つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(117)義助の墓
キャンピングカーは伊予へ向かう国道11号を、順調にすすんでいく。
朝の7時を過ぎた頃から、車の数が増えてきた。
通勤を急ぐ車の群れだ。
午前8時を過ぎたとき。大きな交差点でついに、軽い渋滞に巻き込まれた。
8時を15分ほど過ぎるとあれほど密集していた車が、嘘のように国道から消えていく。
「忘れていました」すずが、ポーチの中から小さな包みを取り出す。
「痴呆のせいではなくてよ。ただ、わたしが預かったままうっかりしていただけです。ほら」
包みを解いていくと、手のひらの上に乗る可愛いカエルが現れた。
ちりめん細工を手掛けている京都の老舗、リュウコドウの『無事カエル』だ。
カエルの形の上に、職人さんが1枚づつ、ちぎり和紙を張り付けたものだ。
腹部に、『勇作とすずさんへ』の文字が入っている。
老舗お茶屋の女将・多恵が製作しているリュウコドウまで、じきじきに足を運び、
無理矢理つくらせた品物だという。
「無事に返ってきてねと、多恵さんから別れ際に渡されたものです。
お腹の部分に、わたしたちの名前が入っているとは、知りませんでした。
伊予まであと、もう少し。
いままで以上に慎重に運転して、わたしたちを待っている人たちの元へ、
無事にかえりましょうね」
「そうだね。
旅人が一番こころがけることは、待っている人たちのもとへ無事にカエルことだ。
多恵さんも実は、見た目以上に繊細なひとだ。
アブラムシにしか興味がないと思っていたが、人への配慮が上手にできる人だ。
慣れてきた頃が一番危険だという。
運転にはくれぐれも注意しながら、目的地へ急ごう」
無事カエルをもらった手前、事故を起こすわけにはいかない。
キャンピングカーに乗り始めて1週間。
勇作が、カムロードの大きな車体に慣れてきた。
だが運転操作と、大きな車体に慣れてきたころが一番、危険になる。
慣れは油断を生み、思いがけないところで落とし穴を掘る。
(いまは義助の墓へ、無事に着くことが一番だ。
そこが今回の旅の終着点になる。終わりよければ、すべて良し。
安全に旅を終えることが、帰りを待っている人たちへのなによりの土産だ。
すずを、ひとり娘の元へ無事に返すのが俺の大切な役目だ。
無事に帰らなければ、すずの認知症の治療をはじめることが出来ないからな)
新田義貞の弟・脇屋義助は、興国3年(1342)4月23日。
四国西国の南朝方の大将として、今治に赴任している。
熊野の海賊と村上水軍の船、300隻余りに守られて淡路へわたり、瀬戸内海を抜けて
赴任地の今治に上陸したと太平記にある。
着任したばかりの義助は5月7日、急病に襲われ、5月11日、急逝している。
義助は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓に眠っている。
墓の正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」と銘が記されている。
側面には、「暦応3年(1340)5月11日卒」と書かれている。
墓は亡くなった時に作られたものではなく、後になってから建てられたものだ。
義助の病没は康永元年(興国3年 1342)、5月11日が正しい。
「上州からから来たつわものの兄弟も、ついていないですねぇ。
兄の義貞は、ふるさとから遠く離れた福井の地で不覚の戦死を遂げて、
弟の義助は、さらに遠い四国の伊予の地で急死ですか。
2人とも亡くなった年齢が、同じ38歳。
なにか因縁めいたようなものを感じますねぇ・・・
東国から来た武将たちは、さぞかし帰りたかったでしょうねぇ。
生まれて育った、新田の荘へ・・・」
あなたにもあげましょうと、すずがもうひとつのちぎり和紙のカエルを取り出す。
義助の墓へ行くのなら供えて下さいと、別のカエルを多恵から預かって来た。
誰かが手向けていったのだろう。
墓前に供えられた花束の隣へ、すずが預かって来たカエルをそっと置く。
義助が病死した伊予から、生まれ育った上州(群馬県)の新田の荘まで、
地図上の直線距離で、630キロ余り。
自動車で最短距離を走っても、走行距離は800キロを軽く超える。
南北朝の時代で考えれば、毎日30キロ以上歩いても、20日をこえる長旅になる。
亡くなる前。はるか東の空に有るふるさとの景色を、義助はどんな想いで
思い起こしていたのだろうか・・・
