落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (117)義助の墓

2015-08-31 10:52:59 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(117)義助の墓




 キャンピングカーは伊予へ向かう国道11号を、順調にすすんでいく。
朝の7時を過ぎた頃から、車の数が増えてきた。
通勤を急ぐ車の群れだ。
午前8時を過ぎたとき。大きな交差点でついに、軽い渋滞に巻き込まれた。
8時を15分ほど過ぎるとあれほど密集していた車が、嘘のように国道から消えていく。


 「忘れていました」すずが、ポーチの中から小さな包みを取り出す。
「痴呆のせいではなくてよ。ただ、わたしが預かったままうっかりしていただけです。ほら」
包みを解いていくと、手のひらの上に乗る可愛いカエルが現れた。



 ちりめん細工を手掛けている京都の老舗、リュウコドウの『無事カエル』だ。
カエルの形の上に、職人さんが1枚づつ、ちぎり和紙を張り付けたものだ。
腹部に、『勇作とすずさんへ』の文字が入っている。
老舗お茶屋の女将・多恵が製作しているリュウコドウまで、じきじきに足を運び、
無理矢理つくらせた品物だという。


 「無事に返ってきてねと、多恵さんから別れ際に渡されたものです。
 お腹の部分に、わたしたちの名前が入っているとは、知りませんでした。
 伊予まであと、もう少し。
 いままで以上に慎重に運転して、わたしたちを待っている人たちの元へ、
 無事にかえりましょうね」



 「そうだね。
 旅人が一番こころがけることは、待っている人たちのもとへ無事にカエルことだ。
 多恵さんも実は、見た目以上に繊細なひとだ。
 アブラムシにしか興味がないと思っていたが、人への配慮が上手にできる人だ。
 慣れてきた頃が一番危険だという。
 運転にはくれぐれも注意しながら、目的地へ急ごう」


 無事カエルをもらった手前、事故を起こすわけにはいかない。
キャンピングカーに乗り始めて1週間。
勇作が、カムロードの大きな車体に慣れてきた。
だが運転操作と、大きな車体に慣れてきたころが一番、危険になる。
慣れは油断を生み、思いがけないところで落とし穴を掘る。



 (いまは義助の墓へ、無事に着くことが一番だ。
 そこが今回の旅の終着点になる。終わりよければ、すべて良し。
 安全に旅を終えることが、帰りを待っている人たちへのなによりの土産だ。
 すずを、ひとり娘の元へ無事に返すのが俺の大切な役目だ。
 無事に帰らなければ、すずの認知症の治療をはじめることが出来ないからな)


 
 新田義貞の弟・脇屋義助は、興国3年(1342)4月23日。
四国西国の南朝方の大将として、今治に赴任している。
熊野の海賊と村上水軍の船、300隻余りに守られて淡路へわたり、瀬戸内海を抜けて
赴任地の今治に上陸したと太平記にある。
着任したばかりの義助は5月7日、急病に襲われ、5月11日、急逝している。


 義助は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓に眠っている。
墓の正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」と銘が記されている。
側面には、「暦応3年(1340)5月11日卒」と書かれている。
墓は亡くなった時に作られたものではなく、後になってから建てられたものだ。
義助の病没は康永元年(興国3年 1342)、5月11日が正しい。



 「上州からから来たつわものの兄弟も、ついていないですねぇ。
 兄の義貞は、ふるさとから遠く離れた福井の地で不覚の戦死を遂げて、
 弟の義助は、さらに遠い四国の伊予の地で急死ですか。
 2人とも亡くなった年齢が、同じ38歳。
 なにか因縁めいたようなものを感じますねぇ・・・
 東国から来た武将たちは、さぞかし帰りたかったでしょうねぇ。
 生まれて育った、新田の荘へ・・・」


 あなたにもあげましょうと、すずがもうひとつのちぎり和紙のカエルを取り出す。
義助の墓へ行くのなら供えて下さいと、別のカエルを多恵から預かって来た。
誰かが手向けていったのだろう。
墓前に供えられた花束の隣へ、すずが預かって来たカエルをそっと置く。



 義助が病死した伊予から、生まれ育った上州(群馬県)の新田の荘まで、
地図上の直線距離で、630キロ余り。
自動車で最短距離を走っても、走行距離は800キロを軽く超える。
南北朝の時代で考えれば、毎日30キロ以上歩いても、20日をこえる長旅になる。
亡くなる前。はるか東の空に有るふるさとの景色を、義助はどんな想いで
思い起こしていたのだろうか・・・


