ジャジャ~ン
この牛さんの説明は、後ほど…
先月末に京都へ行ってきたばかりですが、またまた4日にお出かけし、相も変わらず寺社巡りをしてきました
先月行った時は、でとても暖かかったのに、この日はとても寒く、が降ったりやんだりの天気でした。
北野天満宮は菅原道真公をお祀りし、学問の神様として有名です。
845年6月25日に誕生された道真公は、幼少の頃より和歌や漢詩など文才を表し、武道の技も磨かれ、文武両道に励まれました。
33歳で、学者としては最高の文章博士(もんじょうはかせ)に就任しました。
宇多天皇、醍醐天皇に重用され、55歳で右大臣に昇進しましたが、901年に左大臣 藤原時平の讒言(ざんげん…おとしいれるため相手を悪く言い、またありもしない事を作り上げて、目上の人に告げる事)によって大宰府へ左遷となりました。
道真公は、左遷されても天を怨まず、人々の幸せをお祈りしました
903年2月25日、無罪の罪も晴れぬまま59歳で亡くなりました。
道真公の死後、京には異変が相次ぎます。
醍醐天皇の皇子が次々に病死し、藤原時平が亡くなり、落雷で多くの死傷者が出、さらに醍醐天皇が亡くなりました。
朝廷は『道真の祟りだ』と恐れました。
そこで、道真公の罪を取り消し、もとの右大臣に戻しました。
そして京都の北野が古くから雷神を祀っていたことから、京都の北野に北野天満宮を建立しました。
当初は、無実の罪をうけた時に祈れば救われると考えられていました。
学問の神様になったのは江戸時代のことで、道真公が優れた学者・歌人であったことから学問の神として信仰されるようになったようです。
いくつかの鳥居をくぐり歩いていると、前方に楼門が見えてきました。
楼門をくぐり、ズンズン歩いていくと三光門が見えてきました。
彫刻の中に日月星があるので三光門なのだそうです。
帰ってきてから知ったので、見ることが出来ませんでした
後西天皇の御宸筆(ごしんぴつ…天皇の御筆跡)『天満宮』の勅額(ちょくがく…天皇が書かれた額)が掲げられています。
この三光門の前にいた狛犬が、なんかおかしいのです??
すごくやせ細っていませんか?おなかがペチャンコなのです
どうしちゃったのでしょう?雪もうっすらかぶって寒そうです。
三光門をくぐると、いよいよ社殿です。
社殿正面
現在の社殿は1607(慶長12)年に豊臣秀頼によって造営されたもので、桃山建築の代表です。国宝に指定されています。
社殿横から
社殿後方から
手前の赤い社が地主社で、境内で最も古い社だそうです。
と、ここでまたまた登場
「モー、いいよ」って声が聞こえてきそうですが、境内にはたくさんの牛が祀られていました。
道真公の誕生日が、乙丑年、丑月、丑日、丑刻であることから、丑は天神様のお使いとなっているそうです。
道真公のご遺骸を、牛が引く車で運んでいた途中、牛が座り込んで動かなくなったそうです。その場所に道真公を埋葬し、そこが太宰府天満宮の発祥となったと言う伝説があります。そこから、横たわった丑の像が祀られているとのことです。
道真公の歌が、百人一首に選ばれています。
『このたびは ぬさもとりあへず 手向山
もみぢのにしき 神のまにまに 』
菅 家(かんけ…道真公の尊称)
〔歌意〕
今度の旅は上皇のお供をする慌ただしさで、おそなえする幣帛(へいはく…神前に供える物。ぬさ。)も用意できておりません。
それで、さしあたって、この手向山の錦織のような美しいもみじを、神の御心のままにお受けとりください。
道真公が宇多上皇のお供で奈良へ行った時に詠んだ歌です。
左遷される3年前でした。
この時は、まさか今後自分の身に起こる波乱を予想もしなかったでしょう。考えると、悲しいです
この牛さんの説明は、後ほど…
先月末に京都へ行ってきたばかりですが、またまた4日にお出かけし、相も変わらず寺社巡りをしてきました
先月行った時は、でとても暖かかったのに、この日はとても寒く、が降ったりやんだりの天気でした。
北野天満宮は菅原道真公をお祀りし、学問の神様として有名です。
845年6月25日に誕生された道真公は、幼少の頃より和歌や漢詩など文才を表し、武道の技も磨かれ、文武両道に励まれました。
