落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 最終章 (2)下級武士たちの末路

2013-02-28 07:40:49 | 現代小説
舞うが如く 最終章
(2)下級武士たちの末路




 幕末まで、下級武士たちの俸禄(ほうろく)は、
「三両一人扶持(さんりょういちにんぶち)」と決められていました。
これは、物価の高低とは関係なく、一律のものとして定められました。
年間で3両の金銭と、成人男性が1年間に食する米を1日5合と計算をして、
年間分として約5俵を、現物で支給されていました。


 この俸禄ですべての家族たちを養っていたために、
下級武士たちの日常の生活は、きわめて困窮をきわめていました。
さらに幕末期になると、諸物価が急激に高騰をしました。
幕末前には1両で200日分の米を買えましたが、幕末期の慶応年間になると
約17日分しか購入できなかったと言われています。


 それに比べると、商家などに奉公する者の賃金は年々高騰し続けました。
江戸の中期頃になると、年3~4両に加え、盆と正月には仕着(しきせ:季節ごとの着物)
を支給しないと、奉公に来ないという風潮さえ定着をしました。
そのために、下級武士の地位はさらに下落をしていきます。



 生活を少しでも改善しようと考えた下級武士たちは、内職などに精を出しました。
本来であるならば武士は名目上、副業などは禁止をされていた時代です。
しかし、暮らしていけるだけの俸禄を受けていない以上、下級武士たちは、
自力で生活を支えなければなりません。
それらを理解したうえで黙認、あるいは推奨していた藩は全国各地にありました。


 山形県・天童市では、
江戸末期にこの地方を治めていた天童織田藩の家老により、
手内職として、駒の製造が奨励をされました。
全国の将棋の駒の大半を生産する天童の将棋駒の基礎が作られました。


 また、米沢藩主の上杉鷹山(ようざん)は、
藩政改革のために、自ら蚕を飼い家来たちには機(はた)を織らせました。
領民には養蚕や製糸、織物をひろく推奨しています。


 そのほかにも、自宅での農作物の栽培などをはじめ、傘張り、ちょうちん張り、
植木や草花の栽培、ろうそくの製造などが、
個人または、組屋敷での集団的内職などとして行われていました。
組屋敷での同じ役目の者同士による組織的な内職は、材料の共同購入や共同納入などで、
業務の効率化を図ったものともいえました。


 幕末期に、生活苦にあえぎながらも
たくましく生きた彼らは、内職による「職業訓練」によって
技術を身につけることにすでに成功をしていました。
明治維新後の廃藩置県により、路頭に迷う武士たちも少なくありませんでしたが、
こうして手に職をつけていた下級武士たちは、武士を捨てた後も無理なく転身をして、
その技術を生かして身を立てることに成功をしました。


 「芸は身を助ける」の言葉どおり、
激動の時代を生き抜いた下級武士たちを助けたものは、
苦労時代を支えた、内職という芸だったのかもしれません・・・・

 咲と琴による、一軒家での生活が始まりました。


 まもなく咲が、法神流に入門をします。
まゆを煮るのが仕事の咲は、朝の4時には起床をします。
工場での仕事が一段落をすると、いったん自宅に戻り、朝食をとったあと、
身支度を整えて渡良瀬川の渓谷に沿って、走るようになります。

 「糸取りの一等工女たるあなたが、
 二等工女の仕事ともいえる、煮繭の仕事をしていたのでは、、
 世に言う、宝の持ち腐れではありませぬか?」

 琴の問いかけに、咲が真顔で答えます。

 「おそれながら、琴さまのほうが、はるかに持ち腐れにあるようです。
 咲の持ち腐れは、たったのひとつにありまするが、
 琴さまには、人さまが言うには、ふたつもあるようにございます。」

 「わたしには、・・・ふたつもあるのですか?。」

 琴が、目をまるめます。



 「はい、
 男衆が言うには、はや四十路(よそじ)であろうに、
 相も変わらぬ美しさを保ちながらに、
 いまだに一人身を通したままで嫁がぬというのは、いかがに有ろうと、
 皆さまそれぞれに、たいへんご不審にございまする。」