(118)へつづく

 

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (116)初老の恋

2015-08-30 11:27:13 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(116)初老の恋




 「本気なの?。あなたは・・・」思わずすずが、背筋を伸ばす。
ハンドルの上に放置していた両手を、膝の上に戻す。
上半身をひねる。すずの呆れたような顏が、真正面から勇作の顔を覗き込む。


 「初老になったら恋をしようと、俺は考えていた。
 俺たちの離れ離れの生き方がはじまったときから、実はひそかに決めていた。
 相手はもちろん、おまえだ。すず。
 だが、俺の頭は出来が悪い。
 初老と言うのは、還暦が近くなってきた頃の事だろうと勝手に思い込んでいた。
 だがつい最近、途方もない事実を発見した。
 初老と言う呼び方は、40歳だということをはじめて知った。
 50歳を中老と呼ぶ。それ以降の呼び方は、特には決まっていないそうだ。
 悪いなぁ、すず。気が付いたらもう58歳だ。
 今回もまた、恋を語るのが、どうやら遅くなりすぎてしまったようだ・・・」


 
 「田山花袋が書いた、田舎教師の中に出てきますねぇ。
 たしか、中爺という言葉が。
 二の章の冒頭あたりに書かれていたと思います。
 オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。
 学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。
 家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの
 中爺(ちゅうおやじ)がせっせと傘を張っていた。
 家のまわりには油をしいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。
 清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。
 たしか・・そんな風に書かれていたと思います」


 「驚いたねぇ、君は・・・
 いまでもチャンと記憶しているのかい、大昔に読んだはずの本の中身を!」


 
 「夜が長くなるのは、日暮れの早い秋だけではありません。
 子育てが終わった女には、夜の時間が、とほうもない量で押し寄せてきます。
 つまらないテレビで時間を潰すより、本でも読むほうがよほど性に合っています。
 島崎藤村、田山花袋など、夜が更けるまでたくさん読みました。
 そうなのよねぇ・・・還暦前の50歳のことは、中爺と言うのよねぇ」


 「俺たちは、初老じゃなくて、中爺の恋をするわけか」


 「あら、口説いてくれるの。嬉しいなぁ。
 貴方が恋をするはずの初老から、もう18年も過ぎたというのに!」



 「茶化すな。なんだか急に恥ずかしくなってきた」



 「わたしは真面目です。ちゃんと受け止めますから、熱く語ってください。
 でもね。最初に断わっておきます。
 たぶん、あなたの気持ちを受け止めるだけ精一杯で、わたしはあなたへ
 何も返すことができません。
 あなたのことを、忘れてしまいそうなわたしが居るの。
 それでもいいというのなら、中老の告白を聞きたいと思います」



 「忘れてもいい。それは病気のせいだ。けして君が悪いわけじゃない。
 君が俺のことを忘れても、それでも俺は、いつでも君の隣に居る」


 「馬鹿なことを言わないでちょうだい。
 あなたのことを、”どなたですか”などと、言いたくないの、あたしは。
 わかるでしょ。そういう末路が待っているのよ。
 軽度認知障害という病気は」


 「君が俺の事を忘れてしまうときが、来るかもしれない。
 でも、そうならない可能性も残っている。
 明日の事は、誰にも予測できない。
 君は自分の記憶を頭の中へとどめておくために、最大限の努力をしている。
 でもさ。忘れてしまった記憶を、無理に思い出すことなんか無いさ。
 新しい経験をたくさん積み上げて、新しい記憶を溜めこんでいけばいい。
 それだけで人は、前にすすんでいけるはずだ」


 
 「あたらしい記憶まで忘れてしまったら、その時はどうするの?」


 
 「また新しい記憶を、君と2人で作り出すだけだ。
 すず。過去の出来事なんか、全部忘れてしまえ。
 大切なのはこれから先だ。俺たちが、どんな風に生きていくかだけだ。
 あたらしい思い出を、2人で山のように作っていこう」


 「泣かせないで・・・前が見えなくなってきたじゃないの」


 「前が見えないのなら、運転は俺が代わる」



 「そう言う意味で言ったんじゃないの。
 今ごろになってから私を泣かせないでよ、馬鹿。とうへんぼく・・・・」



 「分かっているさ」でも運転は代わるよと、勇作が助手席のドアを開ける。
「あいかわらず寒いから、君は外へ出なくてもいい。助手席へそのままスライドしてくれ。
俺が外を回るから。」と声をかける。
「はい」と答えたすずが、手の甲で目頭をぬぐう。
ゆっくりと身体の向きを変えたすずが、そろりと膝を立てて助手席へ移動していく。


