落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(127)

2013-10-31 12:35:23 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(127)
「桑の木を育てるための環境作りは、桑苗が育つ前からはじまる」




 蚕の餌となる桑を育てるうえで、もっとも神経をつかうことのひとつが
農薬が桑の葉にかからないようにするための工夫です。
桑の葉を育てる畑はもちろんのこと、近くにある野菜畑でも農薬を散布してはいけません。
繭を創りだす蚕という生き物は、タバコや蚊取り線香の煙を吸っただけでも死んでしまいます。
それほどまでにきわめてデリケートで、繊細な幼虫なのです。
餌となる桑の葉は、こうした整った環境の中でしか栽培することができません。


 桑の葉は春から秋にかけて大きく成長し、秋にはすべての葉を落とし来るべき厳しい冬に備えます。
桑の木を維持するための大切な作業が、葉っぱが落ちてからの剪定です。
冬の間にしっかりと剪定をしておかないと、翌春からの桑の葉の成長がよくありません。
また、桑の木はたった1年間手入れしないだけでも荒れ果ててしまうというほど、
きわめてデリケートな木ですので、この冬のあいだの管理は、欠かすことができません。


 ジングルベルの音色とともに年の瀬がまたたくまに過ぎ去り、門松たちが戸口を飾る
新年を迎えると、群馬には本格的な降霜とからっ風の季節がやってきます。
1月と2月の厳冬期に入ると、はぼ毎日のように、畑は降霜によって真っ白に変わります。
この時期特産となる白菜は、霜の害から内部の葉を守るために『ハチマキ』と呼ばれる方法で、
頂点の部分を紐でキツく縛りあげ、厳冬期の凍結から我が身を守ります。
露地で栽培をされているほうれん草やネギたちも、真っ白に凍てつきながらいつものように朝を迎えます。



 この頃から猛威をふるい始める『赤城颪(あかぎおろし)』とは、
群馬県の南部一帯を、北西から吹きおろしてくる乾燥した冷たい季節風のことです。
『上州の空っ風(じょうしゅうのからっかぜ)』と別名で呼ばれています。
大陸のシベリア寒気団から日本列島に向けて吹きつけてきた雪を含んだ強風が、群馬県と長野県・新潟県境の
山岳部に大量の雪を毎年のように降らします。
水分を失って乾いた風となったこの強風が、信越の山肌に沿って一度上昇をしたあと、
関東平野の最北端にそびええている赤城山の山肌に沿って、激しい勢いで平地へ向かって吹き降ろしてきます。
これが季節風の『赤城颪』です。群馬県太田市や伊勢崎市の郊外では、赤城おろしの強風で
畑地の砂塵が巻き上げられ、空を薄黄色く染める光景が度々にわたり目撃をされます。


 康平と英太郎が、来るべき春のために準備をした3000本にわたる桑の苗木たちも、
本格的な冬ごもりの準備の季節に入りました。
霜と凍結から桑の苗木を守るために、わらを敷き詰め、その上に防御用のネットを頑丈に掛けていきます。
放置したままでは吹き荒れる強風が、苗木の根元からすべての土を吹き飛ばしてしまうからに他なりません。
もうひとつ冬のあいだの大切な畑での作業が、土壌を改善するための畝(うね)の掘り返しです。
畝(うね)は、 畑で作物を作るために、細長く直線状に土を盛り上げていく部分のことです。
畑の中に部分的に高く盛りあがった畝を作ることで、適度となる乾燥と保湿を維持することができます。
畝のもつ最も大切な機能が、土と水分、空気の3つを常に適正に保つことにあります。



 この畝を良好な状態に常に保つためには、表面が凍り始めてくる厳冬の時期に、
伝統的な『畝起こし』と呼ばれる作業を、何度も繰り返す必要があります。
通常であればトラクターなどで畑を攪拌して土をかき混ぜていきますが、厳冬期の作業にかぎり、
別の意味合いを含んでいるために、すべて人手による作業が必要となります。


 その日の朝。徳次郎老人が新品の鍬(くわ)を手に、2人の前に現れました。
金属製の刃がついている鍬は、農産物周辺の土を掘り起こし、雑草などを取り除く際に使用されます。
洋の東西を問わず一揆や反乱などの時には、農民たちの武器としても使われた道具です。


 「さて。本格的な百姓の必需品といえば、この鍬のことだ。
 シンプルな道具だが、土の掘り起こしから雑草の退治、地中に有る根菜類の収穫や
 水路工事にまで使えるという、いたって万能の優れものじゃ。
 いまどきの若い連中は機械ばかりを使いたがるから、身体がなまっていかん。
 鍬を一日中振り回すことで、充分すぎるほどに己の足腰を鍛錬することにもなる。
 ということで、今日からは冬の名物、『真冬の畝起し』の作業じゃ。
 断っておくが、この作業は春まで断続的につづける必要がある、きわめて大切な段取りのひとつじゃ。
 大地が凍てつく時期だからといって、コタツでぬくぬくしているようでは明日は来ないぞ。
 ほい。これが康平用で、こっちの柄の長いほうが長身の榮太郎用じゃ」



 「え・・・・柄の長さにも、個人差などがあるのどすか?」


 「当たり前じゃ。人力が全てだった時代に、この鍬という道具は万能だった。
 様々な用途に応じて、先端の部分にも工夫などが施され、重い粘土用や軽砂地用では別の形にもなる。
 2尺から6尺まで、用途に応じ、人の体型に応じて当然ながら柄の長さも工夫をされておる」

