落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (49) 一重の太鼓帯

2015-05-30 11:55:55 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(49) 一重の太鼓帯




 翌日。大晦日の31日がやって来た。
すずが約束通りの時間に置屋「市松」へ、正装の着物姿で現れた。
和裁士らしい、非の打ちどころのない着こなしだ。
すずがくるりと背中を見せた瞬間。
優雅に結ばれている袋帯のお太鼓に、思わず、女将の恵子の目がとまる。


 お太鼓というのは、女帯の結び方のひとつだ。
帯を結び上げたとき。背中に出来る飾りの部分には、それぞれの形にちなんだ
別々の呼び方が有る。
お太鼓の場合。丸帯や袋帯は二重太鼓。名古屋帯では一重の太鼓に結ぶ。
江戸の末期。亀戸天神に太鼓橋ができた時、丸いふくらみにヒントを得た芸者衆が、
お太鼓の形に帯を結んだところから、この名前がついた。


 背中に一重で作ったものを、一重太鼓。
二枚に重ねて作ったものを、二重太鼓と呼ぶ。
真後ろから見たのでは分からない。
だが横から見ると、帯の生地が二重に重なっているため、素人目にも、
一目で違いがすぐ分かる。



 「あら・・・珍しいどすなぁ。
 正装時のお太鼓と言えば、二重に巻くものとばかり思い込んでおりました。
 それをあえて、一重に巻くとはお洒落どすなぁ。
 さすがは和装の先生どす」


 恵子の疑問は当然だ。
お太鼓と言えば、二重に重ねて背中の膨らみをつくる。
恵子も舞妓からの襟替えの時。迷わず帯のお太鼓を二重にした。


 舞妓としてデビューし、4~5年も経つと、おおくが大人の芸妓として一本立ちをする。
その後。芸妓としてさらに専門技能を磨くため、立方(たちかた=舞)か、
地方(じかた=三味線)の選択をする。
この頃から、着物は舞妓よりも地味な色柄を選ぶようになる。
袂は短くなり、帯はお太鼓で結んでいくなど、装束そのものが大きく変化していく。



 女性が帯を結ぶようになったのは、織田信長が活躍した戦国時代からだ。
半幅で帯を結ぶようになったのが、帯の文化の始まりだ。
並幅(約36センチ)を半分に折り、鯨尺で4寸仕立てることから半幅と呼ばれた。
別名を、細帯、四寸帯などと呼ばれている。
ちなみに男性の帯は、聖徳太子の時代以前からすでに使われていた。


 「エッ・・・男性のほうが、帯の歴史は古いんどすか?」



 「ハイ。男性の帯は、剣や刀を差すための道具として使われておりました。
 女性は着物を留めるだけですから、紐のような文化どす。
 男性の帯は、命を守るための大切な道具。
 女性の帯は、着飾るための、ただの遊びの道具。
 しきたりや決まりごとに捉われないで、自由に楽しむのが、女性の帯です」


 「目からウロコどすなぁ!。
 正装の場では必ず、袋帯の二重太鼓を締める様にと言われてきましたが、
 それは間違いなのどすか!」



 ワインを抱えてやって来た池田屋の女将・多恵が、すずの背中で目を丸くする。
そういえば、くるりと回って見せた多恵の背中にも、見事に二重のお太鼓が
しっかりと結ばれている。


 「ええ。正装の場なら、丸帯の一重太鼓が正式です。
 正確に言えば、標準体形から太めのかたは、一重のお太鼓で結びます。
 かなり細めの方は、二重の太鼓に結びます。
 けど。女性にとって帯というものは、お洒落を楽しむための、ただの遊び道具。
 ご自分の体型に合わせてもっと自由に帯を楽しんだら、良いでしょう」



