昭和8年3月3日、午前2時30分頃に起きた地震によって、当地方は未曾有の津波惨事となった。その時、襲った津波の高さは10m。
もっとも被害にあった田老町は、数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけでほとんどの町が流失した。
うず高く積まれた家屋の破片と数百の死体をながめた2000余の生存者は不帰の客となった家族と明日の生活を思ってただ自失するだけだった。
港は流木の山、まちは一夜にして荒野、自然の暴威はあまりにもむごかった。
情報や防災対策も何もない時代。人々は地獄の苦しみを味わった。
あれから70余年。
奇しくも先日の大津波は、本当に忘れた頃にやってくるという教訓だった。
本日予定されていた津波避難訓練は中止となったが、またいつ来るとも分からない津波にこれからも我々は対峙していかなければならない。
チリと津波はこの地方にとっては縁が深い。
本日は、日本の防災計画を研修するため来日していたチリの関係者5人が宮古・田老を訪れ、防潮堤などの視察を行った。
母国の被害を心配しながらも、国の復興と防災のためにと先進地の計画を真剣な表情で学んでいた。
もっとも被害にあった田老町は、数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけでほとんどの町が流失した。
うず高く積まれた家屋の破片と数百の死体をながめた2000余の生存者は不帰の客となった家族と明日の生活を思ってただ自失するだけだった。
港は流木の山、まちは一夜にして荒野、自然の暴威はあまりにもむごかった。
情報や防災対策も何もない時代。人々は地獄の苦しみを味わった。
あれから70余年。
奇しくも先日の大津波は、本当に忘れた頃にやってくるという教訓だった。
本日予定されていた津波避難訓練は中止となったが、またいつ来るとも分からない津波にこれからも我々は対峙していかなければならない。
チリと津波はこの地方にとっては縁が深い。
本日は、日本の防災計画を研修するため来日していたチリの関係者5人が宮古・田老を訪れ、防潮堤などの視察を行った。
母国の被害を心配しながらも、国の復興と防災のためにと先進地の計画を真剣な表情で学んでいた。
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