 「で。これを片手に5反の畑を耕そうというのですか・・・まったく、木の遠くなるような話だ」


 「バカモン。百姓とは常にそういうものじゃ。
 つべこべ言わずに動き始めてしまえば、それだけ早く終わりもやってくるというもんじゃ。
 今時の若い連中は、そんな簡単な理屈もわからんと見える。
 手と足にたっぷりとマメができてこそ、真の百姓が誕生するというもんじゃ。あっはっは」


 「康平はん。どうやら、諦めも肝心のようどす。
 そこまで言われたら、引き下がる訳にもおりません。
 じゃあ、やりますか。徳次郎はん、なんか、コツのようなものがありますか?」


 「耕し方には、当然のようにコツがある。
 まずは、大きく荒く耕すことじゃ。間違っても細かく砕いたりしてはいかんぞ。
 鍬を上から大きく打ち込んで、そのまま上下をひっくり返してやればいい。
 大きすぎる場合は、土の塊りを適当に砕く。見た目が、ゴロゴロとしているような感じで上等だ。
 掘りあげていくと、そうすると、こんなやつも出てくる」


 ほらよっ、と言って、徳次郎が土の塊の中から冬眠中の幼虫をつまんでみせます。
冬眠中のクワガタかカブトムシと思われる幼虫です。


 「丸くなって冬眠している。触ってもこやつらは全く動かん。
 土をひっくり返すことによって、虫や細菌を殺してやろうという算段も含まれておる。
 だから、ひっくり返したこの畝は、このままで放置をするんだ。 
 霜が降りたり凍ったりすることにより、作物に害をおよぼす虫や卵や細菌どもは死んじまう。
 大きな土塊のままで砕かないのは、土の中の空気の流通をよくするためだ。
 大風が吹いて空気が動くと、土は更に冷えることになる。
 これは大昔から農家がやってきた、冬のあいだに土を鍛えるための唯一の方法だ。
 凍ったり溶けたりを繰り返すことで、土も自然に砕けて柔らかくなる。
 どうだ、なかなかに大したもんだろう。
 ただ耕すだけで春のための新しい土が生まれてくるんだからな。
 だから、もう寒いからなどとサボっておらず、必死になって耕すだけは耕しておいた方が、
 あとあとのためにも、きっとなる」


 「あとあとのため?。・・・・
 おかしいなぁ、ご老人。なにか別の使い道でもありそうな、そんな口ぶりですが」



 「おう。春になったらお前の母の千佳が、ここへホウレンソウを植えるそうだ。
 桑畑に作られた畝を利用して、春物や夏野菜を育ててきたのは昔からのよく使われた方法だ。
 幸いなことにこの近所の畑でも、来年からは農薬を一切使わなくなるという話を決めた。
 蚕用の桑畑ともなれば、そのくらい周囲の協力などが必要となる。
 無農薬で有機の土壌なら、いま流行りの安心で安全な野菜がいくらでもたくさんに育つ。
 お前さんたちがここへ桑畑を完成させる前に、千佳の無農薬の野菜が先に育ちそうだのう。
 だがそれもまた、一興だろう。今年の春は、いまから面白くなりそうだのう」


 「徳次郎はん。桑の木が育って蚕に食べさせるまでに、どのくらいかかりますか」



 「来年の春に定植して、無事に根が付けばそれから2年後には一人前の桑の木に育つじゃろう。
 3年目の春が来れば、ここは一面の桑畑にかわることだろう。
 楽しみじゃのう。たかが3年後だが、されどたったの3年後の話じゃ。
 そんなことよりも、さぁ、さぁ仕事だ、仕事!。 働け、働け、未来を担う若者たちよ!
 あっはっは。・・・さぁてと、わしは家に戻って、ばあさんとお茶でも飲むか。いっひっひ」



 
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からっ風と、繭の郷の子守唄(126)

2013-10-29 11:12:56 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(126)
「前橋への帰り道、貞園は初めて康平の胸で甘えて眠る」 





 「どうどした。2階の貞ちゃんの様子は?」

 「よく眠っています。可哀想だから毛布をかけ直して、また戻ってきました」



 30分ほどで到着をした康平と千尋が、声を潜めたままの会話をしています。
実行犯の傷の手当は概に終わり隣室へと移され、その枕元には岡本が付き添っています。
『何かあったら何時でも連絡をしてくれ。といっても鎮静剤と睡眠薬を大量に飲ませたから、
本人は何も気がつかず、朝まで眠りこけることだろう。じゃあな、また明日来るから』と、
治療に当たった杉原医師も、そう言い残してからたったいま帰っていったばかりです。


 「お茶が入った。おい岡本。お前もこっちへ来て一休みをしろよ」



 俊彦が台所から居間へ戻ってきました。
声をかけられた岡本が、のそりと立ち上がり2人が小声で会話を交わしている居間へ顔を出します。



 「だからよ。そっちの姉ちゃんも、いつまでもそんな怖い目で俺を睨むなよ。
 事情は、さっきから何度も説明をした通りだ。
 危険だからやめろと何度も説得をしんだが、本人が最後まで絶対に『やる』と言い張ったんだ。
 わかったよ。あの子を危険な状態に巻き込んだのは全部、俺の責任だ。
 謝るから、もういい加減でそんな怖い目で見つめるなよ。
 あんたのような別嬪さんに、そんな怖い目でみられると我ながらに切なくなる。
 で、・・・・ところでよう、そういうお前さんは、いったいどこの誰なんだ。
 初めて見る顔だが。もしかしたら、康平のあたらしい恋人か?」



