アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(37)
第二幕、第一章(11)茜の告白

碌山美術館は、小さいながらも隅々にまで配慮の行き届いたたいへん居心地の良い空間が用意されています。
たとえば正面入り口のドア飾りをはじめ、各所のドアノブにはブロンズの小品が、さりげなく配置をされています。
また館内入り口の左手には、「杜江(もりえ)の水」が静かに流れています。
来館者にも安曇野の水で喉を潤してもらおうと言う配慮から、後になったから掘られた井戸水です。
「杜江」という文字は、碌山が書簡のサインにたびたび用いていたことに因んでいます。
そして、水を汲みあげる柱の部分にも十字架文様の木彫がこれもまた、さりげなく施されています。
喉を潤してから上を見上げると、屋根の上にいるフエニックス(不死鳥)が目に飛び込んできます。
30歳の若さで早逝した碌山の遺した作品の傑出した魅力を象徴するかのように、
安曇野の空に羽ばたいています。
木漏れ日に目を細め眩しそうに見上げたあとに
木蔭のベンチの腰を降ろした茜が、散策中のレイコを手招きしました。
「私も、10年以上も前から石川さんが大好きだった。
過去形だけど、決して忘れたり諦めたわけではなかったし、
あこがれとして、つい最近までずう~とその気持ちはあたためていたの。
でもお互いに、現実には全く別々の10年間を過ごしたわ。
劇団の解散以来、音信不通のままの10年間になった。
・・・・あ、でも誤解をしないでね。
ただの片思いだったのよ、私だけの。
あの頃の石川さんは、姉のちづるばかりを見ていたのし、
時絵さんだって、とてもチャーミングだった。
私なんか、たぶん眼中になんか無かったわ。
みんなに比べたら、あたしはそばかすだらけのチビだったし、
華やかでもなかったし、引っ込み思案だったもの。
いつだって、姉の背中に隠れていたわ。」
レイコも同じように葉裏に輝く木漏れ日を見上げました。
同じように目を細めてから、茜の隣へ腰を下ろします。
気持ちの良い安曇野の初夏の風が、髪を揺らして二人の間を吹きぬけて行きました。
「わたしは普通に看護婦さんになっって
普通に病院勤務を始めたわ。
劇団が解散をして、姉が突然、座長さんと結婚をして日立へ引っ越したわ。
そこまではあっという間の、急展開の日々だったけれど、
その後はありきたりで、
まったく平凡な毎日が何年も続いたわ。
昼勤務と夜勤が繰り返されるだけの仕事の日々で、
後はまったくもって単調だった。
5年前には実家を出て、アパートを借りたの。
26の時だったかなぁ・・・・
入院中だった男にナンパされて、なんとなく付き合いが始まり
たいした感激や感動もないままに、私のアパートでの半分だけの同棲生活が始まった。
お互いに拘束をしないと言う約束で、中途半端な付き合い方だった。
3年近くも続いたのかしら、そんな都合のよいつき合い方が。
たまたま避妊を怠った時に、妊娠をしてしまったわ。
彼に告げたら、籍を入れようという話になり、
私も安心をしていたらその1月後に、
もらったばかりのボーナスを全部持って、男がどこかに消えちゃった。
後で聞いた話では、水商売の愛人というのがもう一人いて
ヒモ同然の生活をしていたんだって、そいつったら。
そこの彼女のところからも、あるだけの現金を持ったまま
姿をくらませてしまったの・・・
本当のことには何ひとつ気がつかないままに、
そんな男にふりまわされていたのよ、私は。
でも、自分でも情けないとは思うけど、
そんな男でも、私の身体はその男を、愛していたんだよ、
最悪だったなぁ、あの頃は」
レイコのまっすぐな視線が長いまつ毛が揺れている、茜の横顔をしっかりと見つめました。
膝の上で重ねてられている茜の細くしなやかな指の上に、レイコがそっと自分の手のひらを置きました。
「そんな絶望の時に、
座長さんから劇団再結成の葉書が届いたの。
お腹に小さい生命を置いたまま、
懐かしさだけでその再結成の場へ出掛けたわ。
それが、レイコさんも良く知っているはずの時絵ママのところ。
その入口で石川さんに再会したの。
もう夢中で甘えちゃった・・・
自分でもびっくりするほど、あとは大胆だった。
勢いに乗ったまま、無理やり石川さんをドライブに誘いだして
お正月を2泊3日で過ごしたの・・・
でも彼は、とても紳士だった。
全部、私の事情を知った上で、お腹の子供の面倒まで見るから
本気になってつき合おうと言ってくれた。
嬉しかったけど、今度は当の私が当惑しすぎちゃった。
とてもじゃないけどこのままでは、
石川さんの奥さんになんか、
収まりきれないでいる自分に、そこで初めて気がついた。
遅すぎる事は、充分に解っていたけど、
でも石川さんに甘え切る訳にはいかないの・・・・
このままじゃいけないって言う、
そう言う声が聞こえてきた」
レイコが茜の指を握りしめます。
一筋だけこぼれ落ちた涙を、茜がそっとこぶしでぬぐいました。