 「うむ、なるほど。で、もうひとつは?」

 「他ならぬ、剣術の腕前そのものにございまする。
 天下において右に出るものはおらぬというほど、とりわけ
 小太刀と薙刀においては、人も及ばぬ名手との評判にございます。
 兄の良之助様が、常々にお嘆きにございます。
 せっかくの腕前も磨いておかないことには、いつかは錆びて朽ちてしまうであろう。
 もう少々だけでも、稽古に励むようにと、
 お小言と、ことずけが、咲に託されておりまする。」



 「兄上が、そのようなことを・・・・」


 「一つお尋ねをいたしたいと思いまする。
 遠慮なく、お聞きしてもかまわぬでしょうか。」

 「改まって何ですか?
 遠慮はいりませぬ、何なりとお答えをいたしますので、聞くがよい。」

 「失礼を申しまするが、気を悪くなさらないでくださいまし。
 琴様が男衆のもとに嫁がぬというのは、いかなる理由によるものでございまするか。
 もしや・・・もともとが男衆をお嫌いか、
 さもなければ、男は受け入れぬ身体ではないかなどと、
 世間の男たちが無遠慮に詮議をいたしておりまする」

 「なるほど、先には私が、どのように見える」


 「失礼ながら、いまでも充分に女盛りと思われます。
 紅、白粉などを用いずともお美しいのは、咲も周りも認めておりまする。
 ゆえに、男衆になびかぬのは、咲には少々不思議です」




 「案ずることは無い、私も生身の女です。
 若き頃には、この胸を焦がして人並みに恋もいたしました。
 たったの一人だけですが、狂おしいほどにお慕いをいたした殿方もおりました。
 とうの昔の話です。
 また、心の底から慕ってくれた殿方もこれまた、お一人だけおりました。
 が、・・・まことに残念なことながら、
 もうお二人がともに、この世にはおられませぬ。
 今思うに、ともに、良き男衆に有りました。
 また、ともに、よき器量の持ち主でもあられました。」



 「まぁ、そのような出来事がおありとは!、
 琴様、それなるは、一体どのような殿方にあらせられますか!。」


 咲がひときわ、目を輝かせました。
其れを見た琴が、するりと話題をかわします。


 「はて、遠い昔ゆえ、すでにもう、すっかりと忘れておりました。
 はるかに遠い過去の出来ごとゆえ、記憶も定かにありませぬ・・・・
 それよりも、最近の咲さんのほうにこそ、色気にあふれている噂がございます。
 工女たちが口々に言うのには、なんでも馬方には良い男が沢山いるそうな。
 いかがにございまする?
 石炭運びの男衆にも、なかなかの男前ぶりの青年がおると評判です。
 咲も好みとするお人が居るとか居ないとか、近頃の風の噂で聞きました。
 真偽のほどは、いかようですか」


 「知りませぬ・・・」

 
 咲が、頬を真っ赤に染めて、
いやいやをしたままに、急にうつむいてしまいました。

最終章(3)へつづく




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舞うが如く 最終章 (1)水沼製糸場

2013-02-27 08:27:05 | 現代小説
舞うが如く 最終章
(1)水沼製糸場




 明治維新から15年がたちました。

 富岡製糸場に学んだ後、前橋に新設された製糸工場で
6年間にわたって工女たちを指導してきた琴が、地元の水沼の地へようやく帰ってきました。
水沼は琴を育てた深山・法神流の故郷です。


 琴が生まれ故郷に戻って来た理由は、
急成長を遂げている水沼製糸場からの要請によるものです。
直接、米国へ単身で乗り込み、生糸の取引の道を切り開いてきた水沼製糸場は、
さらなる飛躍のために、工場の拡大に取り組みはじめます。


 前橋の大渡製糸場で技術指導を受けた星野長太郎が、
明治7年(1874)2月に、勢多郡水沼で開業したのがはじまりでした。
渡良瀬渓谷を見下ろす高台の長屋門を入ると、目の前にはすぐ工場が建っていて、
その裏手には乾燥場と、揚げ場が作られています。



 工場が東西の二つの棟に分かれているために、
工女たちも、2つのグループに分けられていました。
グループには、16人の工女と小工女(見習い工女)の19人が配置されました。
さらに差配方(世話人)1人と、師婦(技術指導者)の1人をくわえて、
その合計が、37人という大所帯です。
この二つのグループを束ねて監督することが琴の仕事になりました。