 「京都から来た千尋さんで、美和子とは座ぐり糸の同期にあたるそうだ。
 事情もよくわからないまま突然ここまでやって来たら、部屋の中を見れば瀕死のけが人はいるし、
 あの子は、2階で死んだように寝ているわでは、事情がわからずに怒りだすのも無理はない。
 紹介しておこう。今回の首謀者のこいつは極道稼業をやっている岡本という男で、
 俺は蕎麦屋をしている俊彦だ。
 いちおう、康平の師匠ということにはなっている」


 茶碗を配り始めた俊彦が、見かねたように横から助け舟をだします。
『師匠』と聞いた瞬間、反射的に千尋が慌てて背筋を伸ばし、姿勢を正しています。


 「あれれ?。俺のことは軽蔑のような眼差しでしか見てくれないが、
 師匠と聞いた瞬間、姿勢を正して礼儀を尽くすとは、お前さんもなかなか筋の通ったおなごだな。
 やはり、そういうところは只者じゃないな。お前さんも」


 「只者ではおまへんというのは、どういう意味のことでしょう?」
 思わず千尋が尋ね返します。



 「そうか。お前さんも美和子と同じ座ぐり糸の職人さんか。
 今のご時世、座ぐり糸の仕事をして、生計を立てようなどと考えるのは並み大抵のことじゃねぇ。
 それを承知の上で、わざわざ群馬までやって来て修行をしようというのだから、対したもんだ。
 たしかに、後世に残しておきたい郷土の文化のひとつだ。
 いや、富岡製糸場が世界遺産入りを目指している今の時期だからこそ、姉ちゃんのように、
 絹の文化を後世に伝えてくれる存在は、まさに貴重だし、志にも高いものがある。
 その点に感心したことがまずひとつだ。それから、師匠と聞いた瞬間に姿勢を正す心がけぶりも見事だ。
 どうだい。これくらい褒めれば、俺様への機嫌も直してくれるかな?」


 「はい。事情も知らんと、たいへん失礼をいたしました」、目を細めて千尋が笑いはじめます。


 「そうこなくちゃ!。やっぱり美人は笑うのに限る。
 2階で寝ている姉ちゃんも美人だが、お前さんは、それ以上の別嬪さんだ。
 そう言えば、康平の初恋の相手の美和子もかなりの美人だった。
 康平の周りには美人ばかりが集まってくるようだが、なにか集める秘訣でもあるのかな。
 もしかしたらこの野郎は、目写りばかりしているから、いつまで経っても嫁が決まらないのかもしれねぇ。
 う~ん。となると、モテすぎるというのもやっぱり考えものだな。あっはっは!』


 「いつの間にかすっかりと賑やかです。あら、千尋さんまできてくれたの。嬉しい」



 2階から、毛布をまとったままの貞園が降りてきました。
こころなし頬が青白いようにも見えますが、寝起きの本人は元気を装っています。



 「すこし寒気を感じるの。このまま毛布を借りていってもいいかしら。
 帰ろう康平。なんだかとっても眠いの。オジサマ達にはこのまま失礼をして、家に帰って眠りたい」


 ふらりとする貞園を、あわてて千尋が支えます。
慌てて立ち上がる岡本を、貞園が柔らかい笑顔で押しとどめます。



 「大丈夫です、おじさま。
 お約束の頬へのキスですが、私がもう少し元気になるまで『お預け』でもいいかしら?
 俊彦さん。いろいろとお気遣いをいただき、ありがとうございました。
 2部式の着物も、またその時に物色をさせてください。
 元気になったらまた、お2人にお会いするために、お礼かたがた桐生へ遊びに来ます。
 この作務衣を拝借したまま、今日はこれで失礼します」



 「おう。そうしろ。いいから、いいから、もう余計な神経を使うんじゃねぇ。
 頼んだぜ、康平。姉ちゃんを大事に前橋まで送り届けたやってくれ。
 世話になったなぁ、姉ちゃん。あんたは堅気にしておくのはもったいないほどの器量をもっている。
 俺がもう少し若けりゃ、無理やりにでも口説きに行くんだが、残念ながらこの歳だ。
 ありがとうな。気いつけて、けえれよ」※上州弁では、帰る→『けえる』と表現します※



 
 織物の街・桐生市から県都の前橋市までは、車で約40分。
赤城山の南に広がる山麓を、東から西に向かって横断するように走り抜けます。
長い裾野を引く赤城山の正面は前橋市から見たもので、桐生市から見ることのできる、
いくつもの尾根が横へ連なった形の山容は、実は、真横を向いた形です。


 千尋の軽自動車は後部座席に毛布に包まれている貞園を載せて、夜の国道をひた走ります。
無言の康平は、前方を見据えたままハンドルを握り続けています。
助手席に座った千尋も、少しの時間が経過をするたびに、ひんぱんにルームミラーへ目を走らせます。
貞園がちょっとした身動きを見せるたびに、いちいち後部座席を振り返ります。
ひと時たりとも、貞園の様子から観察の目を離しません。
貞園が大きく寝返りをみせたとき、助手席から身体を乗り出して見守っていた千尋が、
『停めて』と、運転席の康平へ小さくささやきます。



 「康平くん。やっぱり貞ちゃんの様子が、ちょいと変。
 たぶん必死で、持病の過呼吸症の発作と戦っとる最中だと思う。
 運転を代わりますから、康平くんは後部座席へ移って貞ちゃんをみておくない。
 過呼吸は努力次第で、自分でコントロールが出来る病気だそうどす。
 おそらく貞ちゃんはいま、その瀬戸際で、必死になって頑張っとるんだと思うて。
 お願いそやし、貞ちゃんを支えて励ましてやって。
 いまの貞ちゃんに一番必要なのは、たぶん、ウチじゃなくて康平くんだと思う。
 あれほどまでにあんたを慕っとるのに、なにひとつしてあげない男なんて、
 あんたも、ずいぶんと残酷すぎます。
 貞ちゃんの内ねぎに秘めた気持ちには、あたしもちゃんと気がついています。
 でも、今日だけは話は別。今日だけは、やきもちなんか絶対に妬きません。
 そやしあんたも安心をして、後部座席へ移ってちょうだい」