33歳で、学者としては最高の文章博士(もんじょうはかせ)に就任しました。
宇多天皇、醍醐天皇に重用され、55歳で右大臣に昇進しましたが、901年に左大臣 藤原時平の讒言(ざんげん…おとしいれるため相手を悪く言い、またありもしない事を作り上げて、目上の人に告げる事)によって大宰府へ左遷となりました。
道真公は、左遷されても天を怨まず、人々の幸せをお祈りしました
903年2月25日、無罪の罪も晴れぬまま59歳で亡くなりました。
道真公の死後、京には異変が相次ぎます。
醍醐天皇の皇子が次々に病死し、藤原時平が亡くなり、落雷で多くの死傷者が出、さらに醍醐天皇が亡くなりました。
朝廷は『道真の祟りだ』と恐れました。
そこで、道真公の罪を取り消し、もとの右大臣に戻しました。
そして京都の北野が古くから雷神を祀っていたことから、京都の北野に北野天満宮を建立しました。
当初は、無実の罪をうけた時に祈れば救われると考えられていました。
学問の神様になったのは江戸時代のことで、道真公が優れた学者・歌人であったことから学問の神として信仰されるようになったようです。
いくつかの鳥居をくぐり歩いていると、前方に楼門が見えてきました。
楼門をくぐり、ズンズン歩いていくと三光門が見えてきました。
彫刻の中に日月星があるので三光門なのだそうです。
帰ってきてから知ったので、見ることが出来ませんでした
後西天皇の御宸筆(ごしんぴつ…天皇の御筆跡)『天満宮』の勅額(ちょくがく…天皇が書かれた額)が掲げられています。
この三光門の前にいた狛犬が、なんかおかしいのです??
すごくやせ細っていませんか?おなかがペチャンコなのです
どうしちゃったのでしょう?雪もうっすらかぶって寒そうです。
三光門をくぐると、いよいよ社殿です。
社殿正面
現在の社殿は1607(慶長12)年に豊臣秀頼によって造営されたもので、桃山建築の代表です。国宝に指定されています。
社殿横から
社殿後方から
手前の赤い社が地主社で、境内で最も古い社だそうです。
と、ここでまたまた登場
「モー、いいよ」って声が聞こえてきそうですが、境内にはたくさんの牛が祀られていました。
道真公の誕生日が、乙丑年、丑月、丑日、丑刻であることから、丑は天神様のお使いとなっているそうです。
道真公のご遺骸を、牛が引く車で運んでいた途中、牛が座り込んで動かなくなったそうです。その場所に道真公を埋葬し、そこが太宰府天満宮の発祥となったと言う伝説があります。そこから、横たわった丑の像が祀られているとのことです。
道真公の歌が、百人一首に選ばれています。
『このたびは ぬさもとりあへず 手向山
もみぢのにしき 神のまにまに 』
菅 家(かんけ…道真公の尊称)
〔歌意〕
今度の旅は上皇のお供をする慌ただしさで、おそなえする幣帛(へいはく…神前に供える物。ぬさ。)も用意できておりません。
それで、さしあたって、この手向山の錦織のような美しいもみじを、神の御心のままにお受けとりください。
道真公が宇多上皇のお供で奈良へ行った時に詠んだ歌です。
左遷される3年前でした。
この時は、まさか今後自分の身に起こる波乱を予想もしなかったでしょう。考えると、悲しいです
宝物殿があったでしょ?
いくらかのお金を払って見れるんですよ、確か。
絵巻物(←レプリカ)を見ました。
大した料金ではなかったのですが、料金の割りには物足りない感じで宝物殿を出ると、入ろうかどうかと悩んでそうな夫婦連れを発見。
それを見て「いやぁ、結構よかったなぁ。」と、わざと聞こえるような声で嫁さんに言うと、その夫婦は宝物殿に入ることを決めたようでした。
悪い奴です。σ( ̄^ ̄)
1月1日、12月1日、毎月25日、4月10日より5月30日迄、観梅シーズンはあいてるそうです。
あと団体客さんは入れるみたいです。
北野天神縁起絵巻は見たいと思っているのですが、レプリカなのですね
一度は見ておかないとと思っています。
天気は、雪が降ったりやんだりだったので、とても寒かったです。
でも庄内と比べたら、全然比べものにならないと思いますが…
京都は歌舞伎を見に行く時に「ついでに観光」というのが多いので、四条界隈がほとんどです。
鞍馬には一度も行った事がないので、行ってみたいなと思っています。