 『みなさま。着物がお似合いになる体型ですから』と、すずが目を細めて笑う。


 「けどなぁ。心配になるのはこれからどすなぁ。
 ウチ、根っからの食いしん坊やろ。
 中年太りで、これからこのあたりが、ぶくぶく肥っていくのが心配なんどす」



 ワインを抱えた多恵が帯の下のほうを、ポンポンとたたく。
そんな多恵の様子に、恵子が片目をつぶって、軽い牽制球を投げる。



 「アンタは悪食のし過ぎや。
 男の悪食もたいがいにせんと、いまにきっと酷い目にあうでぇ。
 そういえば美空ひばりが、復活の時に歌った唄。
 みだれ髪の歌詞の中にも、♪春は二重に 巻いた帯 三重に巻いても 余る秋~♪
 というのが有りましたなぁ。
 でもなぁ。減るならいいんどすが、ウチ等は、体重が増えるばかりどすからなぁ。
 ウェスト周りのこのあたりには、黄色い信号が点っております・・・
 そのうちに、きっと、一重の帯でも苦しくなりそうや・・・」


(50)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (48) もうひとつの、遷都の理由

2015-05-29 11:32:21 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(48) もうひとつの、遷都の理由




 「驚異的な、稼ぎぶりだね。
 製造業の世界なら、従業員ひとり当たり、5000万円前後を稼ぎ出す。
 だがそれは高度にシステム化された、高額投資の生産設備に支えられたものだ。
 平成26年度の飲食サービス業に限った統計によれば、売り上げのトップは、
 バーやキャバレー、ナイトクラブなどの飲食接客業だ。
 一人当たりの年間売り上げの平均は、およそ1150万円。
 祇園の芸妓と舞妓さんたちが稼ぎ出す、2880万円には遠くおよばない。
 祇園の女性たちは、飲食業界の平均の3倍近くを稼ぎ出す。
 たいしたもんだ・・・祇園の底力は」


 『驚いたね、』と勇作がため息を吐く。
『せっかくの京都の歴史の話が、花代の話題で遠回りをしてしまいました。
そろそろ元へ戻しても、よろしゅおすか?』と恵子が笑う。


 「生物の中で、人間だけが、燃料がなければ生きていけへん。
 文明の誕生と発展にとって、燃料は、絶対的なインフラになるおす。
 19世紀に石炭と出会うまで、日本文明のエネルギーは木に頼っていどおす。
 エネルギーだけではありまへん。
 日本の寺社、住居、橋、舟などの構造物はすべて木造どすから」



 「そうだ。日本と言えば木を使った建築の国だ。
 伝統的な和風の建築は、そこへ座っただけでも、何故か心が落ち着く。
 なるほど、日本の歴史を、木材の面から思考していくわけか。
 面白そうな発想だ。その先が楽しみだ」


 「モンスーン地帯にある日本は、森林が豊かどす。
 国土の7割が山地どすから、木材は潤沢に手に入るおす。
 エネルギーの源で、資源を生み出す森林は、日本の文明が存続していくための大前提どす。
 岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)によれば、奈良に有った平城京の内外には、
 10万から15万の人々が生活していたそうどす。
 作家の石川英輔氏によれば燃料、建築などで使用する木材は、
 江戸時代一人当たり、1年間で20~30本の立木に相当する量であったと言います。
 奈良時代かて、一人当たり最低10本の立木が必要であったと推定すると、
 奈良盆地では年間に、100万から150万本の立木が必要になりますなぁ」



 「年間に100万本から150万本というのは、べらぼうな数字だ。
 水源の大和川は、当時は、どのあたりを流れていたんだ?」


 「大和川の水源は、奈良県笠置山の山地どす。
 大和盆地の水を集めながら生駒山地を横切って、大阪府柏原市で石川と合流するんどす。
 昔の流路は、西ではなく西北に流れ、久宝寺川と玉串川に分流していどおす。
 玉串川はさらに菱江川、吉田川に分かれ、吉田川は北流して深野・新開の二大池に通じ、
 西に転じて久宝寺川とめぐり合い、大阪城の東で平野川の水を合わせ、
 淀川に流れ込んでいどおす。
 こんな風にして大阪の南部を潤していたのが、大和川どす。
 横槍を入れんでおくれやす。肝心な話がピンボケになってまうどす」



