落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (4)青いレモンの味がする

2015-03-31 11:28:44 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(4)青いレモンの味がする




 「本気なの?。中学を卒業したら東京へ行くって」


 すずが、勇作の顔をのぞきこむ。
いままで経験したことのない至近距離まで、すずの顔が近づいてきた。
揺れているお下げの髪が、いまにも勇作の額へ触れそうだ。


 「出稼ぎに行っている、叔おっつぁい連中から聞いたことやざ。
 うらは勉強が大の苦手だ。
 自慢出来るものというっちゅうと、丈夫な身体くらいなものだからの。
 けどのう、車は好きだ。運転することにも興味が有る。
 日野学園へ行けば、学びながら給料をもらえる。
 いろいろと資格を取れるうえに、運転の免許も取れるちゅうことや。
 卒業したらお前を乗せ、日本中を好きなだけドライブしてやるで。
 そのための、大事な1ッ歩目だと思え」


 「東京へ行った若いもんは、誰も帰ってこないちゅう。
 何人も東京の大学へ行ったけど、みんな向こうで就職をしてざいご(田舎)へ帰ってこない。
 あんただって東京へ行けば、2度と福井のざいごには戻ってこないやろう?
 だええち、あんたが働く工場はどこにあるの」



 「学校のすぐ近くだ。 羽村というところにあるちゅう。
 学校を終わった段階で、すぐに工場へ配属されるという話やざ。
 専門過程を終えておるから、工場では、職能のエリートということになる」


 「18歳でエリートになるの、あんたは」

 「おう。企業の学校を卒業すれば、18でエリートになれるんでの。
 ほんなええ話は、滅多にないぞ 」

 「ふぅ~ん」とすずの白い顔が、勇作の額から遠のいていく。
「東京へ行っちゃうのか、あんたは・・・」くるりと、セーラー服の背中を見せる。
あとを追うために立ち上がった勇作が、素足のままの右足に気が付く。
濡れた靴と靴下は、すずが押していく自転車の籠の中だ。


 「すず。靴をくれんか、足が痛い」


 「あたしのせいで川へ落ちたんだ。
 明日、洗って返すから、今日はこのまんま歩いて帰っておくんね 」


 「無茶言うな。あぜ道は、石ころだらけやざ。
 返してくれ。濡れたまんまの靴でも、ウラはいっこうにかまわない」
 

 「絶対に返さないちゅうんやざ。あたしを悲しませた、罰だもんやでの。
 素足で歩いて帰ってよ。あんたの顔なんか、もう2度と見たくない」



 「なに怒ってんだ、意味がわからねぇ。
 ウラが悪いのなら謝るが、何で怒っているのか、まるっきし見当がつかねぇ・・・ 」


 「勇作の鈍感っ」夕日を浴びたすずが、怖い顔で立ち止まる。



 「来年の5月23日になったら、大切なものをプレゼントしようと考えていた。
 でももうそれも、たったいまやめた。
 東京でも何処でも、好きな処へ勝手に行けばええんやざ。
 濡れた靴がええというのなら、もっと濡らしてあげますから、お好きにどうぞ」


 
 自転車のかごから、すずが濡れた靴を取り出す。
「馬鹿っ」とひとことつぶやいたあと、ポンと靴を空中へ放り出す。
放物線を描いて飛んだ靴が、勇作の頭上をはるかに越えて、用水路の中へ落ちていく。
「何するんだ!」勇作の眼が、用水路に落ちた靴の行方から振り返った時。
すずはもう自転車に乗り、夕日の中を駆けはじめていた。


 すずが両方の眼に涙をいっぱいためて、自転車を走らせていることに、
勇作はこの時、まったく気がついていなかった・・・

(5)につづく


つわものたち、第一部はこちら 

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (3)企業の学校へ行く

2015-03-28 12:00:35 | 現代小説

つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(3)企業の学校へ行く





 ふたたび手を伸ばし、すずが勇作の手を握ったのは、片足が水路に落ちた後だった。
「どうせ助けるのなら、いっぺん目で助けてくれればええものを・・・」
勇作が、濡れた靴下と運動靴を乱暴に脱ぎ捨てる。