(117)へつづく
 

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (115)駐車場の真ん中で 

2015-08-29 10:30:35 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(115)駐車場の真ん中で 



 
 「キーをちょうだい」覚悟を決めたのだろう、すずが白い指を伸ばす。
「大丈夫かしら、こんな大きな車。わたしのハイブリッドとだいぶ違和感があるけど」
そういいながらも、ためらいもなくキーを挿入していく。


 「ルームミラーは有るが、後部がごちゃごちゃしているから使えない。
 側面と後方の安全は、左右の大きなミラーで確認する。
 お尻の下に前輪のタイヤが有る。
 そのため、少し遅れ気味にハンドル操作をする必要がある。
 この2点かな、とりあえず君が最初に注意するのは」



 セルを回すと、2500ccのディーゼルターボが動き出す。
前照灯を点け、サイドブレーキを緩めると、ゆっくりと車体が動き出す。
アクセルを静かに踏み込むと、軽く反応して心地よい加速がはじまる。
ここにもキャンピングカーを改造した、椎名所長のアイデアがひそんでいる。



 トヨタカムロードの最大の泣き所は、乗り心地だ。
無理もない。ダイナやトヨエースなどと同じ車体がベースになっている。
とにかく跳ねる。よく揺れるで、後ろのキャビンは大変な状態になる。
困るのは、コーナーで振られたり、高速でフラフラと車体が不安定な状態になることだ。
それらの不具合を解消するために、椎名がエアーサスペンションを取り付けた。
本格的なエアーサスペンションではないが、エアーを調整することで、
安定した走りと、クッションの度合いを調整できる。



 「今回の最大の特徴がこれだ。乗用車のように運転しても、とにかく安定する。
高くつくぞ、このエアーサスペンションの追加は」と、椎名が笑っていたのを思い出す。
事実。路面の凹凸を気にせずに、キャンピングカーが滑るように走行していく。
20キロに達したところで、すずがアクセルをゆるめた。
勢いを保ったままキャンピングカーが、なめらかに駐車場を横切っていく。



 「上手だ。いまのところ、特に問題はなさそうだ」


 「走り始めたばかりで問題が有るようでは、この先のハンドルを握らせてもらえません。
 ところで国道はどちらかしら。右、それとも左?」



 「駐車場を出たらすぐ左。そのまますすめば5キロほどで国道11号へ出る。
 国道へ出たら、伊予方面へハンドルを切る。
 海沿いを走って、およそ100キロ。3時間余りで目的の今治に着く。
 今治駅から10分ほど走ったところに、脇屋義助の墓が有る。
 そこが今回の旅の、終着点になる」



 「あら、あとわずかで、終着点へ着いてしまうのですか。
 あっけないですねぇ旅の終りは。
 ようやく2人きりになれたというのに、たった3時間で終着点かぁ・・・」



 「終わらないさ。終わるものか。俺たちの旅はその先から始まるんだ」


 ハンドルを操作していたすずの手が止まる。
惰性で走っていたキャンピングカーが、走力を失って駐車場の真ん中で停止する。
「もう一度言って。前を見ていたから、よく聞こえなかったわ・・・」
本気なのあなたは、とすずの澄んだ目が真正面から勇作の顔を覗き込む。



 「やっと2人きりになれた。
 俺たちの旅ははじまったばかりさ。
 この先、君がどうなろうが、俺は君と歩きつづけるつもりだ。
 もう、そう覚悟を決めた。
 いいだろう、これから先、君とずっと一緒に居ても」


 「構いません。でも、本当にいいの、あなたはそれでも。
 いつの日かわたしはあなたのことを、忘れてしまうかもしれません。
 あなたの顔を見て『あら、どちらさま』などと、言い出すかもしれません。
 それでもいいの、本当に?。考え直すのなら今です。
 病気の女なんか見捨てて、いくらでも代わりの女性を探すことはできます。
 祇園の恵子さんなんか、いい女のひとりだと思います」



 「その件なら決着した。彼女にはもう、『ごめんなさい』と振られた後だ。
 すずさんを一生大事にしてくださいと、かるく逃げられた。
 もういいだろう、すず。
 ちゃんと俺の言うことに、耳を傾けてくれ。
 俺には君が必要だ。
 結婚してくれとは言わないが、死ぬまで君のとなりに居たいんだ、俺は」
 