 恵子が可愛い頬を、ぷっくりと膨らませる。


 「なんぼ日本の木々の生育がええといっても限度がおおす。
 毎年毎年、100万本以上の立木を伐採していたのでは、たまりまへん。
 伐採される量は、小さな大和川流域の森林再生能力を、はるかに超えていたんどすなぁ。
 森林伐採が再生能力を超えれば、山が荒廃します。
 荒廃した山に囲まれた盆地は、極めて厄介で危険な存在に変るおす。
 荒廃した山は、保水能力を失います。
 沢木や湧水が枯渇し、清潔な飲み水が消失していきおす。
 雨のたびに山の土砂が流出し、盆地中央の湿地湖は土砂で埋まり、
 奈良盆地の水はけは、悪化していきおす。
 水はけが悪くなれば、生活汚水は盆地内でよどみ、不衛生な環境になるおす。
 さまざまな疫病が蔓延していくことになるのおす。
 水はけが悪ければ雨のたびに水が溢れ、住居や田畑が浸水してまうどす。
 桓武天皇がこの奈良盆地を脱出し、大和川より何倍も大きく、「水」と「森」が豊かな
 淀川流域の京都に遷都したのは、当然のことどす。
 いかがどすか。これで奈良から京都へ都が移ってきたもうひとつの理由を
 お分かりいただけましたか?」

 


(49)へつづく

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (47) 花代奨励賞

2015-05-28 11:09:33 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(47) 花代奨励賞



 
 「それがどうして、3本の指に入る舞妓にまで成長したんだい、君は」


 勇作が、恵子の顏を覗き込む。
池田屋の女将・多恵と、白川通りに有るスナック「らんまん」のママ・幾代と、
置屋「市松」の女将・恵子が、1980年代を代表する祇園の売れっ子だったという話を、
ついさきほど、舞妓の市侑から聞いたばかりだ。


 「デビューしたばかりの舞妓は、舞の上手な子と器量のええ子から売れるんどす。
 舞の一番は、らんまんのママ・幾代。
 器量の良さと色気では、当時から池田屋の多恵が頭ひとつ抜け出していどおす。
 お座敷を盛り上げるためには、豊富な話題と話芸も必要どす。
 京都はもともと、古くから歴史に恵まれた町。
 夜な夜な読んできたぎょーさんの歴史書が、ウチを助けてくれたんどす。
 世の中。なにが幸いするのか、わからへんもんどす」



 「80年代の飲み屋街を支えたホステス嬢たちは、会話を盛り上げるために
 朝からすべての新聞に目を通し、テレビでニュースをチェックしていたという。
 会話を盛り上げていくための、情報集めだ。
 夜な夜な歴史書を読むという趣味が、君の舞妓時代を助けてくれたわけか。
 なるほど、わかんないものだ。何が人生で役に立つのか」



 「趣味ではおへん。本気で当時は、歴史の先生になりたかったんどす。
 花街には、花代奨励賞と言う特別な賞が有るんどす。
 舞妓になった最初の年。「らんまん」のママ・幾代が一等賞を取ったんどす。
 その次の年、今度は池田屋の女将・多恵が一等賞を取りました。
 そうなると、悔しいじゃないどすか。
 ウチも必死で頑張り抜いて、3年目に念願の一等賞を取りおした」


 「花代奨励賞・・・?。なんだ、それ?」



 「毎年、正月明け。芸妓と舞妓が所属している女紅場(学校)で始業式がおおす。
 新年を祝う舞や邦楽が披露されたあと、前年度の売上成績の上位者が表彰されるんどす。
 前年度の花代合計金額に基づいて、上位からのランキングが公表されおす。
 新人の舞妓から、90歳のベテランの芸妓さんまで、所属しているすべての芸妓と舞妓が、
 おんなし俎板(まないた)の上で競争するのおす。
 究極の「成果主義」とも言えおすなぁ。
 花代の時間単価は京都花街の場合、新人もベテランも同額おす。
 上位をゲットするためのポイントの差は、稼働時間どす。
 『どれだけお座敷へ呼ばれたか』で、売上額が決まりおす。
 1年間を通じて一番働いた子が、その年の花代奨励賞の一等賞を取るんどす」