 後部座席へ移った康平が、眠っている貞園の上半身を抱き起こします。
熱がこもっているせいか、火照り続けている貞園の頬が康平の胸に初めて触れてきます。
汗で濡れて乱れている前髪を、康平が指で、そっとかきあげます。
毛布を巻きつけている貞園の上半身からの火照りは、康平の手のひらにも伝わってきます。
形の良い胸のふくらみは、不規則なままに上下動を繰り返しています。
半分ほど開いたままの貞園の唇からは、熱い吐息が、とぎれとぎれに漏れ続けています。


 「はい、タオル。これで、ちゃんと貞ちゃんの汗を綺麗に拭いてあげて。
 風邪をひかせへんために、恥ずかしがらんとちゃんと拭いてあげるのよ、手をぬいちゃあかん。」



 タオルを受け取った康平が貞園の頬に浮かぶ汗を、ひとつずつ抑えていきます。
『ここも・・・・』と康平の耳元で、小さくささやいた貞園が、作務衣の首筋を少し開けます。
貞園の白い首筋にキラリと汗が光っているのが、康平からもよく見えます。
『起きているのかよ、お前』と康平が小声で聞けば、秘密めかした小さな声で、
『いいえ。私はまだ眠ったままです。でもこの手が勝手に動いて、作務衣の襟を開けました』
いいから拭いて頂戴よと、さらに貞園が耳元で甘えています。
『千尋の公認だもの。いいから拭きなさい、風邪をひいちゃいます。うふ』と、
妖艶な笑みさえみせています。





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からっ風と、繭の郷の子守唄(125)

2013-10-28 09:53:28 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(125)
「オルレアンの乙女は、傷つきやすい過呼吸症の持ち主」




 「オルレアンの乙女のように、おっぱいを丸出しにしたまま、実行犯を守ったそうだね。
 やってくれるとは思っていたが、おっぱいまでサービスしてくれると予期していなかったと、
 若い連中が、鼻血を出して有頂天で喜んでいたぜ。
 冗談はさておき、娘の響(ひびき)の衣装を見繕ってきたから、これに着替えてくれ。
 さすがにその格好のままで居られては、おじさんたちもムラムラとくるものがある・・・むふふ」


 ※ジャンヌダルク。(1412-1431) フランスに登場をした国民的ヒロインのこと。
 東部の小村ドムレミーの農民の娘で百年戦争の後期、フランスの解放を神に託されたと信じ、
 シャルル七世から授かった軍隊を率いて、オルレアン城の包囲を解くなどフランスの危機を救う。
 のちにイギリス軍の捕虜となり、宗教裁判で異端の宣告を受け、ルーアンで火刑とされる。
 1920年、聖女のひとりに加えられる。別名、『オルレアンの少女』※


 顔を真っ赤にした貞園が、衣装を胸に抱えこんだまま、いそいで2階へ駆け上がります。
俊彦のアパートでは、すでに医師の杉原が実行犯の到着を待ち構えていました。
到着するなり、そのまま居間へ移されて、意識不明の実行犯の治療が始まります。
腹部の浅い部分を貫通していった弾丸は、大量の出血を発生させたものの奇跡的に内部臓器への
損傷を最小限に抑え、どうやら致命傷にはならずに済みそうだと、杉原が岡本たちに
所見の説明をしています。


 「まったくもって、どこまでも運の良いやつだ。
 貞園に助けられたうえに、医者にも恵まれたとなると、もうこれ以上、武士に二言は言えまい。
 これならば国外逃亡などをさせずとも、美和子の離婚話に同意をさせたも同然だ。
 さすがにオルレアンの乙女は、見事なまでに周りを救ってくれる。
 おかげで面倒な手間がひとつはぶけたというものだ。万事めでたし、よかった、よかった」

 岡本が一人で納得の笑みを浮かべ、悦に入っています。
「なにがそれほどまでに楽しいのですか、おじさま」、着替えを終えた貞園が、その背後へ戻ってきます。
振り返ると響の衣装とはまた別の、作務衣などを着こんだ貞園がにこやかに立っています。



 「なんだその格好は。よく見れば、昔、ここで響が愛用していた作務衣ではないか。
 どこから見つけ出してきたんだ、そんなものを。
 それにしても台湾生まれだというのに、日本の衣装も似合うとはお前さんも不思議な子だな。
 うん。似合っているぞ。悪くはないな」


 「あら。2階のお部屋に行ってみたら、たくさん置いてありました。
 見た目が素敵だったので、思わず袖を通してみたら着心地までいいんだものすっかり気に入りました。
 こちらも素敵ですが、下の部分が巻きスカートのようになっている着物のほうも、また素敵です。
 プレゼントしてもらえるなら、私はそちらのほうが好みです」


 「今着ているのは作務衣で、巻きスカートの方は2部式着物という新装の和服だ。
 そんなに気にいったのなら、ひと仕事を片付けてきたご褒美として岡本にかわり俺から君へ進呈しよう。
 娘の響が、蕎麦屋を手伝っていた頃に着ていたものばかりだ。遠慮しないでもっていくがいい。
 人助けのご褒美としてチャーミングな女性へあげたといえば、娘の響も納得をするだろう」