(116)へつづく
 

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (114)車の運転

2015-08-28 11:35:58 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(114)車の運転



 翌朝6時。
昨夜遅く勇作のベッドへ潜り込んで来たすずが、夜明けとともに動きはじめる。
2段ベッドの下の段。小々狭いスペースに、すずと勇作が重なり合うようにして眠った。
カムロードには、収納式のベッドが上下2段の形で備え付けてある。


 大型車なら1,850mm×1,400mmの大きなベッドを、後部に設置することができる。
車内の前半分を食事と団らんのための場として確保し、後ろ半分を
睡眠のための空間として分離して使える。
だが中サイズのトヨタのカムロードでは、こうした配置に無理がある。
車体の横幅を生かして、80センチの幅の2段ベッドを最後尾部分に組み込む。
こうすることでスペースの前部に、快適な空間が生まれる。



 静かに回るFF式の暖房機は強力だ。車内の空気も、それなりに温まる。
しかしベッドの中の足元までは温まらない。
ベッドへ潜り込んだすずが、「冷たすぎます!私の足が」と悲鳴を上げる。
靴下を脱いだ途端、すずの指先は、氷のように冷えてくる。
枕を抱えたすずが、するりと勇作のベッドへ降りてきた。



 「おいおい。俺はおまえの、湯たんぽか?」



 「駄目なの。あたしって。足の指が冷えると、それだけで眠れなくなるの。
 あなたの足は、ぽかぽかしていて温かいんだもの。
 うふふ、やっぱり居心地がいいわぁ~。あなたの隣は」



 日の出の時間は6時50分。表にはまだ、夜の帳(とばり)が降りたままだ。
上半身を起こしたすずが、あわてて靴下を、2枚かさねて履く。
1枚のままでは歩き始めた瞬間から、指先が冷えはじめるからだ。
「大変だね」と笑うと、「もう58年も、こんなわたしとお付き合いをしています。
面倒ですが、それなりに、すっかり慣れました」とすずが、小さくはにかむ。



 夜明け前の駐車場は、まだ氷点下の世界だ。
アスファルトの表面には、霜が作り上げた真っ白い絨毯がひろがっている。
その上を歩いて行くと黒々とした足跡が、トイレの入り口まで点々と続く。
「あら。間抜けな泥棒が、足跡を残してしまったような、そんな状態ですね」と
歯ブラシを咥えたすずが、こちらを振り返って笑顔を見せる。



 「すぐに消えるさ、たぶん。俺たちが立ち去る頃には」



 車中泊に、長居は無用だ。
道の駅は、地元の人たちもひんぱんに使う。
トイレや24時間開放されている駐車場は、夜明けとともに賑やかになる。
田舎とは言え、夜明け前から動き出す人たちの数も多い。
通勤と思われる車が、制限速度をはるかに超えた早い速度で、道路を通過していく。
街灯の下には、夜明け前の散歩を楽しむ人の姿が、ちらりほらりと増えてくる。
朝の洗面を終えたすずが「さむ~い」と悲鳴をあげて、運転席へ飛び込んできた。



 「運転してみるかい?」勇作がキーを差し出す。
「わたしが運転するの!。出来るかしら、こんな大きな車を・・・」
すずの目が丸くする。



 「でもさ。キャンピングカーって、普通免許でも運転できるの?。
 特別な免許は、いらないの?。
 へぇぇわたし。いままで、特別な免許が必要だとばかり思っていました」



 「普通免許でも大丈夫だ。この車は。
 乗車定員が11人を越えると中型免許が必要になるけど、この車の定員は7名。
 トヨタのカムロードは、トラックをベースにしているので誤解があるようだ。
 大丈夫だよ、こいつは普通免許でも運転できる大きさだ」


 
 「でも、認知症の人は、危険だから運転は避けたほうが良いという声もあります。
 いいのかなぁ。あたしみたいなあぶない女が、ハンドルなんか握っても」



 「病気が進めば、周りが止める。
 でもいまならまだ、慎重に運転すれば、特に問題はないだろう。
 道路交通法が改正されて、高齢者を対象に、認知機能検査が義務付けられた。
 でもこれは、75歳以上の高齢者に限られている。
 認知症がすすんで日常の生活にも支障が出てくるようになれば、
 当然、運転は辞めるべきだろう。
 でも君はまだ、そういう段階じゃないはずだ。と、俺は思っている。
 どうする?、後は君自身の判断次第だ。
 自信が有ればハンドルを任せるけど、不安なら、助手席へ座ってくれ」


