親鸞聖人750回大遠忌法要のご満座となる1月16日の日中法要に引き続き「御消息発布式」が行われ、「親鸞聖人750回大遠忌法要御満座を機縁として『新たな始まり』を期する消息」がご門主様より発布されました。
全文はコチラ→http://www.hongwanji.or.jp/news/info/750-18.html (本願寺HP)
目まぐるしい変化を繰り返す世界の中でも、お念仏のみ教えは変わりません。
しかし、そのみ教えを伝え広めるご縁のあり方は、時に応じて変化していく必要があります。
み教えに対しては堅固に。
相手に対しては柔軟に。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
本日16日は、親鸞聖人のご命日にあたります。
そして、これまで営まれ続けてきた親鸞聖人750回大遠忌法要の最後の日でもあります。
振り返れば、私の大遠忌法要は4年前から始まっていました。
一番最初は、本山で営まれる大遠忌法要に先立ち営まれる、神奈川組の大遠忌お待ち受け法要の準備会議への出席から。
それから間もなく妊娠・出産・育児と慌しい日々が続き、法要自体に関われない歯がゆさもありましたが、心は常に大遠忌という尊いご縁へと傾き続けていました。
そして、一昨年のお待ち受け法要が無事修行されると、翌年に控えた本山での大遠忌法要へと心が飛びました。
昨年の6月には、最乗寺を含む神奈川組の団体参拝が本山へと出立し、留守を預かりながらも行程表を確認しながら、みなさんと一緒に団参の旅を楽しみました。
12月には、法要中ではありませんでしたが、実際に本山の様子を拝見する機会を得ることができ、目の当たりにした無数の座席が並ぶ光景に、改めて親鸞聖人のご遺徳を偲ばせていただきました。
加えて今回の大遠忌法要は、ネットで生中継されるという有り難い配慮がなされており、参拝の予定を立てるたびに何がしかのアクシデントにより潰れてしまった無念さを、多少なりとも癒していただきました。
そんな750回大遠忌法要も、今日で一つの区切りがつきます。
しかし、これで終わりになるのではありません。
次の大法要は800回忌になりますが、親鸞聖人の御正忌は751回、752回と続いてゆきます。
その1年1年の積み重ねが大法要へと繋がっていくのであり、たとえ次回の大法要の参拝が叶わないとしても、その1年1年、その1日1日を私がどのように過ごしていくかが大切なんだと思うのです。
親鸞聖人のご生涯は、そのすべてが私たちをお念仏の道へと導き、差別することなく、決して見捨てず、必ず救うという阿弥陀さまの願いが、全ての人に掛けられているというみ教えを、私たちの元へと伝えるために歩まれたものでした。
その恩に報いるということが法要の第一義であることを忘れず、長い長い法要の修行期間の中で、私たちが触れた多くのご縁に耳を傾け、心を傾けながら、新たな始まりの一歩を踏み出していきたい・・・そう思っています。
先日、若住職が誕生日を迎え、また一つ年を重ねました。
しかし、盛大にお祝いする年齢でもないという若住職の意向と、私がダイエット中(正月太り)という意向が合致した結果、ケーキはなしということに・・・。
それでも、ささやかな料理を用意して、お誕生日を祝いました。
ミートローフ 生ハムサラダ クラムチャウダー 黒パン
・・・ご馳走を目指して作ったわりには、なんだか地味な色合いになってしまいました。
ミートローフのお皿を白にして、サラダにトマトでも入れれば良かったのかな?