 此処で働く工女たちは、1等から12等まで厳密に区分されています。
月給は、1等工女が4円50銭で、12等になると37銭5厘でした。
さらに一ヶ月の皆勤手当として、20銭から25銭が支給されます。
3年間の年季明けで帰郷するときの旅費は、全額を製糸所で負担をしました。
工女の食事や夜具、蚊帳などは支給されますが、身につける衣類や小間物は、
すべて個人持ちとなっています。


 就業時には、全員が着物に帯を締めています。
その支度の上には、白いかっぽう着を羽織りました。
指導と監視役の教婦(きょうふ)が、はかま姿で工場内を見て回ります。


 工場内は、常にたいへんに静かです。
黙々と作業をこなして、隣と無駄話をしている風景などは見たことがありません。
午前10時と午後3時には、チリン、チリンと鐘が鳴り、作業を止めて麦茶を飲んで休みます。



 釜場で使う石炭は、桐生から半日をかけて毎日輸送されます。
渡良瀬川沿いに荷車で運ばれてきますが、工場の直下で馬に積み替えられました。
馬の背に袋を振り分け、その中に石炭を入れて運びあげます。
狭く急な坂道が続いているために、何回も往復をしなければなりません。



 「馬方さんは若い男性で、
 手ぬぐいをキリッと巻いて、頭の横にチョンと端を立てています。
 それが、たいへんに粋にありまする。」


 と、若い女工さん達は色めきます。
馬方たちは、シャツに半纏(はんてん)で、下はもも引きに素足です。
まとった半纏には「勢多水沼組」の文字が鮮やかに染め抜かれていました。

 この水沼製糸場が急成長した背景には、
身内を米国に派遣して、生糸の直接の取引を切り開いたことに有ります。
好調な取引に支えられて、さらに規模を拡大し、工女たちの数も増えてきました。
ついに、200人を越えようとしています。


 琴が水沼製糸場に着任してからまもなく、
新しく雇い入れた工女のなかに、なんと、咲の姿もありました。
沼田城下出身の咲は、身分は士族の娘です。
士族の中でも、上士(いわゆる侍)と、下級武士という身分の違いは歴然とあり
咲は下級武士(足軽に近い)の次女という立場です。


 明治維新以降の、廃藩置県によって武士たちが一斉に失業をしました。
下級武士たちは生計のために、それぞれ個別に仕事を探しはじめます。
多くが農民などに転身する中で、内職などで身に付けてきた技術を生かして
製造業を営む者などもでてきます。



 また新天地を求めて故郷を捨て、北海道への開拓民や
各地の開墾事業へ、一家を上げて移転するという例なども数多くみられました。
いずれにしても、封建時代から延々と続いてきた士農工商という身分制度の崩壊は、
従来の支配層から武士集団と言う、大量の失業者を大量に生み出しました。
明治政府が力を入れた興国産業政策とは、武士たちの再就職を促すための国策でした。
開拓や開墾政策などによって、救済策を作りだしたものです。
 
 かろうじて沼田の城下に踏みとどまっていた咲の一家も、
新たな糧を求めて、北海道への移住を決意をします。
開拓の進む北海道で、新たに屯田兵制度が導入されたのをきっかけに
一家を上げての移住を決意しました。


 しかし、咲だけは自らの決心で地元にひとりだけ残ります。
生糸工女のひとりとして、琴を頼りに単身、水沼へと琴を頼ってやってきました。





※屯田(とんでん)とは、一般に、
兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、
戦時には軍隊に従事させる制度のことです。
また、その場所や地域などを指して、そのようにも呼んでいます。
 

 


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舞うが如く 第七章 (13)朔太郎と広瀬川

2013-02-26 08:22:39 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(13)朔太郎と広瀬川




 群馬県・前橋市の中心部を流れる
「広瀬川」が建設されたのは応永年間(室町時代)から天文の昔といわれています。

 当時の利根川は、
赤城山のすそ野と前橋台地の間、約10数kmを乱流していましたが、
応永年間と天文8年、12年にそれぞれ大氾濫を起こしました。
特に天文12年の大氾濫では、完全に従来からの流路を変えてしまいました。


