◆石割桜 盛岡地方裁判所のロータリーにある巨石
盛岡市の象徴とも言える観光名所 周囲21mの巨大な花崗岩の割れ目から育った樹齢360年を越える桜はみごと
(画像出典:生命力みなぎる盛岡の名物「石割桜」を奏でよう
盛岡駅から徒歩15分の、盛岡地方裁判所構内に所在する。1923年(大正12年)に国の天然記念物に指定された。寛永年間頃に南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、明治初期には桜雲石と呼ばれていた。家老の屋敷内の庭にあった巨石が落雷をうけてできた割れ目にエドヒガンザクラという桜の種子が入り込み成長したという伝承も残っている。1932年(昭和7年)に盛岡地方裁判所が火災に遭い石割桜も北側の一部が焼けたが、幸い全焼を免れ翌春には再び花を咲かせた。火事の際、庭師・藤村治太郎が身につけていた半纏(はんてん)を水で濡らし、濡れた石で足を滑らせて口を切るケガをしながらも石割桜を守ったという。(WIKIより)
◆烏帽子岩(兜岩)桜山神社本殿の裏手にある高さ7m近くある巨石
烏帽子岩(兜岩)のいわれ
盛岡城築城時・・・慶長2年(1597)頃 この地を掘り下げたときに、大きさ二丈(6.66m)ばかり突出した大石が出てきました。 この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆ののシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。(現地案内板より)
(Googleストリートビューより)
櫻山神社 祭祀:盛岡藩南部氏歴代藩主 四柱 南部光行公(初代)・南部利直公(26代)・南部信直公(27代)・南部利敬公(36代)
沿革:もとは盛岡藩の藩主を祀っている祖廟だった。創建は盛岡藩第33代利視公の寛延2年(1749)に第26代南部信直公(戦国時代~江戸期初期の南部当主)の御神霊を城内の「淡路丸」に「淡路丸大明神」として祀った事に始まる。
文化9年(1812)に藩主南部利敬公が社殿を再建。社号を「櫻山神社」とした。文化15年に藩祖を合祀し、大正元年(1912)に27代利直公と36代利敬公を合祀。明治維新後に幾度か移転し、県社列格。明治33年に現在地に遷座。
◆三ツ石 三ツ石神社境内 社殿脇に、高さ6m、周囲約9m 三つの巨石が並ぶ 岩手県の地名はそもそもここから派生したという伝承もある。
(写真出典:南部吟遊詩人の写真館)
「盛岡市三ツ割の東顕寺(とうけんじ)に注連縄(しめなわ)が張られた三つの大石があり、この石は、岩手山が噴火したときにとんできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
このころ、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。ビックリ仰天した羅刹鬼は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せませんからどうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った」。そこでこの地を岩に手形・・・岩手と呼ぶようになったという。
(参考:岩手の 生活文化 ・ 地名の由来より)
鬼の手形(出展:こちらのページより転載)
我々が訪れた時には、何となくそれらしきモノが確認できたのだが現在は、風化が進み確認する事は出来ないようだ。(こちらの紹介パンフレットにそれらしき手形が紹介されていた。)
◆盛岡城址公園内の巨石
烏帽子岩のある高台より城址公園内を下りイベントスペースの一画にある巨石
背後よりのGoogleストリートビューで良く観察すると石割桜と同じく巨石の間より桜の木が生えているようにも見える。
(訪問日:2006-08)
盛岡市の象徴とも言える観光名所 周囲21mの巨大な花崗岩の割れ目から育った樹齢360年を越える桜はみごと
(画像出典:生命力みなぎる盛岡の名物「石割桜」を奏でよう
盛岡駅から徒歩15分の、盛岡地方裁判所構内に所在する。1923年(大正12年)に国の天然記念物に指定された。寛永年間頃に南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、明治初期には桜雲石と呼ばれていた。家老の屋敷内の庭にあった巨石が落雷をうけてできた割れ目にエドヒガンザクラという桜の種子が入り込み成長したという伝承も残っている。1932年(昭和7年)に盛岡地方裁判所が火災に遭い石割桜も北側の一部が焼けたが、幸い全焼を免れ翌春には再び花を咲かせた。火事の際、庭師・藤村治太郎が身につけていた半纏(はんてん)を水で濡らし、濡れた石で足を滑らせて口を切るケガをしながらも石割桜を守ったという。(WIKIより)
◆烏帽子岩(兜岩)桜山神社本殿の裏手にある高さ7m近くある巨石
烏帽子岩(兜岩)のいわれ
盛岡城築城時・・・慶長2年(1597)頃 この地を掘り下げたときに、大きさ二丈(6.66m)ばかり突出した大石が出てきました。 この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆ののシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。(現地案内板より)
(Googleストリートビューより)
櫻山神社 祭祀:盛岡藩南部氏歴代藩主 四柱 南部光行公(初代)・南部利直公(26代)・南部信直公(27代)・南部利敬公(36代)
沿革:もとは盛岡藩の藩主を祀っている祖廟だった。創建は盛岡藩第33代利視公の寛延2年(1749)に第26代南部信直公(戦国時代~江戸期初期の南部当主)の御神霊を城内の「淡路丸」に「淡路丸大明神」として祀った事に始まる。
文化9年(1812)に藩主南部利敬公が社殿を再建。社号を「櫻山神社」とした。文化15年に藩祖を合祀し、大正元年(1912)に27代利直公と36代利敬公を合祀。明治維新後に幾度か移転し、県社列格。明治33年に現在地に遷座。
◆三ツ石 三ツ石神社境内 社殿脇に、高さ6m、周囲約9m 三つの巨石が並ぶ 岩手県の地名はそもそもここから派生したという伝承もある。
(写真出典:南部吟遊詩人の写真館)
「盛岡市三ツ割の東顕寺(とうけんじ)に注連縄(しめなわ)が張られた三つの大石があり、この石は、岩手山が噴火したときにとんできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
このころ、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。ビックリ仰天した羅刹鬼は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せませんからどうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った」。そこでこの地を岩に手形・・・岩手と呼ぶようになったという。
(参考:岩手の 生活文化 ・ 地名の由来より)
鬼の手形(出展:こちらのページより転載)
我々が訪れた時には、何となくそれらしきモノが確認できたのだが現在は、風化が進み確認する事は出来ないようだ。(こちらの紹介パンフレットにそれらしき手形が紹介されていた。)
◆盛岡城址公園内の巨石
烏帽子岩のある高台より城址公園内を下りイベントスペースの一画にある巨石
背後よりのGoogleストリートビューで良く観察すると石割桜と同じく巨石の間より桜の木が生えているようにも見える。
(訪問日:2006-08)
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