 「あら。俊彦さんにも、娘さんがいらっしゃるのですか?」



 「居るには居るが、トシの場合はきわめて複雑だ。
 響は、芸者をしている清子という俺たちの同級生の女が、勝手に生んでしまった隠し子さ。
 だからその独り娘が、なんと24歳になるまで一切、存在にすら気がつかずにいた。
 なにしろ、お互いに意地を張りあったまま、いまだに桐生と湯西川で別れ別れに暮らしているくらいだ。
 もういいかげんに、お互いに覚悟を決めて所帯を持ってもいい頃なんだが、
 あいにくと、親たちがグズグズとしているうちに娘の方が結婚適齢期になっちまった。
 その響なんだが、若狭の原発の様子を見に行ったまま、いまだに音沙汰なしで帰ってくる気配がない。
 そんなわけで、こいつのところもお家の事情は複雑で大変だが、実のところ、
 俺のところだって、適齢期の娘を持て余している有様だ。
 お互いに娘を持つと男親は大変だ。なにかと気が休まらねぇ、こいつも俺も・・・・」


 「まったく関係が無いないだろう。そんな細かい俺たちの家庭の事情など。
 今は実行犯の治療が先決で、助けることが大事だろう。細々とした娘の話など後回しだ」



 「大丈夫だってさ。杉原の初見では。
 貫通した傷の治癒には時間がかかりそうだが、致命傷にはならずに済みそうだという結論だ。
 さて、着替えも終わったようだから、これからどうするお姉ちゃん。帰るんなら
 うちの若い連中に前橋までまた送らせるが、それが嫌なら、誰かに迎えに来てもらおうか」


 「そのことならば、心配はない。
 無事に救出をしたと康平へ連絡を入れたら、車でこちらへ迎えに来ると返事があった。
 スケベ丸出しで、欲望たっぷりに鼻血を出しているお前さんの子分たちに送ってもらうよりは、
 昔馴染みの康平の方がよっぽど安心ができるだろう。
 まもなくここへ着くと思うから、一休みをしながら待つといい。
 それとも2階へ行って、お土産用の2部式着物の物色でもしているかい?。どちらでもいいぞ」



 「物欲に目が眩んで、やっぱり2階の2部式着物が気になるわ。
 でもさ、本当にもらってもいいの?。大事なお嬢さんの大切な2部式の着物だと思うけど、
 それがあっさりともらえるなんて、まるで夢みたいな話です」


 「おう。願ってもいないところで、2部式着物が手に入ったのなら、もう春の新作はいらないな。
 春物のゴルフウェアの代わりに、響の2部式着物を山のようにもらっていけ!。
 あとの責任は、すべてこの俺が取ってやる」


 「なんだかな~、おじさまったら。春物の新作ウェアは、また別のお話でしょう!」



 「わかってるって。冗談だよ。
 お前さんが危険も顧みず、身体を張ってここまで実行犯を連れてきてくれたんだ。
 正直なところ、うまくいきすぎて、俺たちのほうがかえって救われた。
 ひとつ間違えれば俺たちの素性がばれて、あっちの組の連中と戦争が始まる羽目になるんだぜ。
 ゴルフウェアくらいの報酬で済めば、まったくもってのオンの字さ。
 姉ちゃんが真っ暗闇の店内で頑張り抜いてくれたおかげで、今回の作戦が成功をしたんだ。
 感謝するのは俺たちのほうだ。まったくもって見上げた根性の持ち主だ。
 悪いなぁトシ。そういうわけだ。
 俺からもお前さんに頼むぜ。気に入った2部式着物をこの姉ちゃんに
 たんまりと持たせてやってくれよ。どうせもう響には、用の無い品物ばかりだろう?
 おかげで俺の首も、こうして皮一枚を残して無事に残ったことだし」


 2階へ戻った貞園が作務衣のまま、畳に座りこんでしまいます。
(とりあえず、なんとか私の仕事は終わった・・・・)いままでの緊張感がすこしずつ
自分の体から出て行くたびに、途方もなく重い疲労と恐怖がどこからともなくまた蘇ってきます。
貞園の気持ちが緩みはじめるのを、持病でもある過呼吸症がどこかでひそかに狙っているような、
そんな気配が迫ってくることを、何故かどこかで感じています。
ゆっくりと2階へ上がってきた俊彦が、背後から貞園の肩へ毛布をかけます。



 「もういい。気が張りすぎて疲れきったことだろう。
 これ以上、ここで気を使って無理に明るく振舞う必要は一切ない。
 もういいからこの先は、自分自身の気持ちに正直になれ。
 どうする?。俺はまた階下へ戻るが、ここに一人の君を残しておいても大丈夫か。
 寂しいのなら廊下の隅に待機をしていてもいいが・・・・君は、どうしてほしい?」


 「大丈夫です。ひとりでも。
 康平が来たら起こして下さい。すこし眠りたい」



 「わかった。そのほうがいいだろう。
 過激な場所で君は、すべての神経をすり減らしてきたんだ。
 今はなによりも最優先して、身体も気持ちもゆっくりと休める必要がある」


 「ありがとう。でも・・・・心配をして、またこっそりと2階へ戻ってこないでね。
 私は、涙を見られるのがほんとうは大嫌いなの。ごめんなさい生意気で」


 「わかったよ、すべて了解だ。
 思いっきり泣くがいい。それで今日のことは全部を忘れろ。
 悪い夢を見たと思って。じゃぁな」



 トントンと階段を踏みながら、俊彦が階下へ立ち去っていきます。
頭から毛布をかぶったままの貞園が、そのまま畳の上に朽木のように倒れます。
固く閉じられた貞園の両方の目から、涙が一筋溢れ出してきます。