「私は、自分の罪と自分の恥を償なわなければなりません。
初めて碌山の『女』を見たときに、
私はそれを確信をしました。
石川さんの気持ちにこたえるためには、
これは決して避けては通れない道なんだと、その覚悟も決めました。
それからさきは、レイコさんもご存じのとおりです。
でもね、今回の原因となった私の、
この不始末だけは、実は誰にも話してはいないのよ、
打ち明けたのは、レイコちゃんが初めてなの。
お願いだから軽蔑をしないでね、
こんな茜を。」
レイコが、小刻みに揺れる茜の指先を抱きしめました。
恥ずかしさに頬を真っ赤に染め切った茜が、それでも必死に涙をこらえています。
レイコの指先にも、自然と力がこもります。
「茜さん。
あなたの本気は、みんながちゃんと受け止めています。
あなたの本気と熱意が、時絵さんを動かし、座長さんを動かして
順平と私を、この安曇野まで引っ張ってきました。
いいえ、私たちのために。
もっと大きなプレゼントまで用意をしてくれました。
順平からのプロポーズは、茜さんが導き出してくれたものだと
私は信じています。
茜さん、私たちは、良い友人になれると思います。
あなたが勇気を持って踏みだしてくれたその一歩目が、
もうすでに、多くの人たちの心を一斉に動かし始めています。
過ちをしっかりと見つめて、その先の希望にむかって恐れずに歩きだすという
茜さんの生き方は、本当に素晴らしいと、私もそう思います。
私も精一杯に、茜さんを応援をします。
茜さん、是非、黒光を実現しましょうね。
順平は、きっと茜さんのための『黒光』を書きあげてくれると思います・・・
いいえ、かならず書かせます!
きっと書かせて見せますとも。
茜さんのためにも、私が、絶対に。」
目じりに溜まった涙を小指で拭いていた茜が、ふっと笑みをこぼします。
「あれぇ?、レイコちゃんのところは、カカア天下なの? 」
「あ・・・・いいえ、決してそんな」
二号館では、再び中庭の様子を見に来た石川さんがガラスに額を着けていました。
やがて、嬉しそうに順平を振り返ります。
「順平さん、お待ちどうさまでした。
女性陣の長い話もようやく、平和的かつ友好的に終了したようです。
これで心おきなく本命の『女』を鑑賞に行けますね。」
「ほう、それはありがたい。
ようやく、はるばる此処まで来た甲斐がありますね。
やっと碌山の『女」にご対面です。
われらの女性陣には、だいぶ邪魔をされましたが・・・・」

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第二幕、第一章(11)茜の告白

碌山美術館は、小さいながらも隅々にまで配慮の行き届いたたいへん居心地の良い空間が用意されています。
たとえば正面入り口のドア飾りをはじめ、各所のドアノブにはブロンズの小品が、さりげなく配置をされています。
また館内入り口の左手には、「杜江(もりえ)の水」が静かに流れています。
来館者にも安曇野の水で喉を潤してもらおうと言う配慮から、後になったから掘られた井戸水です。
「杜江」という文字は、碌山が書簡のサインにたびたび用いていたことに因んでいます。
そして、水を汲みあげる柱の部分にも十字架文様の木彫がこれもまた、さりげなく施されています。
喉を潤してから上を見上げると、屋根の上にいるフエニックス(不死鳥)が目に飛び込んできます。
30歳の若さで早逝した碌山の遺した作品の傑出した魅力を象徴するかのように、
安曇野の空に羽ばたいています。
木漏れ日に目を細め眩しそうに見上げたあとに
木蔭のベンチの腰を降ろした茜が、散策中のレイコを手招きしました。
「私も、10年以上も前から石川さんが大好きだった。
過去形だけど、決して忘れたり諦めたわけではなかったし、
あこがれとして、つい最近までずう~とその気持ちはあたためていたの。
でもお互いに、現実には全く別々の10年間を過ごしたわ。
劇団の解散以来、音信不通のままの10年間になった。
・・・・あ、でも誤解をしないでね。
ただの片思いだったのよ、私だけの。
あの頃の石川さんは、姉のちづるばかりを見ていたのし、
時絵さんだって、とてもチャーミングだった。
私なんか、たぶん眼中になんか無かったわ。
みんなに比べたら、あたしはそばかすだらけのチビだったし、
華やかでもなかったし、引っ込み思案だったもの。
いつだって、姉の背中に隠れていたわ。」
レイコも同じように葉裏に輝く木漏れ日を見上げました。
同じように目を細めてから、茜の隣へ腰を下ろします。
気持ちの良い安曇野の初夏の風が、髪を揺らして二人の間を吹きぬけて行きました。
「わたしは普通に看護婦さんになっって
普通に病院勤務を始めたわ。
劇団が解散をして、姉が突然、座長さんと結婚をして日立へ引っ越したわ。
そこまではあっという間の、急展開の日々だったけれど、
その後はありきたりで、
まったく平凡な毎日が何年も続いたわ。
昼勤務と夜勤が繰り返されるだけの仕事の日々で、
後はまったくもって単調だった。