(115)へつづく
 


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (113)美しい指先

2015-08-27 11:01:01 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(113)美しい指先




 認知症の早期発見は、難しい。
発症した本人による、『取り繕い』にも注意が居る。
もの忘れがあるにもかかわらず、本人がそのことを自覚したまま誤魔化す場合が有る。
他者に悟られまいと、自然をよそおい取り繕ってしまうからだ。



 「いま何歳ですか?」と問われても、「最近は歳も気にしなくなってきました」
と無難に切り返すのも、そうしたことのあらわれだ。
そうした場合。専門の医師でも、それが症状なのかどうか診断が難しくなる。
すずの場合、それが顕著なまでに表れている。



 失われていく記憶や感覚を、他人に知られたくない。
他人とのやり取りの中で、自分の弱みを露呈したくないという本能がはたらく。
他人には、自分の弱みを見せたくない。すずの場合まさに、それに該当する。



 人にはみな、自分を守ろうとする本能(自己防衛本能)を持っている。
自分の評価を下げたり、自分の能力が低下したことを、素直に認めなたくない傾向を持つ。
認知症の人にも、当然こうした本能は残っている。
責められたり、叱られたりすることを極端に嫌う。自分の失敗を、認めようとしない。
不利な状況を巧みにかわそうとする。などなどの傾向が自然に生まれてくる。



 物を忘れていくことは、本人にはどうにもできない。
認知症の初期は、自分の物忘れに気が付くと、食い止める手立てはないかと
いろいろな対策をはじめる。
忘れたくないことを何度も確認してみたり、メモを貼るなどの対策をとる。
だが次第に、メモをしたことさえ忘れてしまう時が来る。
物忘れの進行は、やがて、思考が回らない症状を生み出していく。
その結果。最後には、自分で自分自身をコントロールすることができなくなる。
いっそうの深み、泥沼の中へ落ちていく。



 (すずは、いま、いったいどの段階にいるのだろう・・・)



 テーブルの上にタブレットを置いた勇作が、メモを書き続けている
すずの手元を覗き込む。
すずの指先は、いつ見ても美しい。
美しい指の動きを見るたびに勇作は、いつもそう感じる。
爪にネイルを入れているわけではない。
美しさを保つためのマッサージや、手入れをしているわけでもない。
だが、すずの指の動きはいつみても美しい。
おそらく。和裁という仕事の中で培ってきたものだろう。
働く指は美しい。すずの指先の動きを見るたびに、勇作はいつも同じ想いを胸にする。


 「どうしたの?。
 メールも読まず、わたしの指先ばかりを見つめて、変な人ねぇ。
 せっかく場所を空けてあげたのよ。
 読めばいいのに。わたしに、つまらない遠慮なんかしないで」


 (まずい・・・)足元を見透かされた勇作が、あわててタブレットを取り上げる。
(そうだよな。すずの美しい指先なんかに、見とれている場合じゃない・・・)
メールを読まなければと、あわててページを開けていく。
冒頭に、古い写真が添付されている。
北陸のどこかの温泉へ行ったときに撮った、家族の様な一枚だ。
幼い美穂が、真ん中に立っている。
その両側ですずと勇作が、満面の笑顔でお互いを見つめている。



 『わたしの原点、大好きな一枚』と添え書きが、書いてある。
(お前さんの原点は、俺じゃねぇ。などといまさら反論しても、あとの祭りか。
実際。可愛かったもんなぁ、この頃のお前さんときたら。
目の中に居れても、痛くなかっただろう、たぶん・・・
本気でお前さんのあたらしい父親になってやってもいいと、考えたくらいだものな。
だが仕事の都合上、俺は、そういう訳にいかなかった・・・)



 「母の認知症は、もう間違いないと思います。
 認知症の症状が見受けられるようになって、一年とすこし。
 初期の段階は、正常と症状の間のグレーゾーンを行ったり来たりすると言われています。
 接し方を間違えると、認知症の進行を進めてしまう場合があります。
 言い方を変えれば、接し方に気をつければ悪化を止める(遅らせる)ことや、
 時には、改善することも可能です。
 以下。認知症初期に関する資料を添付しました。
 認知症の初期の頃は、本人が自分の異常を一番感じています。
 戸惑いや、恐怖心が渦を巻いている状態です。
 崖っぷちギリギリのところを、不安一杯で歩いているような気持ちでしょう」


 以下。『認知症の症状があなたの家族に出た時、あなたはどう対応しますか』
と題された、長い論文が続いている。
 
 
(114)へつづく

 

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