 「まともに落ちたら、全身がずぶ濡れやざ(です)、。
 片足を濡らしただけで助かったんだ。うらにもっと感謝せや~」


 びしょ濡れの靴と靴下を拾い上げたすずが、自転車のかごへ無造作に放り込む。
「持ってえんでしょ、拭くものなんか」と制服のポケットから、
綺麗に畳んだ木綿のハンカチを取り出す。



 「初恋ちゅうと、普通は、もうちょびっとロマンチックなもんやろ。
 10月30日といえば、藤村の初恋の日で有名や。
 初恋の詩を発表したのが、30日や。
 もうすぐその30日がやって来るというのに、うちらのあいだは一向に
 ロマンチックにならへんなぁ」


 「島崎藤村の初恋?。なんだ、それ・・・」



 「まだあげ初(そ)めし前髪の 林檎(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり。
 初恋が書かれた明治時代ではの、少女が12、3歳になると肉体的な成熟を迎える。
 大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で言うオカッパ)から、
 額を見せる髪型に変るの。
 もうねんねではなく、成人の女であるという世間へのアピールや」


 「へぇぇ・・・12、3歳ちゅうと、ウラたちと同じ年頃や。
 という事はお前も前髪をあげて、もうすっかり、大人に変身したという事か?」



 「阿保っ。明治時代の話や、藤村は。
 他にもあるで。恋人たちのロマンチックな記念日は。
 2月14日は、女性が男性に告白をするバレンタインデーやろ。
 3月14日は、男性がお返しをする、ホワイトデーや。
 まだまだ有るで。8月9日は、語呂合わせで、ハグの日。
 5月23日ちゅーのは、キスの日や 」


 「キスの日?・・・なんやそれ」


 「1946年の5月23日。
 初めて日本映画に、本格的なキスシーンが登場した日や。
 占領軍の命令でハリウッド映画のように、日本もちゃんとしたキスシーンを
 映画に取り入れる様にという指導があったんよ。
 はたちの青春という映画が封切られた、画期的な日や」


 「お前。詰まらん知識ばかり、よう詰め込んでおるなぁ」


 「あんたと違って、うらは本を読むもんやで。
 あんたも、もうちょびっと勉強せんと、ええ高校へ進学でけんわよ」


 「高校へは行かん。
 ウラは東京へ行って、企業の技術学校へ入る 」



 「えっ・・・東京へ行くの、あんた。
 初めて聞いたわ。なんで本日この時まで、あたしに黙っておったんよ」


 「日野自動車と言う、トラックをこさえているのぉ、東京の自動車メーカーじゃ。
 中卒者を対象に、日野自動車学校と言うのを運営しておる。
 そこへ行けば学費は一切かからん。
 そのうえ、3年間で高校卒業の資格も取れるちゅうでの。
 もう決めたことやざ。 卒業したら、ウラは迷わず東京へ行く」


 「初めて聞いたわ。ほんな話・・・・」



 「ウラも口にするのは初めてやざ。けどもう、決心をしたことや。
 誰が止めても、ウラは、中学を卒業したら東京へ行く。
 歌にもあるやろうの。
 ※♪~テレビも無ェ、ラジオも無ェ、自動車もそれほど走ってねぇ。
 ピアノも無ェ、バーも無ぇ、巡査毎日 ぐーるぐるちゅうでの。
 ウラらほんな村いやだ、ウラらほんな村いやだ、
 東京へ行くだぁ~ってな~♪ 」


 
 (※吉幾三・「俺さ東京へいぐだ」  昭和半ばのヒット曲)