 声も上げず畳に顔をつけたまま、やがて貞園が小刻みに震えはじめています。






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からっ風と、繭の郷の子守唄(124)

2013-10-26 10:03:33 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(124)
「重体の実行犯を乗せベンツは一路、岡本たちが待つ桐生市へ走る」




 「姉ちゃん。ついでに実行犯の怪我の様子を見てくれ。
 運転席側の座敷の下へ、タオルと緊急用の医療品が置いてある。
 すまねえがすこしばかり面倒を見てやってくれ。懐中電灯だ。これを使え」


 助手席から、小型ペンシルタイプの懐中電灯が手渡されます。
明かりをつけた貞園が、いまだに身動きひとつしないままの実行犯を照らし出します。
胸から腹部へかけてが大量の血で、べっとりと濡れています。


 「もしもし。組長。
 はい。指示通り姉ちゃんと実行犯を無事に救出しました。
 姉ちゃんの方はまったく無事ですが、実行犯は撃たれて怪我を負っています。
 いま。様子を姉ちゃんに確認してもらっていますが、さっきから身動きをしない状態です。
 はい。俊彦さんのアパートへ直行ですね。了解しました。
 ところで、姉ちゃんの方はどうしますか?。予定では途中で降ろす手はずになっていますが・・・・
 はい。後を追ってくる車の様子はありません。たぶん、安全だとは思います。
 はい。わかりました、聞いてみます。ちょっと待ってください」


 助手席の男が、携帯の通話口を押さえながら後部座席の貞園を振り返ります。



 「おやじからだが、姉ちゃんはこの先どうするのって、聞いてきた。
 俺たちと一緒に桐生まで行ってもいいが、希望があれば、どこか適当な場所で下ろせという、
 オヤジからの指示が来た。どっちにする?決めてくれ」

 「私も、桐生まで行く」


 貞園が即答で応えます。



 「姉ちゃんも、このまま桐生まで行くそうです。
 病気を抱えているから気をつけろ?。へっ、な、なんですか、どう言う意味ですか組長。
 姉ちゃんは見るからに健康そうだし、病気になんかは見えませんが・・・・
 え?、余計なことは聞くんじゃない?。
 へい。へい。あ、よくわかりました。そういうことなら、充分に気をつけます。
 まもなく道路が市外へ出ますので、30分くらいでそちらへ着くと思います。
 はい。了解しました」



 『おい、ちょっと止めろ。後部座席へ移るから』電話を切った助手席の男が
運転中の長身の男へ指示を出し、車を路肩へ停止させます。
実行犯を投げ込んだ方のドアを開けると、黙って貞園からペンシルライトを受け取ります。



 『ひでえな・・・・』ちらりと腹部の様子を確認すると、座席の足元を物色します。
『ほらよ。お前さんに毛布だ。掛けておけ、寒くなる』ふわりとした毛布を足元から取り出します。
『止血しょうにも出血が酷すぎる。腹部へ直撃弾だな、この様子からすると・・・・』
ペンライトを口にくわえたまま、男が厚手のタオルを取り出しそのまま実行犯の腹部へ当てます。



 「姉ちゃん。過呼吸症の病気を持っているんだって。
 極度の緊張したり、ションキングな光景は見るだけでも身体によくねぇらしい。
 毛布をかぶって身体を横にしていろ。けが人の面倒は俺が見る。
 といったところで、素人が手が出せるレベルの状態じゃねぇ。
 とりあえず出血を停めるために、タオルできつく抑えて我慢させるだけだがな」


 「助かりそう?。死なないよね・・・・」



 「姉ちゃんが最後の最後まで、オヤジとの約束を守り身体を張って頑張ったんだ。
 簡単に、死なせるわけにはいかねぇだろう。
 あとはこいつの運次第だ。
 桐生へ着けば医者が待っている手はずだから、それなりの手当はできる。
 そこまで持てばの話だが、助かる可能性はあるだろう」


 「出血が多すぎる。なにか、私に手伝えることが他にある?」


 「無理すんなって。
 ・・・・そうだな。じゃ、すまねえがこいつの頭を膝枕してやってくれ。
 内部で出血をしている場合、逆流を起こして喉が詰まって窒息をしちまう場合もある。
 ロマンチック場面じゃないが、膝を借してくれるとありがたい」



 「お安い御用です。できるわよ、それくらいなら」


 「姉ちゃん。思いのほか気が強いなぁ
 それでもって繊細な過呼吸の持病持ちとは、見た目にも、まるで信じられねぇ」

 「女はいざとなれば強いけど、普段はか弱く、弱い生き物なの。
 他に何か、手伝えることがある?。なんでも言って」


 「そのまま子守唄でも歌ってくれれば、充分だ。
 それにしてもよく頑張ったなぁ、お前さん。大の男だってビビっちまうような大仕事を
 最後までやり遂げるなんてたいした根性だ。見直したぜ、姉ちゃん」



 「あなたたちのおかげで、命拾いをしました。
 感謝するのは私の方です。護衛のあの冷静な男がブレーカーへたどり着いた時には、
 これでもう最後だと、はっきりと覚悟をしました。
 まさか、あなたたちが突入してきて、私たちを救出をしてくれるとは思わなかったもの」