 「3年目に花代奨励賞の一等賞を取ったということは、3年間で君は、
 舞も色気も一番になったというわけだね。
 なるほど。そういわれてみれば今の美しさにも、充分に納得がいく」



 「お上手どすなぁ。けど、褒めても何も出ませんえ。うっふっふ」


 「下世話な興味で申し訳ないが、芸妓や舞妓たちは年間どのくらい稼ぐんだ?。
 一度聞いてみたかった。
 秘密を暴露しない範囲で、こっそり教えてくれないか?」



 「そうどすなぁ。
 ここ10年ほど、芸妓さんは200人前後。舞妓は約80人でほぼ横ばいどす。
 お座敷で芸妓か舞妓さんと2時間遊んだとすると花代は、25000円~30000円程度 。
 夕方6時から夜の12時ごろまで、平均して、3~4つのお座敷を務めおす。
 1人当たり、1日10万円の売上になる計算どす。
 お昼の写真撮影会などで長時間拘束される日もあるので、それらも入れると、
 1日当たりの売上は、12万円程度になりますなぁ。
 花代は置屋を出かけたときから、帰宅するまでの移動時間にもかかるおす。
 つまり。移動時間+お座敷での時間×時間単価が、花代ということになるのおす」



 「休みが少ないから、年間で、300日程度はお座敷に出る。
 稼働率を少な目の80%として、芸舞妓さん1人当たりの年間総花代は、
 12万円×300日×0.8=2880万円、を売り上げることになる。
 京都花街の芸舞妓さんの合計は280名なので、花代の総売り上げは、
 80億円弱と推計することができる・・・
 ずいぶんと稼ぎ出すんだな、祇園の町は。
 じゃ聞くが、君が一等賞を取った時は、いったいどのくらい稼いだんだ?」



 「その手には乗りませんぇ。うふふ。数字は一切、企業秘密どす。
 けど、平均売り上げの2倍から3倍は売りましたなぁ、忙しかったあのころは。
 今は有りませんが、昔はひと晩お客さんとお座敷で一緒に過ごす、添い寝と言う
 粋な風習があったんどす。
 一晩中、一緒おすから、花代もべらぼうな金額に跳ね上がります。
 うふふ・・・」



(48)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (46) 売れない舞妓

2015-05-24 10:59:18 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(46) 売れない舞妓




 『長い話になります』それでもお聞きになりますかと、女将の恵子が笑う。
『南朝へ3人を乗せて出発すると運転で忙しくなる。だが、すずが到着するまでは、
何もする事が無い。俺は暇を持てましている。
いくらでも長い話に付き合う。話してくれないか、京都が都になったもうひとつの
理由が知りたい』真顔に戻った勇作が、フフフと笑う恵子に媚を売る。



 「海の利と言う言葉が有りますなぁ。
 今から7000年前の縄文時代の前半ごろ、大阪平野の一部である河内平野は、
 そのほとんどが海に沈んでいました。
 上町台地が半島のように突き出た、河内湾どした。
 北から淀川が、南からは大和川が大量の土砂を運んできたため、だんだんと土砂がつもり、
 長い年月をかけて、河内湾が埋め立てられていきました。
 1800~1600年前の弥生時代の後半から古墳時代の前半に、
 湾は大きな湖のようになり、徐々に現在の河内平野が、できはじめたそうどす。
 奈良が最初の都となった、4世紀の半ば頃。
 船で瀬戸内海から河内湖へ入り、半島の上町台地を回り込み、
 大和川をさかのぼれば生駒山や、金剛山の麓まで行くことができました。
 中国大陸から生駒山麓の柏原市まで、直接舟で行けたのぞす。
 柏原で小舟に乗り換え、生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、
 もうすぐそこが奈良盆地どす。
 奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていどおす。
 湿地湖を利用すれば、奈良盆地のぞこにかて舟で簡単に行くことができたんどす。
 奈良盆地全体が大坂湾の荒波を避ける、まったとしたり自然の内港です。
 舟を利用すれば奈良盆地は便利に、ユーラシア大陸と交易が出来たんどす」