(4)へつづく


つわものたち、第一部はこちら 


つわものたちの夢の跡・Ⅱ (2)幼なじみ

2015-03-27 12:33:13 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(2)幼なじみ




 すずと勇作は、称念寺の近くにある保育園で出会った。
お互い共稼ぎの家庭に生まれたすずと勇作は、生後3ヶ月から保育園に預けられた。
ゼロ歳児の「ぱんだ組」が、最初の出会いの場になった。
3日前から預けられていたすずの隣へ、勇作が置かれたことがすべての始まりだ。
ニコニコと無邪気に笑うすずの隣。それがその後の勇作の、指定席になった。


 1歳児の「ひよこ組」。2歳児の「りす組」と2人はすこやかに進級していく。
5歳児の「ぞう組」に入るまで、2人は保母さんたちによって、まるで
ほんとうの姉弟のように扱われた。


 すずと勇作の境遇は、小学校へ入っても継続していく。
小学校の6年間も、一度も離れることなく、同じクラスで授業を受ける。
中学の3年間も卒業するまで、同じように同じクラスで学び続ける。
つまり。すずと勇作は、旅立ちを迎える15の春まで、一度も離れることなく、
一緒に居るのが当たり前の2人として、育ってきたことになる。



 幼なじみの2人は、帰宅もまったく同じ方向だ。
自転車通学のすずと、徒歩で通学する勇作が、並んで帰る姿も必然的に多くなる。
だがつい最近になってから、勇作が少しづつすずの姿を避けるようになってきた。


 「なんでうら(わたし)と一緒に帰らんのさ。
 いままでず~と一緒やないか、今更避けるなんて、おかしいんやざ(だろう)」



 迷惑そうな顔をしている勇作を、すずが無理やりにひき停める。
自転車で追いついてきたすずが、両手をひろげて勇作の行く手をさえぎる。
2人が、中学2年生になった時のことだ。
秋の文化祭が近くなってきた、10月初旬の夕方。
実行委員を担当している2人は、他の生徒たちより帰りの時間が遅くなる。
夕刻が迫ったあぜ道に、もう中学生たちの人影は残っていない。
傾きかけた秋の陽は、早くも、西の山の峰に落ちかけている。


 「避けとらんぞ、うらは別に・・・
 お前と居るのが、だんだん恥ずかしいと、何となく思えてきたからだ。
 最近のお前は、みょうに、大人びてきてるやろ」


 「しゃっぱこき(嘘つき)。うらは何ひとつ変っておらん。
 ず~とムカシから、このまんまや。 なんでうらを避けるんや。訳がわからん 」


 「変わってきとるぞ、お前は・・・
 きょうび、なにやら、めきめきと綺麗になってきた。
 それだけやないぞ。女っぽくもなってきた。
 胸のふくらみなんか、うらには眩し過ぎて、まともに見れん」


 「えっ・・・」


 セーラー服姿のすずが、目をきょとんと丸くする。
自転車を押すことをやめたすずが、「どういう意味や」とあぜ道で立ち止まる。
勇作のおどおどとした目線が、すずのふくらんだ制服の胸元を、チラリと盗み見る。
「あ・・・」すずが慌てて、胸のふくらみを右の手で隠す。


 ほとんど同時に、すずの左手が動く。
下げていたカバンを、思い切りよく空中へ振り回す。
バチーンと鈍い音を立てて、すずのカバンが勇作の頬を直撃する。
態勢を崩した勇作が、用水路の斜面に向かって足を滑らせる。


 そのまま水路に向かって、勇作の身体が落ちていく。
農業用に使う大型の用水路には、いまでもたっぷりの水が流れている。
大人でも、腰まで浸かるほどの水量が有る。
あわてて差し伸べてきたすずの右手を、勇作が必死の思いで握り返す。


 「落ちたらいかん!」



 「落ちてたまるか。頼むから、手は絶対に離さないでくれ。
 もとはといえば、お前が悪いちゅうんやざ。
 いつの間にか、お前の尻も、オッパイも、でかくなっているんだもんやで、
 何処を見たらええか困っているんだ、うら(俺は)は。
 目のやり場に困っているのは、いつの間にか、女ぽくなり過ぎた、
 お前のせいやざ!」