 「オヤジが考え出した、マル秘作戦の『ウルトラD』のおかげだ。
 東京オリンピックの体操競技で、ウルトラCという大技が有ったらしく、
 それにちなんだネーミングという話だが、俺たちには何のことだかわからねぇ。
 姉さんには内緒で作成をした、救出作戦のひとつだ。
 店内から発砲の音が聞こえたら、迷わずに飛び込めと口を酸っぱくして言われた。
 目的はただひとつ。窮地の中にいるあんたを救出をするためだ。
 実行犯を救出するのは、その次のことで、おまけのおまけみたいなもんだ。
 でもよかったぜ。あんたが怪我一つなくて無事のまんまで。
 怪我でもされていたら、オヤジにどやされるだけじゃ済まねぇもの。
 指の1本や2本では、済まなくなる」


 「あら。やくざの世界では、いまでも不手際を起こすと指を詰めるのかしら?。
 前近代的ですねぇ、相変わらず不良って」



 「言葉のアヤだ、ばかやろう。
 おい相棒。道路が郊外へ抜けたら少し先を急いでくれ。
 実行犯の息が、なんだか浅くなってきたような気配がしてきた。
 ただし、警察に捕まらない程度に飛ばしてくれ。
 この有様じゃ、どうにもこうにもお巡りさんへの説明がややっこしくなる」


 「それは言えるわね。
 でもさぁ、あんたたちって見かけによらずに冷静だわねぇ。あれだけの事を
 テキパキとやり遂げるなんて、たいしたもんだと思うわよ。おかげさまで助かりました」

 「それがよぅ。今も・・・・相変わらず、けっこうピンチな状態なんだぜ。
 あのなぁ。言いにくいが姉ちゃんの綺麗な胸が・・・・
 いまだにお前さんは、まったく気がついていないようだが、チャイナドレスの
 ボタンが取れちまって、白いおっぱいが、隙間から、チラチラしっぱなしだ。
 おいら、鼻血がでそうだぜ。さっきからよぉ!」



 「あっっ!」指摘をされた瞬間、貞園が自分の胸元を覗き込みます。
いつのまに取れていたのか、チャイナドレスの胸のボタンが、上から3つもちぎれています。
白い胸元どころか、ふくよかで豊かな膨らみまでが露わのままにのぞいています。
「駄目。見ちゃァ!このドスケベ!」と、大慌てで貞園が毛布を胸元へかき寄せています。




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からっ風と、繭の郷の子守唄(123)

2013-10-25 12:19:18 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(123)
「絶体絶命。ブレーカーがもとへ戻り、照明が復活をする・・・・」




 「おっ、やっとたどり着いたぜ。厨房の一番奥だ。
 ママさんよ。配電盤はどこの位置だ。俺がいるのは右の壁の真下だ」


 「左へ移動していくと、業務用の冷蔵庫がある。その真上さ。
 あんたが今立っている位置から、2歩ほど横に歩いて左手を伸ばせば届くはずだ」


 「まったく・・・・流行りの電子機器ばかりを大量に使うから、
 簡単にブレーカーが落ちるようになるんだ。困ったもんだな。ママの新しい物好きにも。
 おっとぶつかった。こいつが業務用の冷蔵庫かな?」



 10人余りの招待客たちは、息を潜めたまま2人のやり取りに耳を澄ませています。
どこに誰がいるのかまったく見当がつかない闇の底という状態ですが、護衛の男の命令を素直に
聞いれ、誰も動こうとせず、体を固くして床に伏せている気配が続いています。
手探りのまま歩みを進めていく貞園の指先に、横たわる障害物が触れてきました。
床を這い続けているもう一方の指先には、金属質の固い感触も触れてきます
触れた瞬間の冷たさの感触から推し測ると、どうやら犯人が落とした拳銃のような気配がします。


 (ということは、・・・指先の感触は、実行犯ということになる。
 拳銃らしきものが床に落ちているということは、すでに撃たれて、怪我をしている状態だろう。
 でも、苦しそうな息使いも聞こえてこないし、そんな雰囲気もまるで無い。
 即死で絶命をしているんだろうか、それとも、ただ気を失っているだけなんだろうか。)



 おそるおそる伸びていく貞園の指先が、実行犯の全身の確認をはじめます。
途中で指先が拾った、どろりとした生暖かい感触は、実行犯から流れはじめたばかりの血液かもしれません。
(やっぱり、撃たれている!・・・・)体の奥底から突き上げてくる衝撃と、初めて覚えた恐怖が
それまで必死になって抑えてきた貞園の頭から、瞬時にして酸素を奪い去っていきます。
(やばい。いつもの持病が騒ぎ始めてきた!。落ち着いて。落ち着くのよ、貞園!)
必死になって自分自身へ言い聞かせている貞園の背後で、男の声が基地誇ったように響いてきます。


 「有ったぞ。見つけた。ようやくの配電盤だ。
 いま明るくするからな。もう少しだけ我慢して待ってろよ、お前さんたち」



 (万事休す。ついに時間切れだ・・・・悔しいけれど、ここまでで、ゲームセットだ!。)
 貞園が両目をつぶり、実行犯の身体に触れている指先の動きを止めます。
不規則に上下動を繰り返している実行犯の胸の上へ、崩れるようにして自分の頭を落とします。
(間に合わなかった。助けることはついに、叶わなかった・・・・全部、出遅れたあたしのせいだ・・・)
貞園が涙と一緒に唇を強く噛み締めたとき、入口のドアが激しい勢いで蹴破られます。



