『ひいらぎの宿』 (39)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様
深夜の囲炉裏端

「・・・・あなたのただの杞憂であれば、いいですね」
囲炉裏へ薪を足しながら、清子が小さく俊彦へささやきます。
ひと風呂浴びた小林青年が浴衣に着替えたあと、布団の脇に正座をして『お先に失礼します』と、
丁寧に一礼をしておりました、と小声で俊彦へ報告しています。
「俺も、ただの、余計なお節介だと思いたい。
しかし1日に3回も、何の目的もなさそうな場所で遭遇をしたとなると、やはりただ事で済まないだろう。
もう少しここで様子を見ながら起きているから、君は先にやすんでくれ。
悪いね。俺の勝手な推測で君まで巻き添えにしちまって」
「普段は石橋を叩いても渡らないほど、慎重な行動をしているくせに。
こういうことに関してだけは、いたって敏感だもの。
こうして些細なことから人の世話を焼くのが、あんたの甲斐性です。
実際には何事もなく、朝になったらあの子が、すんなりと無事に出発をしてくれれば、
それはそれで、肩の荷が下ろせることになるでしょう。
どうするか、どうなるのかは、すべてあの子が決めることです。
私たちは、ただ、それを見守るだけのことしかできません。
そんな風に考えているんでしょ。あんたも」
「なかなか鋭いねぇ、君は。
俺の心配事が当たっていたら、今夜は、長い夜になってしまうかもしれない。
ひとり寝になるかもしれないから、今夜だけは、寝巻きを着て休んでください」
「あら。それにはまったく、気が付きませんでしたねぇ・・・・。
なぁんだ、今夜は寝巻きを着てのひとり寝ですか、
寂しいですねぇ。でも、ワガママを言っている場合ではありません。
非常時ですから仕方がありません。
『忍ぶ川」も、今夜だけは、諸事情によりお休みと相成りますか。うふふ」
清子が言う『忍ぶ川』とは、 雪国では裸で寝るほうが温かいのだと書いた三浦哲郎の小説のことです。
『あたしも寝巻きを着てはいけませんの?』『ああ、いけないさ。あんたももう雪国の人なんだから』
映画では、東京の下町の料亭で働く娘(栗原小巻)と、彼女にひかれて店に通う大学生(加藤剛)の
2人が、気品のある純情と愛の美しさを存分なまでに見せてくれます。
お互いに暗い過去を持つ二人は、それぞれの境遇を語り合ううちに愛情が芽生え結ばれる、という物語です。
男の故郷、雪深い米沢で初夜を迎えた二人の会話が、先ほど紹介をした有名な会話です。
志乃を演じた栗原小巻もこの時はまだ、初々しさが香る清廉な22歳。
つぶらな瞳が、匂うような可憐さと気品を、画面いっぱいにただよわせています。
かつての日本の若者たちは、こんな生き方をしていたのだったと、しみじみと思わせるような
そんななつかしい想いと詩情を、たっぷりと描いた作品です。
清子は、この小説と映画が、ともに大好きなのです。
「私もこれで、先に休まさせていただきます。では最後に・・・・」
と、清子の切れ長のいつもの目が、妖艶なままに俊彦をのぞき込みます。
『チューはやめとけよ。チューだけは。非常時だ。遊んでいる場合じゃない』この修羅場でと俊彦が
あわてて顔をそむけてしまいますが、清子の唇は、的確に俊彦の頬を捉えてしまいます。
『一回パスをすると高くつきますよ・・・うふふ』と、耳元へ笑い声を残します。
『まったく・・・・』君は、と言いかける俊彦を尻目に、清子が床から立ち上がります。
作務衣に隠された清子の丸いお尻が、挑発するように、ゆらゆらと揺れながら
奥の寝室へ向かって消えていきます。
パチンと爆(は)ぜた火の粉がひとつ、点滅を繰り返しながら天に向かって立ち上ります。
『さて、と・・・・この先は、いったいどうなることやら・・・』
茶碗を持ち上げた俊彦が、傍らの一升瓶を手にします。
なみなみと注いだあと、ふと清子が座っていた嬶座(かかざ)の辺りに目をやります。
いつのまにか丸いお盆が置いてあり、布巾の下には肴の支度の様子が見えます。
『長期戦になるかもしれませんねぇ。まずは焦らず、じっくりと構えて頑張ってくださいな』と笑う
清子の姿が、まるでそこに有るような佇まいさえあります。
山あいにある孤立集落では、夜が更けるのに連れて、さまざまな物音が飛び交いはじめます。
昼間には決して聞こえてこなかった小さな物音たちまでが、俄然として、息を吹き返してきます。
山に住む小さな獣たちのほとんどが、夜行性です。
視覚が発達をしている鳥類の大部分は昼行性ですが、フクロウやゴイサギ、ミゾゴイ、ヨタカ、
タマシギ、ヤマシギなどは夜行性で、夜になると、その日の捕食活動を開始します。
さらに、息を潜めたまま暗闇に隠れている大きな獣たちの、その息使いまで聞こえてくるような
気配までが、どこからともなく漂ってくるから、これもまた夜中特有の不思議さです。
乾いた古民家とは言え、深夜になると、家全体が静かに呼吸などをはじめます。
ピシッという鋭い音が、深夜の空気を切り裂く瞬間がやってきます。
長年を経過した古民家の木材といえども、そのすべてが、細部や内部にわたって乾燥を
し切っているわけではありません。
ほんのわずかに残った水分が、人の寝静まった深夜になると、ふたたび自らの存在を示すような意味合いで、
大きな音を立てて、いまだに割れ目を入れることがあります。
ミシリ・・・・と、奥の部屋から、廊下を踏みしめる小さな音が聞こえてきました。

