みやこ海風だより

市議会報告からNPO活動、海を活用したまちづくり、文化創出のまちづくりをベースにしたつぶやきです。

啄木と鍬ヶ崎

2012-04-07 14:37:11 | ふるさと散策
石川啄木(1886-1912)が、釧路の新聞社を辞め、汽船「酒田川丸」で上京の途中、

宮古に立ち寄ったのは明治41年(1908)4月6日のことだった。日付で言えば昨日だ。

啄木は文学への夢を追い、上京し26歳で生涯を終えるがこの宮古寄港が、ふるさと岩手の最後の地だった。

宮古漁協の敷地内にある『啄木日記』の碑には4月6日当日の全文が刻まれている。

「起きて見れば雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を擧げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(醫師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辭す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様な空氣に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎭痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の兒が三味線を習つて居た。藝者にするかと問へば、何になりやんすだかす。夜、九時抜錨。同室の鰊取の親方の氣焔を聞く。 」

啄木が記した当時の宮古・鍬ヶ崎の面影は、今となっては津波で流され残っているところはほとんどない。

当時、桟橋は鍬ヶ崎の海岸通りの石積みの岸壁から沖に向かって伸びていた。

木杭に橋桁、それに橋板が敷かれた木製の桟橋だった。

そこにはしけ船が着き、沖に停泊する船との連絡にあたっていた。

啄木は日記に「沈んだ、かびの生えたような空気に充ちてー」と書いている。

その日の空模様は決して良くなかったのだろう。



啄木は目的があって宮古に立ち寄っている。

小説「菊池君」のモデルである菊池武治から紹介状を預かり、鍬ヶ崎の道又金吾医師を訪ねたのだ。



日記では、啄木は上陸するとすぐに入浴している。



そして道又医師宅でご馳走になり、夕刻にはうどんを食べている。

当時の鍬ヶ崎には2軒のそば屋があったという。啄木が入ったのはそのいずれかだ。

三味線を習っていたという少女は、その後何という名の芸者になったのか、

あるいはどんな生涯を送ったものだろうか。

あれから100余年、鍬ヶ崎はすべての面影がなくなってしまった。