5年前には実家を出て、アパートを借りたの。
26の時だったかなぁ・・・・
入院中だった男にナンパされて、なんとなく付き合いが始まり
たいした感激や感動もないままに、私のアパートでの半分だけの同棲生活が始まった。
お互いに拘束をしないと言う約束で、中途半端な付き合い方だった。
3年近くも続いたのかしら、そんな都合のよいつき合い方が。
たまたま避妊を怠った時に、妊娠をしてしまったわ。
彼に告げたら、籍を入れようという話になり、
私も安心をしていたらその1月後に、
もらったばかりのボーナスを全部持って、男がどこかに消えちゃった。
後で聞いた話では、水商売の愛人というのがもう一人いて
ヒモ同然の生活をしていたんだって、そいつったら。
そこの彼女のところからも、あるだけの現金を持ったまま
姿をくらませてしまったの・・・
本当のことには何ひとつ気がつかないままに、
そんな男にふりまわされていたのよ、私は。
でも、自分でも情けないとは思うけど、
そんな男でも、私の身体はその男を、愛していたんだよ、
最悪だったなぁ、あの頃は」
レイコのまっすぐな視線が長いまつ毛が揺れている、茜の横顔をしっかりと見つめました。
膝の上で重ねてられている茜の細くしなやかな指の上に、レイコがそっと自分の手のひらを置きました。
「そんな絶望の時に、
座長さんから劇団再結成の葉書が届いたの。
お腹に小さい生命を置いたまま、
懐かしさだけでその再結成の場へ出掛けたわ。
それが、レイコさんも良く知っているはずの時絵ママのところ。
その入口で石川さんに再会したの。
もう夢中で甘えちゃった・・・
自分でもびっくりするほど、あとは大胆だった。
勢いに乗ったまま、無理やり石川さんをドライブに誘いだして
お正月を2泊3日で過ごしたの・・・
でも彼は、とても紳士だった。
全部、私の事情を知った上で、お腹の子供の面倒まで見るから
本気になってつき合おうと言ってくれた。
嬉しかったけど、今度は当の私が当惑しすぎちゃった。
とてもじゃないけどこのままでは、
石川さんの奥さんになんか、
収まりきれないでいる自分に、そこで初めて気がついた。
遅すぎる事は、充分に解っていたけど、
でも石川さんに甘え切る訳にはいかないの・・・・
このままじゃいけないって言う、
そう言う声が聞こえてきた」
レイコが茜の指を握りしめます。
一筋だけこぼれ落ちた涙を、茜がそっとこぶしでぬぐいました。
「私は、自分の罪と自分の恥を償なわなければなりません。
初めて碌山の『女』を見たときに、
私はそれを確信をしました。
石川さんの気持ちにこたえるためには、
これは決して避けては通れない道なんだと、その覚悟も決めました。
それからさきは、レイコさんもご存じのとおりです。
でもね、今回の原因となった私の、
この不始末だけは、実は誰にも話してはいないのよ、
打ち明けたのは、レイコちゃんが初めてなの。
お願いだから軽蔑をしないでね、
こんな茜を。」
レイコが、小刻みに揺れる茜の指先を抱きしめました。
恥ずかしさに頬を真っ赤に染め切った茜が、それでも必死に涙をこらえています。
レイコの指先にも、自然と力がこもります。
「茜さん。
あなたの本気は、みんながちゃんと受け止めています。
あなたの本気と熱意が、時絵さんを動かし、座長さんを動かして
順平と私を、この安曇野まで引っ張ってきました。
いいえ、私たちのために。
もっと大きなプレゼントまで用意をしてくれました。
順平からのプロポーズは、茜さんが導き出してくれたものだと
私は信じています。
茜さん、私たちは、良い友人になれると思います。
あなたが勇気を持って踏みだしてくれたその一歩目が、
もうすでに、多くの人たちの心を一斉に動かし始めています。
過ちをしっかりと見つめて、その先の希望にむかって恐れずに歩きだすという
茜さんの生き方は、本当に素晴らしいと、私もそう思います。
私も精一杯に、茜さんを応援をします。
茜さん、是非、黒光を実現しましょうね。
順平は、きっと茜さんのための『黒光』を書きあげてくれると思います・・・
いいえ、かならず書かせます!
きっと書かせて見せますとも。
茜さんのためにも、私が、絶対に。」
目じりに溜まった涙を小指で拭いていた茜が、ふっと笑みをこぼします。
「あれぇ?、レイコちゃんのところは、カカア天下なの? 」
「あ・・・・いいえ、決してそんな」
二号館では、再び中庭の様子を見に来た石川さんがガラスに額を着けていました。
やがて、嬉しそうに順平を振り返ります。
「順平さん、お待ちどうさまでした。
女性陣の長い話もようやく、平和的かつ友好的に終了したようです。
これで心おきなく本命の『女』を鑑賞に行けますね。」
「ほう、それはありがたい。
ようやく、はるばる此処まで来た甲斐がありますね。
やっと碌山の『女」にご対面です。
われらの女性陣には、だいぶ邪魔をされましたが・・・・」

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/