 「あんぽんたん(馬鹿)。あんたのことなんか、よう知らん。
 勝手に用水路へ落ちろ。この、どスケベ」


 次の瞬間。はい、さようならと、すずが握った右手をあっさりと離す。
完全にバランスを失った勇作が、両手をバタバタと振り回したままズルズルと
用水路に向かって、ゆるい斜面を滑り落ちていく。



(3)へつづく


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (1)新田義貞、戦没の地

2015-03-26 11:33:30 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(1)新田義貞、戦没の地




 すずが住む坂井市は、福井県の北部に位置している。
市街地の南部を、福井の7割近い流域面積を持つ、九頭竜川が流れている。
市の北部を、東部の森林地域から流れ出した竹田川が横切っていく。


 2つの川は市の西部で合流し、日本海へ注ぎ込む。
中心部に福井でトップをほこる、穀倉地帯の坂井平野が広がる。
岩場の多い海岸線の北部には、名勝で知られる東尋坊の断崖が横たわる。


 JR丸岡駅に近いすずの自宅から、東へ2キロほど行くと、
時宗(じしゅう)派、称念寺(しょうねんじ)という古寺が有る。
時宗は鎌倉時代末期に興った、浄土教の新興宗派だ。
総本山は鎌倉武士との関わりが深い神奈川県の藤沢市に、いまでも残っている。


 称念寺の歴史は、きわめて古い。
奈良時代、養老5年(721年)に誕生している。
奈良時代を代表する修験道の僧、泰澄(たいちょう)太師が、
天皇の命を受けて、この地に、阿弥陀堂を創建したのがはじまりとされている。
泰澄(たいちょう)は、長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に
はじめて登拝(とはい)し、白山信仰の歴史をひらいた人物だ。


 その後の歴史は明らかにされていないが、正応3年(1290)。
新興派の時宗、称念坊兄弟がこの地で伽藍を整備した。
伽藍が時宗の念仏道場として賑わったことから、この時期に称念寺が
時宗に改宗されたと考えられている。



 境内の中ほどに、石柵で囲われた新田義貞の墓所が有る。
義貞は建武5年(1338年)。この近くの田圃の中で、無念の死を遂げている。
敵軍の足利高経は、義貞の遺体を輿に乗せ、時衆たち(時宗の僧)をつきそわせ、
葬礼のため、往生院へ送るようとりはかったと伝わっている。
葬儀が行われた往生院は、いまの称念寺のあたりに建っていたと考えられている。


 1333年5月8日、卯の刻(午前七時)。
東国源氏の8代目棟梁を継承した新田義貞は、一族郎党を従えて
生品神社で鎌倉幕府倒幕の兵をあげた。
鎌倉幕府と刺し違える覚悟で、170騎足らずで決起したと当時の記録に残っている。


 足利氏の加勢と、鎌倉幕府に不満を持つ東国武将たちの援軍を受けた義貞軍は
数日足らずのうちに20万を超える大軍になる。
ときの声をあげて鎌倉へ攻め上り、14日という短期間で鎌倉幕府を討ち果たす。


 このとき新田義貞は、武者盛りの32歳。
だが鎌倉幕府を滅亡させたこのときから数えて、わずか5年後。
後醍醐天皇の忠臣として、南朝派の総大将として各地を転戦した新田義貞が、
福井のこの地で非業な最後を遂げる。
太平記の表舞台に一躍躍り出た忠臣は、37歳の若さでこの世を去る。



 縁も所縁もない福井の地で、新田義貞が手厚く葬られたのには理由がある。
陣に伴う時宗の僧侶たち(陣僧)が、義貞の周囲に沢山いたことがそのひとつに挙げられる。
陣僧は武士団に従軍僧として、身一つで付き添う。
けが人を助け、戦死をしたら念仏を十念し、遺骸を手厚く葬り、菩提を弔うため、
遺族に伝えることが陣僧たちの役割だ。


 すずは保育園に通い始めた頃から、毎日、称念寺の山門前を通り抜けた。
中学と高校の時も、毎日、自転車で山門前を駆け抜けた。
すずにしてみれば、境内に手厚く葬られている新田義貞は地元武将のひとりだ。
何の違和感もなく、なんどか五輪の塔と墓所の前で手を合わせたこともある。
義貞が、遠い上州の出身だと知ったのは、群馬県新田町に有る日野自動車の工場で
働きはじめた勇作の手紙を通してのことだ。


 「うらの初恋の相手ちゅーのは、いまは遠い群馬の地。
 そういうあんたも、はるか上州の神社で挙兵してから、いっぺんも家に帰らずに、
 日本各地を転戦したほ~やの~。
 ほんななんもない片ざいご(片田舎)で命を落とすなんて、思ってもいなかったやざ。
 勇作の奴。きっと帰って来るからなんて言っているのぉ、けど、
 旅立った男の本心なんか、分かるもんか・・・
 あんたと同じように異郷の地で命を落とすのが、関の山かもしれんわね」



 福井便のすずが、醒めた目で、義貞公の五輪の塔を見あげる。
すずはまだ、編み下げ姿が似合う高校1年生だ。
このときはまだ高校を卒業したら、地元の役場にでも勤めようかなどと
のんびり考えている、何処にでもいる女子高校生のひとりだった。

 (2)へつづく


つわものたち、第一部はこちら

おちょぼ 最終話 君に見せたい景色

2015-03-24 09:53:04 | 現代小説
おちょぼ 最終話 君に見せたい景色




 四万温泉から、中之条までの雪道を下って来た大作のワンボックスが、
そのまま中之条の市街地を越え、南へ向かう
「来た時とは、別の道のようどすなぁ」助手席で、美結が小首を傾げる。


 「榛名山へ、北から上っていく道だ。
 中之条から榛名山を越え、高崎市へ行く最短の道だ。
 でも高崎へは行かない。この車は、峠の途中で進路を変える。
 峠を左に越えていくと、湖畔の宿で知られる榛名湖へ出る。
 榛名湖を通り抜けて、そのまま東へ下れば、斜面の途中に伊香保温泉が有る。
 伊香保へ下る途中で君に見せたい、とっておきの景色が有る。
 そのための、回り道さ」


 「ウチに見せたい、とっておきの景色、どすか?。
 わざわざの遠回りなんて、なんや、ロマンチックな演出やねぇ」



 「そうでもない。実は、親父の対策を考えているんだが、名案が浮かばない。
 時間稼ぎさ。俺の腹を決めるための・・・」


 「時間稼ぎどすか。なんや夢のない話どすなぁ。
 殿方を懐柔するなら、得意どっせ。
 祇園で鍛えた必殺技を繰り出して、お父さんを懐柔して見せます。
 あ、あきまへんなぁ。
 これから嫁に行くという女が、お父さんを懐柔するのは不謹慎すぎますなぁ」


 ワンボックスが、榛名の北向き峠に差し掛かる。
眼下に結氷した榛名湖が、冬の日差しを受けて一面に広がる。
「これがあの有名な、山の寂しい湖に ひとり来たのも哀しいこころ 
と歌いだす湖畔の宿の湖どすか。
綺麗どすなぁ。ウチ、こないに凍り付いた湖を見るのは、生まれて初めてどす」
助手席から美結が、大きく体を乗り出す。