 出現した広漠たる氾濫原野を、
領主の管理下で、大規模に開拓することになりました。
ここを耕作地に変えるためにかんがい用水として、
旧河道を利用して造られたのが、現在市内を流れている広瀬川です。


 古くは農業用水のほか、
前橋城や城下の生活水や防火用としても使われました。
さらに正保2年には、利根川と結んで舟運も開始されるようにもなりました。
前橋市街地にはいくつもの河岸が開設されて、地域経済や文化の要衝になりました。


 また、時代の変遷とともに、
水車や製糸、発電等の工業用水・水道・養魚等などにも幅広く利用され、
この地域に住む人たちにとっては、豊かさと安らぎを与えてきました。
絶え間のない豊富な水の流れに沿って、心地よい風が、
河畔に並んだ柳を今日も揺らしていきます。

「広瀬川白く流れたり 時さればみな幻想は消えゆかん・・」。


 我が国における口語体自由詩を確立した、
詩人・萩原朔太郎は、前橋市内を流れる広瀬川の様子を
こんな風に詠んでいます。


 「白く流れる」は、製糸工場から流れ出した繭を煮た後に出た、
白く濁ったお湯のことをさしています。
蒸気用のたくさんの水車と共に、帯のように白く流れる繭の濁り湯は、
当時の県都・前橋が繁栄してきたことの証拠です。

 水利に恵まれたこの広瀬川沿いにあたらしい製糸工場の建設が始まりました。
琴たちが富岡に派遣されてから、それはおよそ半年後のことです。
蒸気機関とボイラーの研修のために、前橋からは2名の工男が派遣されてきました。
いずれも、もとは刀鍛冶と鉄砲の職人です。


 初めてみる異国の技術に感心をしながらも、
フランス人の技術技師を捕まえては、身ぶり手振りで質問を繰り返します。
埒の明かない問答ぶりに、見かねた琴が通訳に入りました。
貫前神社の一件以来、親しくなったフランスの女性教師たちから手ほどきを受け、
片言ぐらいのフランス話を、こなせるようになっていたためです。
さすがに、専門用語は解りませんが、意図することくらいは通じたようです。


 生糸工場で使う、糸繰り用の洋式器械などは外国から輸入をされましたが、
蒸気機関やボイラーなどの稼働設備や、パイプや配管などは、
多くが自前で加工するのがこの頃の常でした。
琴に感謝しつつ、あと半年ほどで前橋に民間第一号の製糸工場を立ち上げる予定だと
この二人が、意気込み高い言葉を琴に残してやがて帰路についていきます。



 このころの富岡製糸場では、
すでに400名を越える全国からの工女たちが働いていました。
富岡製糸場は、明治5年(1872年)10月4日に開業して、わが国の期待を
一身に背負って、近代産業化の第一歩を踏み出しました。
まだ産業革命の端緒にさえ着いていなかった当時の日本の現状の中で、
建設されたこの富岡製糸場は、欧州における近代的工場たちを、
いくつかの点おいて、すでに凌駕していました。

 まずは,その工場の規模においてです。
操糸工場は長さが140.4m,幅12.3m,高さ12.1m のレンガ造り平屋建てで、
文字通り、世界最大の規模を誇ります。

 鉄製の製糸器械等においても同じ事が言えました。
すでに産業革命が終了している欧州の器械製糸工場でも、50~150台が通常のところ、
富岡ではその倍近い、300台を所有していました。
当時において富岡製糸場は、すでに世界最大の規模を持ち、世界に誇る
生産能力を持っていたといえるでしょう。


 生産規模ばかりでなく、工場の環境衛生面でもブリューナ氏によって、
その時代としては十分すぎるほどの配慮がなされています。

 創業時,石炭の煤煙を空中に放散する役目を担っていた、
鉄製煙突は、36m 以上もの高さを誇りました
操糸工場の排水や、繭倉庫などの雨水排水用として、当初から地下に
レンガ積み排水溝なども造られていました。

 こうした配慮は,それまでの日本には見られないものです。
環境衛生思想という欧米の文化が根底にあったからこそ、
生み出されたものもたくさんありました。
富岡製糸場は、同じ時代の「女工哀史」などで語られたような
労働環境とは大きく隔たっています。

 福利厚生面での配慮なども、十分になされていました。
開業の翌年の2月頃には、フランス人医師が常駐するようになっています。
また、6畳間の病室を8室も備えた、本格的な病院が敷地内に建設をされていました。


 治療費や薬代は、工場側で負担され食費や寄宿舎も、全額が無料でした。
休日には、芝居小屋見物や貴前神社への参詣なども許されており,
季節ごとの花見や、盆踊りなども盛んに行なわれていました。

 富岡製糸場はその近代的な設備のみならず、
七曜制の導入や、労働時間や服務規律、月給制、寄宿制、診療所など、
労働環境に関わるあらゆる面において、わが国に最初に労務管理法を導入した
近代的な模範工場といえるでしょう。 


 文明開化の夜明けとは、遅れていた日本の製糸技術が、
熱心な西洋人たちの指導によって大幅な器械化が進められた時代のことをさしています。
こののちに、日本の生糸産業が西洋人たちの功績によって
輝かしい夜明けを迎えることになるのです。



 こうして貿易の主役として脚光を浴びた生糸は、
こののちに、至る所での製糸工場の建設へとつながりました。
同時にそれは、日本の歴史上はじめて、女性たちの職業的な働き場を、
大規模に生み出すという成果も生み出します。

 女性たちの社会的進出の最初のきっかけをつくったのが、
富岡製糸場の存在ならば、生糸は、今日の日本の経済的な原点を
作りあげたといっても過言ではありません。


第七章・完

・最終章へつづく




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舞うが如く 第七章 (12)糸取り競争

2013-02-25 05:59:24 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(12)糸取り競争




 糸とりの仕事にも慣れてくると
自然と気持も緩み、少し余裕も生まれてきました。
並んで仕事をする民子と咲の二人も、みんなの目を盗んではこっそりと、
おしゃべりをする機会などを増やしています。


 もちろん、中廻りや指導員がそばに居ないときに限ってのことです。
また、作業の途中で手洗いに発つ時などでも、常に二人は一緒に行動をしました。
話を続けながら持ち場へ戻りますのでいつしか仕事のほうも、
遅れがちになってしまいます。



 「この二人は、まったくもって仲がよすぎる・・」
見回りの指導員たちからは、時々そんなつぶやきが漏れてきます。
それでも仕事に慣れてきたためか、そんな風におしゃべりをしながら手を抜いていても
1日に糸とりをする繭の枡数は、4升から5升ほどと、毎日同じように
成果をこなしつづけていました。

 ところが思いがけなく、この風向きが変わりはじめます。


 おなじブロックで並んで仕事している、武州から来た、
小田切おせんさんと言う女工さんは、すこぶる元気に仕事をしていています。
ときには、繭を6升までも取ったりしていました。


 ある日それがついに、8升を取ったという評判が聞こえてきました。
それから、まもなくのことです。
民子と咲を担当する指導員でもある深井さんが、

 「君達も手が早いので、
 もっと頑張れば8升くらいは、楽に取れると思うのですが。」

 とさりげなく、けしかけてきます。

 「8升なんて、とても私たちには無理です」


 と、咲が、ケロリと答えます。
とりあえず、そうは答えたものの、根は負けず嫌いの二人です。
このまま収まるはずがありません。

 「おせんさんも私達と、同じブロックだし、
 釜も、繭も、同じ条件な訳です。
 おせんさんに出来て、わたしたちに、出来ないわけは、ありませぬ。」

 などと真剣に、額を寄せて密かに相談をいたします。
その翌日からのことです。


 二人とも、おしゃべりはおろか、手洗いまでも我慢をします。
どうしても行きたい時には、駆け出して往復をするようになりました。
糸が切れないようにするために、お互いに細心の注意と工夫を怠りません。
汚れてきた釜のお湯を交換するときには、事前に用意をするなどして、
糸とりを止めないようにひたすら作業を改善します。



 その甲斐もあって、二人はついに、8升の糸とりを達成することができました。
成し遂げたことに二人は手を取り合って大いに喜び合います。
指導員の深井さんも有頂天で、
「君たちは実に、大したものだ。頑張ってこれからも続けてください。」と、
たいそう嬉しそうに、事務所からはるばると駆け付けてきました。



 しかし、この話を聞いた前橋の同僚たちが、皆一様に、
一斉にヤキモチなどを焼きはじめます。



 「1日に8升もとれるなどとは、断じておかしい。
 もともと繭4、5粒の糸をより合わせて、一本にするのが正規なのに、
 いちどに7、8粒の糸をより合わせて一本にして
 繭の使用量を増やしてるいるのではありませぬか?
 私たちには、到底無理なはなしです。」


 これはまったく根拠のない、やっかみだけの勘ぐりの意見です。
これをきっかけとして、この時から、糸取り場の空気が変わり始めました。
しばらくすると、前橋の同僚の一人が、8升をとったという噂が聞こえてきます。
お初という娘で、一番先に8升を疑問視していたその娘です。

 さっそく民子が、そのお初をつかまえました。


 「お初さん、ついに8升とったそうですね。
 やはり、わたし達と同じように、7、8粒の糸をより合わせて、
 一本にしましたか?」

 
 「ハハハ、ごめんなさい。
 一生懸命にやれば、できるということだけが、はっきりといたしました。
 並なことでは、とうていにできないことも、
 大変に良く解りました!。」

 と笑って、手をとりあって仲直りをします。

 前橋の仲間たちも負けず嫌いでは、それぞれにひけをとりません。
生産性の向上を頑張りはじめたために、やがて次々と8升が普通になってきました。
こうして、「7升では、ちょっと少ないかな」と言われるほど、
前橋出身者のレベルも上がってきます。


 そんなある日のことです。


 書類を片手に、糸取り工場を横切っていく琴が
顔を真っ赤にしながら、それでも懸命に作業を続けている咲の姿を発見をしました。
時折り我慢しきれずに身をよじる有様に、見かねた琴が咲の隣へ立ち止まります。


 「咲さま、
 余りに我慢をいたしますると、身体に良くありませぬ。
 器械ならば、蒸気にて動きもいたしまするが、
 生味の身体は、喜怒哀楽によって身を案じてこそ動くというものです。
 8升ばかり取るのが、優秀な工女とは言えませぬ。
 体調をしっかりと整えておくのも
 また、工女としての大切なお務めのひとつです。
 無理に我慢せずとも、早く厠へ行きなさい、
 ただし淑女は、走らぬように。」


 と、目を細めながら、まだ身をよじり続けている咲に助言をします。
言われた咲が、嬉しそうに一つうなずくと、
静かに歩み始めましたが、その半分も行かないうちに、
脱兎のごとくに駆けだしまいます。


 「さすが琴さま。
 見事な一本に、ございまする。」


 「ありがとう。
 まだまだ、腕は落ちていない様にありまする。
 民子さまも、器械人間などにはならぬよう、時には、充分に
 気持ちを緩めてくださいまし。
 精を出すこと自体は大切なれど、
 長く続けてこその、お仕事ですゆえ。」


 「万事、心得ておりまする。
 脚気のおりには、皆さまにあれほどまでの
 ご迷惑をおかけしたゆえ、
 この身に、心底しみておりまする。
 健康もまた模範工女の務めです、
 充分に、心しておりまする。」



 「さすがに、一等工女です。
 やはり、見上げた心がけにありまする。」

 「一等工女でありますか・・
 え・・・この、わたくしがですか?」


 「まだ、内密の話ゆえ、
 ここだけの秘密のこととして、他言などはなさいますな。
 さきほど書類をいただきましたる時に、
 咲どのも、ともどもに一等工女と相なりました。
 よかったですね、民子さま。
 努力も、苦労もそれぞれに、
 きっと、必ずに報われるものにありまする。」


 にっこりと笑って、琴がゆっくりと立ち去っていきます。




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舞うが如く 第七章 (11)工女たちの休日

2013-02-24 07:43:27 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(11)工女たちの休日




 富岡製糸場は、”官営による模範工場”の代表です。
仕事面ばかりではなく、休日の社内行事なども模範的に運営をされています。



 街の芝居小屋を貸し切って、工女たちの一同が見物に出かけます。
場内には、工男たちも沢山いますが、こうした社内行事には一切参加することはできません。
毎年の3月末には、一ノ宮にある貫前神社(ぬきさしじんじゃ)の境内で、
盛大にお花見の宴が催されます。