 「大和地方を平定した初代の天皇、神武天皇の御陵が奈良県橿原市にある。
 なるほど。陸路を使えば、のちの都になる京都へも、簡単に行くことができる。
 交易の都としても栄え、陸路を使えば大和のあちこちへいける地の利を持ちながら、
 なんで奈良の都は衰退したんだい?」


 
 「奈良盆地が日本の最初の都になったのは、地形から見て合理的どおす。
 けど、この奈良盆地を抱える大和川の流域が、いかにも小さ過ぎたんどす。
 川の流域がちっこいということは、資源があらへんことを意味します。
 川の流域が支配している資源は「水」と「森林」のふたつどす。
 水はすべての生命の源で、森林は、エネルギーの源になるんどすなぁ。
 大和川の流域にある奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があったんどす」



 「お・・・予想外の展開だ。だいぶ、科学的な話になって来た。
 へぇぇ、君。ほんとに歴史を語る才覚が有ったんだねぇ。驚いたなぁ」



 「茶化さんとおくれやす。精一杯にハラハラドキドキなんどす。
 30数年前に学んだ知識をホコリを被った頭の片隅から、引っ張りだしとんのぞす。
 舞妓のかたわら、こっそりと読み漁った、昔の歴史書の知識どすから」


 事実。15歳になった恵子は、舞妓をしながら夜ごと、歴史書を読み漁っていた。
眠くないと言えば嘘になるが、それでも毎晩欠かさず歴史書を読んだ。
いつかは歴史の先生になりたいという夢を、気持ちのどこかに残していたからだ。



 「舞妓のかたわら、毎晩、歴史書を読み漁っていただって?。
 正気の沙汰とは思えないね。
 置屋の娘に生まれれば、当然のことのように舞妓になり、芸妓の経験を積んでから
 やがて置屋の女将におさまるという道が決まっていたはずだ。
 君はそんな自分の運命に反発をしていたのかな。歴史書を読むことで」



 「そうやおへん。舞妓をすることに危機感を持っていたんどす」



 「危機感が有ったって?。舞妓と言えば祇園の宝だろう。
 横断歩道でもない場所でも車を停めて、道路を横切れるほどの特別な存在だ。
 危機感なんかないだろう。恵まれた過ぎた国宝のような存在だもの」



 「ウチが舞妓になる前の1975年は、舞妓の数が20名までに落ち込みどおす。
 その後、少しずつ上昇してきてウチの同期は、祇園甲部だけかて21人。
 5花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)全部合わせると65人の大所帯どす。
 まだ売れてもいあらへんウチは、舞妓の仕事で駄目なら歴史の先生にと、
 本気で転職を考えていたんどすなぁ」



 「なんだ。売れていなかったのかい、最初の頃の君は?」


 
 「ウチより舞の上手な子なんて、数限りなく、なんぼかて居りおす。
 器量かて、ウチをしのぐ子は、これまたなんぼも居るんどす。
 ウチは舞も器量も中の下。取り柄があると言えば、置屋の娘と言う特権だけ。
 けど置屋のむすめだけでは、指名の数にも限度があんのどす。
 祇園のお客さんは置屋の娘ではなう、舞の上手な子と、器量良しを最初に指名します。
 これといった取り柄も特徴もなかった女の子なんどすなぁ。
 舞妓としてデビューしたばかりの、ウチは・・・」


(47)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (45) 京都が都になったわけ。

2015-05-23 12:09:48 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(45) 京都が都になったわけ。




 「美女3人を乗せて、3泊4日の南朝の旅をするのか。悪くはないね。
 だがずいぶん軽い交換条件だな。
 その程度の事で100万近い不足額を、チャラにするとはとても信じられない。
 それ以外に、何か隠していることが有るのかな」