 「この程度の景色で良ければ、いつでも連れてくる。
 ただし。今日は湖畔には停まらない。
 そのまま東へ下り、伊香保温泉の手前にある見晴らし台へ急ぐからね」


 「なんでそんなに先を急ぎますの?
 あわてなくてもいいじゃないの。まだ10時を回ったばかりどす。
 時間なら、たっぷりと余っております」


 「正式に、プロポーズをしていないだろう、君に。
 家に着く前に君に、いや、美結に、プロポーズを済ませておきたい」


 「あ・・・・」



 短く声を上げた美結が態勢を戻し、助手席に深々と身体をうずめる。
「そうどすなぁ。ウチ等はお互いの真意も確かめず、とうとうここまで来たんどすなぁ、
そういえば・・・うん。たしかにウチはあんたに、口説かれてへん・・・」
と短い吐息を、何度も漏らす。


 ワンボックスは、結氷した榛名湖をあっというまに駆け抜けていく。
東へ続く2㎞余りの直線道路を、いっきに駆け上がる。
東側の最高峰地点に到達すると、ここからは長い下りの道がはじまる。
斜面を何度も曲がりながら、眼下に見える伊香保温泉に向って一気に下っていく。
山道のカーブには、すべて番号がついている。



 23番目に、高根の展望台が現れる。
道路からせりだした形で、展望台が空中へ乗り出していく。
眼下に、石段外で知られる伊香保温泉がひろがる。
正面には、長い裾野を持つ赤城山が横たわる。
雪化粧した谷川連峰が麓に水上温泉を抱いて、群馬の北の稜線を作り出していく。



 「ここが君に見せたい、群馬の絶景さ」


 似顔絵師が運転席から降りていく。
助手席に回ってきた似顔絵師が、「風が強いから気をつけて」と美結に手を差し伸べる。
谷川連峰から流れてきた雪風が、頬をかすめて枯れた山肌を吹き抜けていく。
「ほんま、寒いどすなぁ」と美結が、似顔絵師の胸に潜り込む。



 「けど、最高のロケーションどす。
こんな壮大な景色の中に居たら、ひとひとりの生き方なんか、なんか、
ちっぽけに思えますなぁ・・・」と目を細める。


 「けど。正式なポロポーズの言葉だけは、別どすぇ。
 結婚してくれと、言っておくれやす。
 ウチ。すぐにお返事する覚悟を、とうに固めております」


 「言いにくくなっちまったなぁ・・・
 君の決意を先に聞かさたせいで、プロポーズを口にする勇気が薄らいできた。
 それに俺たち。絶対にこの景色に負けてるぜ。
 凄すぎるもの・・・」


 「うふふ、意気地なしどすなぁ」と美結が目を細める。



 「いいのかよ。祇園で育ったお前が、こんな景色の中で暮らしても。
 冬は寒いし、夏は暑い。
 2月になればからっ風が吹き荒れる。
 3月になれば、細かい砂が舞い上がって、黄色い土煙が畑と町を襲う。
 でもな。冬は厳しいけど、そのぶん春から夏にかけては、絶景の季節が続く。
 新緑の頃や、緑一面に変る真夏の群馬の景色は最高だ・・・
 息を呑むほどの、もの凄い景観になる・・・」


 「その頃に、また連れてきてくれるんでしょ、わたしを。約束どすぇ」



 「まかせろ。そのくらいなら、いつでもお安いご用だ」


 「頼りにしてます、旦那様。
 ねぇぇ、いい加減で呼んでくださいな。美結とすっぱりと呼び捨てで」


 「もうすこし待ってくれ。
 いまその覚悟を、少しづつ固めているところだ・・・」



 「意気地なし。うふふ、でもそんなところがウチは大好きどす」
ふたたび美結が、似顔絵師に身体を深く寄せて来る。
肩に置いた似顔絵師の両手を、美結が胸の前に導いていく。
「うふ。あったかい・・・」美結の目が、相変わらずどぎまぎとしている
似顔絵師の横顔を、優しく見上げる。
(まぁいいか。プロポーズは後の機会でも。倖せはもうすぐ、
其処まで来ているんですもの・・・)うふっともう一度、美結が目を細めて笑う。
群馬の2015年は、たったいま、幕を開けたばかりだ。



 おちょぼ 完