 数百人の若い娘たちが、満開の桜の下に、一斉に集います。
ふだんから日なたにも出ず、毎日湯気に蒸されていますので、髪は黒々と艶も豊かで、
顔の色も実に美しいものがあります。
入湯を一日も欠かさないうえ、入念にお化粧を施したうえに、身だしなみも
充分に整えていますのでいたるところに別嬪さんたちが溢れました。


 酒盛りなどをするわけではありませんが、
本格的な日本舞踊を披露する娘や、三味線などの鳴り物を弾く娘達たちも
たくさんいて、たいへんに賑やかです。
数日前に北海道から着いたばかりの、新人工女たちも参加をしました。
引率してきた役人が着ていたラッコの外套が、娘たちの、好奇の視線を集めます。


「アイヌだアイヌだ」と言う
ヒソヒソ声も聞こえてきましたが、こちらは早合点でした。
実際には、開拓に入った和人の娘たちがここへの実習に
派遣されてきただけのことでした。


 この賑やかな花見の後で、4月に入ってからのことです。
琴が、全快した民子と咲たちを連れて、再び貫前神社へ病全快の報告もかねて、
その参詣へと出かけます。


 琴たちの一行が参詣を済ませて境内を出たところで、異人たちと出会います。
フランス人女性教師たちのグループとの鉢合わせでした。
こちらも、息抜きをかねて市内を散歩をしていたのですが、そのうちの一人が、
古い歴史と格式といきさつを持つ、この貫前神社に興味を示しました。
しかし、警護のために同行してきた、製糸場の役人たちとの間で、
なにやら押し問答がはじまってしまいます。


 神社境内から出てくる琴たちを見て、
フランス人女性教師達も入ろうとしたのですが、
役人たちは、「外国人は、神聖な領域である、当神社に立ち入れません」と
毅然として制止をしてしまいます。


 肉食のフランス人達を「けがれている」として扱っています。
体調をくずしている一人の年配の婦人が、
「身体が弱いので、ぜひともお参りしたい」と懇願をしていました。、
片言の日本語でいくら訴えても、役人たちはまったく聞く耳すらをもちません。
やむなく、あきらめた一行が製糸場へ戻ることになります。


 人力車へ乗りこもうとして、
このご婦人が、不自由な片足を持ち上げようとして努力をしています。
見かねた琴が、ためらいもみせずに一歩前に進み出ます。
かたわらから婦人の身体を支えると、急ぐこともなく座席へと介護をしました。
人力車へ無事に乗り込み終えたご婦人が、琴へ感謝を述べています。
しかし残念ながらフランス語であるために、琴には一切通じません。


 琴たちの一行が製糸場へ戻ったところへ
先ほどのご婦人たちの使いの者が、工女部屋へと訪ねてきました。
女性教師達が琴たちを、異人館にある自室へ招待をしたいと申しこんできたのです。
同行していた役人たちの了解をとりつけてから、琴や娘たちが生まれて初めて
異人館へ、その足を踏み入れました。



 この日の散歩には参加せず、部屋に残って裁縫などをしていた、
他の女性教師たちも、この日本女性の訪問をことのほか歓迎をしてくれました。
ビスケットが出され、グラスには赤ワインが注がれます。

 この赤ワインこそが、創業当時に
「偉人には、真っ赤な生き血を呑まれる」といわしめた悪評の元凶です。
大量に持ち込まれてきた赤ワインを呑む彼らフランス人の姿のことを、当時は
生き血を飲む西洋人として、紹介をしていたのです。


 日本娘は、生れてはじめて呑む赤ワインと、
西洋菓子のビスケットのおいしさに、きわめて有頂天になりました。
まさに、日仏合同の製糸場ならではの異文化交流です。



 しかしこの後、一ヶ月もたたないうちに
代表のブリューナ夫妻はじめとして、フランス人技術者や女性教師達は、
その役目を終えて、全員が帰国をしてしまいます。
事実上、これが最初でまた最後としての交流会になってしまいました。

第7章 (12)へ、つづく



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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (22)会津若松の玄如節
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