(118)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(117)義助の墓
キャンピングカーは伊予へ向かう国道11号を、順調にすすんでいく。
朝の7時を過ぎた頃から、車の数が増えてきた。
通勤を急ぐ車の群れだ。
午前8時を過ぎたとき。大きな交差点でついに、軽い渋滞に巻き込まれた。
8時を15分ほど過ぎるとあれほど密集していた車が、嘘のように国道から消えていく。
「忘れていました」すずが、ポーチの中から小さな包みを取り出す。
「痴呆のせいではなくてよ。ただ、わたしが預かったままうっかりしていただけです。ほら」
包みを解いていくと、手のひらの上に乗る可愛いカエルが現れた。
ちりめん細工を手掛けている京都の老舗、リュウコドウの『無事カエル』だ。
カエルの形の上に、職人さんが1枚づつ、ちぎり和紙を張り付けたものだ。
腹部に、『勇作とすずさんへ』の文字が入っている。
老舗お茶屋の女将・多恵が製作しているリュウコドウまで、じきじきに足を運び、
無理矢理つくらせた品物だという。
「無事に返ってきてねと、多恵さんから別れ際に渡されたものです。
お腹の部分に、わたしたちの名前が入っているとは、知りませんでした。
伊予まであと、もう少し。
いままで以上に慎重に運転して、わたしたちを待っている人たちの元へ、
無事にかえりましょうね」
「そうだね。
旅人が一番こころがけることは、待っている人たちのもとへ無事にカエルことだ。
多恵さんも実は、見た目以上に繊細なひとだ。
アブラムシにしか興味がないと思っていたが、人への配慮が上手にできる人だ。
慣れてきた頃が一番危険だという。
運転にはくれぐれも注意しながら、目的地へ急ごう」
無事カエルをもらった手前、事故を起こすわけにはいかない。
キャンピングカーに乗り始めて1週間。
勇作が、カムロードの大きな車体に慣れてきた。
だが運転操作と、大きな車体に慣れてきたころが一番、危険になる。
慣れは油断を生み、思いがけないところで落とし穴を掘る。
(いまは義助の墓へ、無事に着くことが一番だ。
そこが今回の旅の終着点になる。終わりよければ、すべて良し。
安全に旅を終えることが、帰りを待っている人たちへのなによりの土産だ。
すずを、ひとり娘の元へ無事に返すのが俺の大切な役目だ。
無事に帰らなければ、すずの認知症の治療をはじめることが出来ないからな)
新田義貞の弟・脇屋義助は、興国3年(1342)4月23日。
四国西国の南朝方の大将として、今治に赴任している。
熊野の海賊と村上水軍の船、300隻余りに守られて淡路へわたり、瀬戸内海を抜けて
赴任地の今治に上陸したと太平記にある。
着任したばかりの義助は5月7日、急病に襲われ、5月11日、急逝している。
義助は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓に眠っている。
墓の正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」と銘が記されている。
側面には、「暦応3年(1340)5月11日卒」と書かれている。
墓は亡くなった時に作られたものではなく、後になってから建てられたものだ。
義助の病没は康永元年(興国3年 1342)、5月11日が正しい。
「上州からから来たつわものの兄弟も、ついていないですねぇ。
兄の義貞は、ふるさとから遠く離れた福井の地で不覚の戦死を遂げて、
弟の義助は、さらに遠い四国の伊予の地で急死ですか。
2人とも亡くなった年齢が、同じ38歳。
なにか因縁めいたようなものを感じますねぇ・・・
東国から来た武将たちは、さぞかし帰りたかったでしょうねぇ。
生まれて育った、新田の荘へ・・・」
あなたにもあげましょうと、すずがもうひとつのちぎり和紙のカエルを取り出す。
義助の墓へ行くのなら供えて下さいと、別のカエルを多恵から預かって来た。
誰かが手向けていったのだろう。
墓前に供えられた花束の隣へ、すずが預かって来たカエルをそっと置く。
義助が病死した伊予から、生まれ育った上州(群馬県)の新田の荘まで、
地図上の直線距離で、630キロ余り。
自動車で最短距離を走っても、走行距離は800キロを軽く超える。
南北朝の時代で考えれば、毎日30キロ以上歩いても、20日をこえる長旅になる。
亡くなる前。はるか東の空に有るふるさとの景色を、義助はどんな想いで
思い起こしていたのだろうか・・・
(118)へつづく
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