ちなみに黒パンは、ホームベーカリーにセットしただけの早焼きパンです。
ただ普通と違うのは、パン作りに必要な水分と糖分を、お正月のお節に作った黒豆の煮汁で代用した点。
(成功例) (失敗例)
ちゃんとできるか心配だったのですが、2時間で左のように上手く膨らんで焼けました。
これで失敗すると、膨らまないし、上部は焼き色つかないしで、悲しい見栄えのパンになります。
右のパンは生クリームを入れて作ったのですが、全然膨らまず大失敗。
(でも、味と食感はスコーンみたいだったので、美味しくいただきましたよ♪)
結構多めに作ったつもりでしたが、龍くんがたくさん食べるようになったので、残すことなく3人で完食しました。
作り手としては、お皿が空っぽになることほど幸せなことはありませんよね。
正直言えば、毎日毎日献立を考えるのは大変ですし、苦痛になることもあります。
しかも、サラリーマンと違って若住職は出勤しないので、昼食もきちんと作らなくてはなりません。
(すでに定年後の夫婦生活をしている感じ・笑)
それでも、家族のために料理を作ることのできる幸せみたいなものを、だんだんと感じるようになってきました。
私の料理を食べてくれる人がいてくれるって、考えてみれば本当にスゴイことです。
これもきっと、「誕生日にご馳走を作ろう」という思いが、なーんでもない日常の幸福に気づかせてくれたんだと思います。
とりあえず、次のご馳走を作る機会までに、彩りのセンスを日々の料理で磨き、更にはケーキを罪悪感なく作ることのできる体型に戻すことを目標に、ちょっとずつ精進していこうと思いました。
「幸福って、何も感じないことなのよ」 三島由紀夫『夜の向日葵』より
天気が良かったので、龍くんと駐車場でサッカーをして遊びました。
サッカーと言っても、ジダンの神の手(ハンド・反則)が何度も何度も出ていましたけどね(笑)
こんな温かくのんびりとした時間を過ごしているとき、冒頭にある三島由紀夫の言葉を思い出します。
当たり前すぎて、「幸せだな」って改めて思わない時間が、本当の「幸せ」なんだなと思います。
なーんにも感じないくらい平凡な日常が、この上もない幸福であるということに気づかされるときは、だいたい自分が不幸せに感じていたり、誰かが絶望に暮れていたり・・・。
悲しいことですが、そういう比較の上にしか、平凡な日常に対しては幸福を感じられないような気がします。
でもときどき、ふと幸せに思える瞬間に出遇える。
ちょうどこの写真を撮った瞬間とか。
そう思うと、いつもいつも本当に有り難いご縁をいただいているんだなと、改めて感謝の念が溢れてきました。
しかし、冒頭の三島由紀夫の言葉の本意は、こういうことじゃありません。
幸福って、何も感じないことなのよ。
幸福って、もっと鈍感なものなのよ。
・・・幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで、生きてゆくんですよ。
「そんなことないよ」と思いつつ、もしかしたら私は自分以外のことに心を傾けているフリをしている「幸福な人」なんじゃないかなと自省します・・・。
たぶん、自分のことには敏感で、他人のことには鈍感にできているんでしょうね。(ため息)
親鸞聖人750回大遠忌法要御正当のネット中継で、梯實圓和上の御法話を聴かせていただきました。
梯和上は御法話の中で、このようなことをお話になられました。
美しいものには二種類あります。
始めは綺麗でも徐々に汚れていくものと、汚れているものを美しくするもの。
泥沼に咲く蓮の華は、その泥沼を美しい花園に変えるものだから後者の象徴とされてきました。
悲華経は、仏を蓮の華に喩えました。
法華経は、法を蓮の華に喩えました。
それに対して、観無量寿経は念仏を称える人を蓮の華に喩えました。
数ある経典の中でも、凡夫を蓮の華に喩えたのは、観無量寿経だけです。
「観無量寿経」には、このような経文があります。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。
「分陀利華」とは、「白蓮華」のこと。
和上のお話になられたのは、この経文のことを示しています。
そして、親鸞聖人がお書きになられた『正信偈』には、このような偈文があります。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
(意訳)
善悪に関わらず、阿弥陀如来の本願を聴いて信ずるすべての人を、お釈迦さまは勝れた智慧を得た者(広大勝解者)と讃えられ、その人を最も高貴な白い蓮の華(分陀利華)と名づけられました。
私たちは凡夫です。
欲に塗れ、怒りを抱き、愚痴を言う。
それらすべてを捨ててしまいたいと思っても、思うだけで捨て去ることのできない毒を抱えて生きています。
蓮の華は、泥沼を彩ることで美しく変えるものではありますが、泥沼自体を綺麗にするものではありません。
お念仏も、阿弥陀さまの本願を聞信し称える凡夫を、「美しい蓮の華」と喩えられる人へと変えていきますが、称える人自身の毒を消すものではありません。
毒を抱えたまま、美しく咲く蓮華の花。
なぜ咲けるのかと問えば、毒を抱えたままでしか生きられないこの私を、阿弥陀さまは否定することなくそのまま受け入れ受け止めてくださっているということに気づきます。
だからこそ、私たちは凡夫であることの慙愧とともに、お念仏させていただくことが大切なんだということを、和上のお言葉に改めて感じ入りました。