 まばゆいばかりの懐中電灯の光が、店内を素早くぐるりと照らし出したあと、
すばやく消されて、また元通りの真っ暗な闇が戻ってきます。
突然の外部からの光に、『なんだ!』『誰だ!』『どうしたんだ』店内が一瞬にしてざわつきます。
多くの招待客たちが一斉に体を起こし始めた気配と、閃光を放つ物体が、外部から投げ込まれたのは、
ほとんど同時といえる出来事でした。ゆるい弧を描いて投げ込まれた物体は、コロコロと床を転げながら
激しいばかりの白煙を大量に噴き出し続けます。
『発炎筒だ!。』誰かが大きな声で叫ぶのと同時に、ふたたび入口で閃光が走ります。
2個目と3個目の発炎筒が、それぞれ奥のボックスと厨房の奥を向かって投げ込まれてきます。



 また懐中電気が入口で、まばゆいばかりに点灯されます。
もうもうと室内を覆いはじめる煙の中で、光の輪が実行犯と貞園の姿をくっきりと捉えます。
再び明かりが消されます。追い討ちをかけるように、4つめと5つめの発炎筒がさらに室内へ投げ込まれます。
濃密な煙が充満をしてきたために、咳き込む声とむせぶ声で、店内が騒然とした
狂乱の坩堝(るつぼ)に変わってしまいます。


 蹴破られたドアから、2人の男が室内へ飛び込んできました。
フルフェイスのヘルメットを被って侵入をした男たちは、銃撃犯を抱き起こし、
貞園に手を添えると強引に抱きあげて、そのまま出口に向かって突進をします。



 「敵だ、新手だ。仲間がいやがったぞ!。
 臆するな、ただの発炎筒だ。逃がすんじゃねぇぞ。女と実行犯を奪われた!」



 護衛の男が立ち上がり、追撃の体勢にかかろうとしたその瞬間、
ドアの前へまた、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が姿を見せます。
その手に、筒状に何本もぶら下がった花火のような物体が見えます。
ヘルメットの下で男が不敵な笑いを見せています。『置き土産だ。たっぷりと楽しんでくれ』
そう言葉を吐き捨てた瞬間、手にしたライターで導火線に火を点けると、次から次へと爆竹を店内へ放り込みます。
たてつづけに激しい閃光が走り、激しい爆音とともに紙の破片が四方八方へと飛び散ります。
『あばよっ』と激しくドアが閉められ、室内がまた密室に変わります。
大きな爆発力を秘めた大量の爆竹は、真っ暗な闇の中を乱舞します。破片を滝のように人々の頭上へ
撒き散らしながら、空中を不規則に舞い続けていきます。


 空中を凄まじい勢いで不規則に乱舞する爆竹の動きに、さすがの男たちも勝てません。
悔しそうに唇をかんだまま、耳を塞いで嵐が過ぎ去るのを横目で待ち構えています。


 君来夜の前には、黒いベンツが停められています。
長身の青年によって救出をされた貞園は、ヒョイと抱え上げられたまま、
自分の足で歩いた記憶がまったくないうちに、荷物のように後部座席へ投げ込まれてしまいます。
負傷していたと思われる実行犯は、もうひとりの相棒によって、こちらも無事に救出され、
貞園が放り込まれた後部座席へ、反対側から強引に投げ込まれてきます。



 そのまま走り去るかと思いきや、長身の青年は爆竹を手にもう一度君来夜へ引き返します。
導火線へ火を点けると、次から次へとふたたび店内に向かって投げ込みはじめます。
激しい点滅を繰り返す閃光と、爆竹の音がけたたましく響き始めると、もうひとりの
相棒のが、思い切りドアを閉めてしまいます。
驚いたことに合鍵を取り出して、悠然としてドアにロックをかけてしまいます。
駆け戻ってきた長身の青年が運転席へ飛び込んできます。相棒が助手席のドアを開け身体を半分も
車内へ入れないうちにギャを放り込み、渾身の力でアクセルペダルを踏み込んでしまいます。



 もうひとり表に、見張り役のやくざがいたはずだがと、貞園が入口のあたりを目でさがしていくと
植え込みの中に、見張り役と思える男の足だけが見えています。
まさに問答無用で、一撃で吹き飛ばされたような状況をその足の形が物語っています。

 
 「どうだ。後方に追撃をしてくるような様子はあるか?。
 万一に備えて連中は、待機の車の中に、精鋭を残しておくような場合もある。
 念の為に、その先で角を適当に2つ3つ曲がっていくが、その時に同じ方向へついてくる車があれば
 間違いなくそいつは、俺たちを追いかけてくる敵の追撃車両だ。
 お前。しっかり後方のそれを確認してくれ。できるだろう、それくらい」


 長身の青年が、フルフェイスのヘルメットを脱ぎながら貞園へ指示を出しています。
猛烈なダッシュで店の前を飛び出したものの、法定速度へ達したベンツはそのままの速度を維持します。
裏通りから本通りへ出て、車の流れに乗りながら2度3度と右折と左折を交互に繰り返していきます。



 「誰も、着いてくるような車も、気配はありません。
 それにしても全速力で脇目もふらずに逃げるのかと思ったら、
 安全運転で右折と左折を繰り返すなんて、いったいどういう腹つもりなの。
 さっさと逃げなきゃ、捕まっちゃうじゃないの?」



 「これだから素人さんは困る。
 一般道を猛烈に飛ばしてみろ。あっというまに目についちまう。
 怪しさをモロに見せたら、逃走車両ここにありを、自ら自白をしているようなもんだ。
 追撃車両さえなかったら、ゆっくりと走ったほうがかえって安全だ。
 派手な逃走劇を繰り広げるのは、映画とテレビの世界の中のアウトローたちだけだ。
 それにしてもお前さんはよくやった。見直したぜ、怪我はなかったか?」




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