 「1度きりとは言っておりまへん。
 これを機会に、2度3度と乗せていただければほんで済む話どす」


 「2度でも3度でも、気が済むまで乗せてやるさ、その程度でいいのなら。
 だが、仮にも老舗お茶屋の女将と、名のある置屋の女将の2人だ。
 しけたキャンピングカーで旅行なんか行かなくても、その気になればいくらでも
 豪華な旅行が出来るだろう。
 なんで俺のキャンピングカーに、目を付けたんだ?」



 「ウチ等は祇園の有名人どす。京都を脱出するまでがえらいんどす。
 旅支度を整えて、トランクをもって表に出ただけで、外野が大騒ぎをはじめます。
 新幹線に乗ろうもんなら、知り合いが次から次へ挨拶にやってきおす。
 女将と言うのは、けっこう窮屈な職業なんどす。
 密室になっているキャンピングカーなら、外から覗かれることもありまへん。
 誰に気付かれることもなう、こっそりと京都を抜け出せますからなぁ。
 そのあたりがキャンピングカーならではの、醍醐味どす」



 『なるほど。キャンピングカーの密閉された空間が、脱出の役に立つわけか』
そういう事なら、断る理由がなくなるなぁと、勇作が溜息をつく。
乗せていくのは構わないが、女が3人寄れば姦しくなる。
酔った時の醜態の凄まじさは昨夜のスナックで、すでに目の当たりに目撃済みだ。
だが100万円の帳消しは有りがたい・・・このあたりが我慢しどころだろうと、
あらためて勇作が、深い溜息をもらす。


 「それに。ウチを乗せていけば何かと役に立ちますえ。
 なにせウチは舞妓にならなければ、大学まですすんで、小学校か中学の
 歴史の先生になるのが夢だったんどすからなぁ。
 ちなみに鎌倉幕府崩落の2年後。
 信濃で北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児・時行が兵を揚げおす。
 この中先代の乱(なかせんだいのらん)がきっかけとなり、それまで共同戦線を
 歩んできた新田氏と足利尊氏の仲たがいがはじまるおす。
 後醍醐天皇が、鎌倉を占拠した時行の討伐を、足利尊氏に命じるからどす。
 これが2人の、仲たがいのはじまりおすなぁ」



 「20日間しか鎌倉を占拠できなかった、中先代の乱のことだろう。
 天皇の命を受けて鎮圧に出向くのなら、征夷大将軍の称号をよこせと
 要求した尊氏を、後醍醐天皇が拒否したいきさつがある。
 鎌倉を平定した後、上洛をうながす後醍醐天皇に背き、鎌倉に居を構えたままの足利氏が
 東国の武士たちを手なずけていった。
 腹を立てた後醍醐天皇が、新田義貞に鎌倉に居座る足利尊氏の討伐を命じた。
 こうして同じ源氏の祖を持つ2人の、宿命の対決がはじまることになる」


 「その通りどす。あんたはんもなかなか、歴史に詳しいようどすなぁ」


 「いや、君には到底かなわない。
 中先代の乱が新田氏と足利氏の決裂の機会を生んだなんて、素人ではなかなか言えない。
 ホントに歴史にも通じているんだね。置屋の女将のくせに」



 「置屋の娘に生まれると、十中八九、舞妓になる運命が待っておす。
 3つになれば、舞の稽古をはじめるのが当たり前。
 5つになると近所の謡の先生の元へ、唄と三味線の稽古に出されおす。
 小学校の九九は覚えんかて、艶めかしい小唄や川柳の歌詞はすらすらと覚えどおす。
 今から考えたら、ずいぶんとませた小学生どおす。
 そういえば、京都に都がうつされたもうひとつの理由を、ご存じどすか?」



 「794(延暦13)年の平安遷都で、京都に都がうつされたことは歴史で学んだ。
 だがもうひとつの理由は何かと問われると、答えに困る・・・
 教えてくれ。なんで奈良から京都へ、都が移されたんだ」



(46)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら