(27)(28)。孰れも豪華本である。「肥料学」は定価9・50円 日本稲作講義の定価7・50円で、この本の初版は大正15年2月である。(この「日本稲作義」は賢治詩集の「第三集の時代」に購入された。羅須地人協会時代の解明に最も重要な書である。大工原著「土壌学講義」とあわせて後に触れたい)

 宮沢賢治は大正10年以降に買い求めた定価5円以上の書籍は上記の二冊と (44)河野著「代数的解析論」  5・00円昭和3  (106)「漢文大系」12巻×6.00円=72円大正14 (126)亀谷著「華厳哲学研究」5・00円大正11  計99円である。他に ① 5円以下計28・6円。② (64)全集世界地理風俗大系34巻×2・8円 計95・2円 昭和5 (80)東西素描大成16巻×3円計48円昭和4 (82)日本風俗大成10巻×3・5円計35円昭和4 (83)世界裸体美術全集6巻×3計18円昭和6 (84)現代漫画大観16円昭和3 その他全集物計400円を超える。

 宮澤家としての購入図書もあろうが、図書購入費としては大変な金額である。大正15年なかば以降の図書購入額はなんと690円を超えている


竜巻のこと

2013年09月06日 | 随想・日記

     

 竜巻のニュースを見ていたら、番組の解説者のなかには「日本では竜巻見られなかった」等の発言があった。

小川顕道著 「塵塚談」上之巻に、上野の不忍池で竜巻があったことが記されている。

同所竜巻のこと」として概略いかのように。

  同不忍池より天明年間(1781~1789 当時の解説あり)竜巻ありけり。佐渡、越後、越中の海中には、夏の日、竜騰ること度々ありと、その節は虚空より黒雲下り来れば、海中の潮水、滝を逆に掛けしごとくに逆巻きのぼり、黒雲中に入る、ー途中略ー その如く不忍池より黒雲逆巻きのぼり竜騰りしと見え、近辺家屋を損じ、火の見櫓など倒せしなり。ー略ー かく書きぬれど竜は雷にひとしく奇なる物、吾党のさらに測り知るところの非ず。  

 現今のようにではなかろうが、「津波」も「竜巻」も昔にもあった。無かったのは「原発」のようなものである。


定年数学教師の「宮澤賢治論」二冊

2013年04月28日 | 文学

  

  宮沢賢治の里から、大変ユニークな宮澤賢治論二冊が出た。 

                  

 著者鈴木守氏は、四・五年前まで岩手県の高等学校の数学教師をされていた方である。

鈴木氏は「羅須地人協会時代の宮沢賢治の真の姿を知りたい」との熱意から、「思考実験」をかさねられて「新校本宮沢賢治全集」や現在までの入手可能な参考文献を精査しての論である。両冊とも賢治の地元でなければ、なかなか解明しにくい問題点にきりこんでいるのが見事である。賢治フアン以外の諸氏にも一読をお勧めしたい。

     羅須地人協会の真実ー賢治昭和二年の上京ー   (160頁) 定価 1000円

     賢治と一緒に暮らした男ー千葉恭を尋ねてー     (90頁)  定価  500円 

 発行所 友藍書房   

注文は  〒 025-0068

     岩手県花巻市下幅21-11

     鈴木守         ℡0198-24-9813

鈴木氏のブログ こちらもご覧下さい→ http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku

 


小学館の「宮澤賢治」

2013年04月23日 | 随想・日記

 

                     

 市村の「宮澤賢治の歌」全文を紹介したが、戦時下の賢治観がかいま見えた論であった。「昭和十八年四月二十四日、靖国神社へ御親拜あるかしこき日の書」であると云う。

 さて、「宮澤賢治」のゴーストライターの件であるが、誰であったのか。桜の佐藤自宅に来られた人々のなかの誰かであろう。このなかには以前記したように飛田は不在である。事情に明るい森は、佐藤の「宮澤賢治」が出た翌年十八年一月三十日に小学館から、「装幀 絵 深沢紅子」で、同じ題名で出版されている。この二冊については色々と考えさせられるが、森では有り得ない。両書の違いもさることながら、尤適任者であるのは紅花(ママ)であろう。清六さんも森さんも佐藤の「宮澤賢治」には資料やアドバイスはされたであろうが、ゴーストライターからははずれる。(詳細はここでは触れない)

  『日本新聞年鑑』第一巻(大正10年版)。日本図書センター、1985年12月刊。p123

内容:「日本記者年鑑1921」『新聞及新聞記者』 [大正10年}10号、2巻9号(通巻12号)大正10年10月1刊の複製

佐藤紅歌(本名源一)については次回に記す。


市村宏「宮澤賢治の歌」

2013年04月15日 | 随想・日記

   

 

         

 

『書物展望』昭和十八年六月号に、市村宏の「宮澤賢治の歌」があり、以下のように記識されているところがある。本文は以下の写真をご覧になっていただくとして、冨山房から出版された「宮澤賢治」五版以前には市村の名はないが、「『宮沢賢治』のできた頃」と題して昭和四十五年四月二十五日が、一般の人々にはみられた。

               

 市村は「宮澤賢治の郷里岩手県花巻町を訪ねたのは昨年の冬の最中同地では旧正月を迎えるための暮市の最中であった。」とあるが、昭和十八年一月の二十日から二十五 六日ころ花巻に来たのであろう。佐藤博士の桜の自宅に、清六さんや森荘已池・菊池暁輝・佐藤紅花(歌)等「賢治の会」の幹部の方々が集まってみえたとある。そして賢治という人のいろいろな面が、「これらの方々の口から交々描き出されてそれをお聞きしたくて来たわたしには実になによりもたのしかった。またこの時はじめて佐藤紅花(歌)氏の漏れた故人の少年時代の逸話の数々が、隆房博士の名著、「宮澤賢治」の内容を一層豊富にしたことも特筆してよいことであろう。」とある。

 

 つづく

 

 

 


飛田三郎と「宮澤賢治」

2013年03月31日 | 随想・日記

   3月25日に「賢治の花園」をとりあげた。

 この「賢治の花園」で、著者進氏は、飛田三郎とのことを以下のように書かれている。

 

飛田三郎さんという方が書生として付けてもらっていた。

父はその方に口述して原稿を書かせ、昭和十七年九月に出版したのが「宮沢賢治」でした。

これが賢治の生涯を伝える最初の書籍だ。と記されている。(90頁の要約)

 

 「『宮沢賢治』序」には、昭和十四年二月脱稿して以来、再考と補遺とに日お送り、今日出版の日に会うことになりました。と 隆房が書いている。

 さて、ここでは飛田がライターであったかどうかである。

飛田は「宮沢賢治研究 1号(編集発行人村井勉1948・3)に、「思い出 1」の冒頭に以下のように書かれている。

  引揚列車とは名のみのこと。乏しい乍、必死と守り通した各自の荷物の間々に、定員以上に押し重なり。必要もない一つ一つの駅の空停車。その間に盛んな闇商人の割込み。等々、折角帰って来た内地に愛想が尽きかけながら、体力の脱落も著しかった。上野駅では、またしても普通の旅客と競争で、ホームを走りつゝ列車に乗った。そして暫く迫る寒さに、身をちゞかめながら一関の近くに来るまで、私は花巻の炎上を知らないでいたのだった。(事実はこの戦火の前日には父は死んでいた。それさいも知らずに私はいた。) 四月も近かろうとして凍みついている様な天象。薄明のうちに、しかも心なしか花巻の町は、甚だ不気嬾に、我等の一家を路傍に立たせた。

 また後半には、

 帰り着いた日、終日をねむり暮らして、次の日変わった町並を十年振りで私は宮澤さんに御伺いした。

とある。

 飛田は引き上げまでの十年近くは内地に居られなかった。そして飛田は、「旭ノ又小学校」に昭和二十三年から二十八年まで先生をされていた。

 昭和十四年ごろには、飛田は花巻にいなかった。なぜか進氏は虚言ともとれるような事を「賢治の花園」に記されたのか。

 それではいったいライターは誰であったのか。

  つづく

 


『宮澤賢治』ゴーストライター

2013年03月26日 | 随想・日記

         

佐藤隆房著『宮澤賢治』は、御子息進氏により「口述」は明らかになったが、初版の「序」に「昭和十四年二月脱稿」(6行目)とある。飛田についての疑問はいくつか考えられもするが、ここではゴーストライターは誰であったのかである。冨山房の市村宏氏が「『宮沢賢治』のできた頃」と題して29年近くも経過してからであるが、『宮澤賢治』昭和四十五年九月十五日第五版印刷に記されている。そのなかで注目されるのは、草稿を携えて訪問されたのは加茂儀一氏だと云う。加茂とのつながりのある人物とは誰か。そして初版の「後記」は、以後なぜか消されていた。

    

つづく


『宮澤賢治』のゴーストライター

2013年03月25日 | 随想・日記

   

           

     佐藤進著「賢治の花園」(地方公論社刊)に以下のように書かれています。

          父の冨山房版『宮沢賢治』

  私は幼少の頃、病弱でしたので、運動をさせるために書生さんを付けてくれました。飛田三郎さんという方でした。父はその方に口述して原稿を書かせておりました。それが昭和十七年九月に東京の冨山房から出版された『宮沢賢治』です。これは賢治さんの生涯を伝える最初の書籍となりました。90頁(以下略) 

 飛田は「宮沢賢治の読んだ本ー所蔵図書目録ー」の筆写稿と、文哺堂版『宮澤賢治全集』(昭9・10~10・9)刊行時の原稿浄書写をされた方であるが、宮澤家及び花巻に何時から何時まで居られたかについて、最近「みちのくの山野草」で、以下のように記されている。以下コピーでご覧いただくことにしたい。

・ 
《飛田三郎の略年譜》 
・明治42年生まれ。
・明治屋(関登久也の店)に勤める前は兵役に服していた。
・除隊になってからは明治屋に勤めていた。
・賢治没後にその遺稿の浄書等をした。
・「宮沢賢治蔵書目録」を作成(S9.10頃~S10.9頃までか)。
・昭和11?年4月 外川目の旭ノ又(ひのまた)小学校勤務。
・昭和11年5月1日、飛田自身編輯の『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行。
・昭和14年 台湾へ。7年間行っていた。
・昭和21年 花巻に戻り、その後再び小学校の先生になった。
・昭和22?年 大槌小学校着任。
・昭和23年3月『宮澤賢治研究1』に「思ひ出1」掲載。
・昭和 ?年 九戸葛巻町立小屋瀬小学校へ移動。
・山口小学校勤務(S27.4~S32.3の5年間)。
・矢沢小学校勤務(S32.4~S39.3の7年間)。
・寶閑小学校教頭(S39.4~S40.3の1年間)、退職。
・昭和44年8月『宮澤賢治全集別巻』に「肥料設計と羅須地人協會」掲載。  3039飛田三郎について(補足
 
ご覧のように昭和11年ころから十四年ころには「旭ノ又」小学校に奉職されてたようであるが、この「旭ノ又」小学校に勤めていたとしたなら、花巻の佐藤家へどのような交通手段で通われたのか疑問である。小山田くらいまでなら通えるが、外川目ではとても無理である。何れにしろどちらかが訂正される事であろう。
 
 
つづく