さっちゃん 空を飛ぶ

認知症で要介護5の妻との楽しい日常を 日記に書き留めたいと思います

8月15日の終戦の日にあたって

2020-08-15 23:21:20 | 思索
僕はFBを以前から使っていましたが、最近はコメントを載せることがほとんどありません。
「友達」に「いいね!」をクリックするくらいです。
でも、今日は本当に久し振りに自分のコメントを載せました。
終戦の日であり、ご先祖様の霊が身近なことで、僕の魂が揺さぶられた結果なのかもしれません。
このブログの本筋からは外れていますが、ここにも今日の僕のFBでのコメントを載せることとしました。。
固有名詞等、一部FBの文章を修正していることはご了解ください。


     *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


今日は終戦の日。
小生の誕生日でもあります。

子供のころはこの時期お盆なので、前後の数日間はすべてのお店はお休みでした。
ですから、誕生日を美味しい料理とかでお祝いしてもらった記憶はまったくありません。
お袋も「全国のお坊さんがお経をあげてくれてるからいいでしょ」と変な理屈で僕を慰めてくれていました。
今でもそうですが、8月は誕生日のある月と言うよりも、戦争の重さに心添わせる月です。


親父は晩酌で興が乗ると「◎●(僕の名前)ここに座れ」と子供の僕に昔の喧嘩の話や戦争での体験談や職場での悩み等を語って聞かせてくれたものです。
酔って話すのですから、同じ話を何度も何度も聞かされています。

親父は満州方面で疫痢に罹り、同じような病人が集まっている施設に来たんだそうです。
周りの兵隊さんで死んでいく人の行動を観察して、自分は死なずに済んだと言ってました。

同じく兵隊で来ていた長兄と会って「どちらかが必ず生き延びて、◆◇家を支えよう」と約束し合ったそうです。
長兄のおじさんはソ連に連れて行かれ、抑留生活を送ることになります。

お袋は1945年の夏は17歳。小倉の軍需工場で働かされていたようです。
8月9日の小倉上空に雲が少なければ、お袋は原爆で死亡していた可能性が高かったんだと思います。


僕は「戦争を知らずに生まれた」世代です。
でも、歴史を知り、両親の人生を知るにつれ、二十歳のころだったでしょうか? 僕自身も「戦争の子」だと言う思いが深くなるのを感じました。
戦争の痛みや哀しみを身近に感じられるようになったのです。
もちろん、身近と言っても限界があります。
でも、「戦争なんて自分には関係ないや!」と思っていたころに比べると、明らかにより自分のこととして考えたり思ったりするようになりました。


今の日本を支えている世代の人々は、太平洋戦争と言っても歴史のかなたの出来事、僕にとっての日清日露戦争やら第一次世界大戦みたいなものです。
個人的体験や思いだけから戦争云々できないなと、痛感します。
そうですからなおさら、もっと根本的なところで人間と戦争、国家と戦争、について個々人が考えなければならないのだと思います。
戦争の個人的体験や思いが薄れている現代はともすると「愚かな人間が繰り返してきた忘却によるリセットの罠」に嵌ってしまいそうです。

終戦直後の日本国民の思いに戻れと言っても、それは無理でしょう。
日本国憲法の「戦争放棄」や「戦力不保持」に涙をともなって共感できた日本国民は残りわずかです。
大多数の日本国民にとってはそれは単なるお題目のようになってしまっています。
お題目さえ掲げていれば、実質的な法律はそのお題目を裏切るものであっても構わないという訳です。

「戦争放棄」や「戦力不保持」は国家間の軍事バランスや圧倒的な米軍の軍事力による保護があって奇跡的に戦後長きにわたって維持できていましたが、
これからの時代もその理想を維持するためには、高い精神性が必要だと思います。
それが何かは僕などには分かるはずもありませんが、そのヒントはガンジーの非暴力主義の強さの中にあると感じています。


終戦の日に際し、つらつらと今の気持ちを書いてみました。
読んでくださって有難うございます。
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