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【神社・鳥居】武田八幡宮・二の鳥居と石鳥居@ 山梨県韮崎市神山町

2021-07-20 | 神社・仏閣
 今回は、甲斐武田家の氏神として尊崇を集めた武田八幡宮と二の鳥居、門前石鳥居の紹介です。
武田八幡宮へは、中央本線・韮崎駅より西へ3キロほど。国道20号線 韮崎市役所の先、武田橋北詰交差点を左に入った突き当りに鎮座しています。
 門前に至る参道にある両部大鳥居(県指定重要文化財)こちらは、二の鳥居になります。
木製両部鳥居で、大きく堂々としており均整の取れたなかなか見事な鳥居です。高さ7m、笠木の長さ9.8m
武田信虎公・信玄公によって再建されたもので、扁額の武田八幡宮の書は、信玄公の筆と伝えられています。 
思ったのですが、山梨県の神社で良く見かける覆屋根で連なる稚児柱は、ここのものを模倣したのではないかと推測しています。
鳥居建立の際は、社格が高い神社に合わせる傾向があると聞きます。
甲斐武田家の氏神を祀る神社とあれば、なおさらではないかと思っています。ちなみにこの鳥居は、二の鳥居になります。では、一の鳥居は何処に?
Googleストリートビューからの転載ですが、実は一の鳥居は中央に写っている二本の柱がそうなんだそうです。二の鳥居の先歩道側にあるのですが、笠木も無くなんとも貧弱で小振りですが、こちらが一の鳥居となるそうです。
二の鳥居ほか案内板(写真クリックして拡大)

こちらが説明書きの中にある「輿石」です。神輿を置く際に使われた石なんだそうですが、ちなみにこの地域には「輿石」姓の方が多いようです。

さて、大鳥居を過ぎた突き当りに武田八幡宮は、鎮座しています。

中央に三の鳥居となる石鳥居がありますが、ちょっと位置が変わっています。
一つ手前の写真を見てもらうとわかるのですが石垣の上に石鳥居が建てられています。
普通は、人が通る参道の中央に建てられている鳥居がここでは、あえて人が通り抜け出来ないような造りとなっています。
何を意図してこのような造りとしたのかは、分かりませんがちょっと調べて見たくなりました。
明神台輪型ですが、台輪は装飾以上の役目は担っていません。
貫に天正12年(1584)補修の銘があるとの事ですが判読不可でした。

額束には「八幡宮」とあります。地名から武田八幡宮と称したのが創建とされているそうです。 

石鳥居・境内案内板(写真クリックして拡大)
石鳥居の背後にある総門 総門も中央から入れないようになっていました。
拝殿ヘと至る参道階段
舞殿
拝殿 

本殿 三間社流造檜皮葺の造りで、国の重要文化財に指定されています。大棟 には、山梨県内の神社で良く見られる魔除けの鬼面もありました。
祭祀:中殿 誉田別命(応神天皇)、左殿 足仲津彦命(仲哀天皇)、右殿 息長足姫命(神功皇后)、相殿 武田武大神(武田王)
由緒:伝えによれば今からおよそ1200年前、弘法大師がこの地へ来られた時、山を背にした中空へ八幡神が現われ、「我をこの地に祀ったならば国家は安泰であろう」とお告げがあった。よって弘法大師は京へ帰り天皇に申し上げ
ると、弘仁13年(822年)嵯峨天皇の勅命により、武田武大神(日本武尊の御子)を祀る社を桜の御所から現在の地に遷宮し、九州の宇佐八幡宮を勧請して合祀し創建されたのが起りといわれています。その後、貞観年間(859~876年)には京都石清水八幡宮の御霊を社中に勧請しています。甲斐源氏の流れをくむ、新羅三郎義光の曾孫、竜光丸は13才の保廷6年(1140年)
武田八幡宮の神前で元服して武田太郎信義と名乗りました。これが名門甲斐武田氏の発祥です。信義公は広大な館を構えるとともに、武田八幡宮の本社・末社など御建造され武田家の氏神として尊崇しました。
こちらより引用)
摂社 若宮八幡宮(県指定文化財)祭祀:仁徳天皇(応神天皇の御子)

本殿・若宮八幡 案内板(クリックして拡大)

武田勝頼夫人北条氏自筆願文碑
 武田勝頼夫人が天正10年2月に武田八幡宮へ、武田氏の武運等を祈願して奉納した切なる思いを書き綴った手紙です。
夫人は北条氏政の妹で、願文の書いたときは19歳でした。その頃武田氏は、木曽義昌らの謀叛にあうなど、織田氏の侵攻によって、危機をむかえていました。
 願文奉納も効することなく、奉納から14日後の3月3日に勝頼は自らの手によって新府城に火をかけて、郡内の小山田氏をたより向かいますが、その途中の田野(甲州市)で夫人、息子信勝とともに自刃しました。
(以上は、こちらより引用)
 勝頼夫人の悲しみは計り知れない思いだった事でしょう。あまりにも切なさ過ぎます。以降、実家でもある北条家とは疎遠になってしまうのです。
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