「新田さらだ館」の、本館はこちら
さらだ館は、食と、農業の安心と安全な未来を語る、ホームページです。
詳しくはこちら
深夜の囲炉裏端

「・・・・あなたのただの杞憂であれば、いいですね」
囲炉裏へ薪を足しながら、清子が小さく俊彦へささやきます。
ひと風呂浴びた小林青年が浴衣に着替えたあと、布団の脇に正座をして『お先に失礼します』と、
丁寧に一礼をしておりました、と小声で俊彦へ報告しています。
「俺も、ただの、余計なお節介だと思いたい。
しかし1日に3回も、何の目的もなさそうな場所で遭遇をしたとなると、やはりただ事で済まないだろう。
もう少しここで様子を見ながら起きているから、君は先にやすんでくれ。
悪いね。俺の勝手な推測で君まで巻き添えにしちまって」
「普段は石橋を叩いても渡らないほど、慎重な行動をしているくせに。
こういうことに関してだけは、いたって敏感だもの。
こうして些細なことから人の世話を焼くのが、あんたの甲斐性です。
実際には何事もなく、朝になったらあの子が、すんなりと無事に出発をしてくれれば、
それはそれで、肩の荷が下ろせることになるでしょう。
どうするか、どうなるのかは、すべてあの子が決めることです。
私たちは、ただ、それを見守るだけのことしかできません。
そんな風に考えているんでしょ。あんたも」
「なかなか鋭いねぇ、君は。
俺の心配事が当たっていたら、今夜は、長い夜になってしまうかもしれない。
ひとり寝になるかもしれないから、今夜だけは、寝巻きを着て休んでください」
「あら。それにはまったく、気が付きませんでしたねぇ・・・・。
なぁんだ、今夜は寝巻きを着てのひとり寝ですか、
寂しいですねぇ。でも、ワガママを言っている場合ではありません。
非常時ですから仕方がありません。
『忍ぶ川」も、今夜だけは、諸事情によりお休みと相成りますか。うふふ」
清子が言う『忍ぶ川』とは、 雪国では裸で寝るほうが温かいのだと書いた三浦哲郎の小説のことです。
『あたしも寝巻きを着てはいけませんの?』『ああ、いけないさ。あんたももう雪国の人なんだから』
映画では、東京の下町の料亭で働く娘(栗原小巻)と、彼女にひかれて店に通う大学生(加藤剛)の
2人が、気品のある純情と愛の美しさを存分なまでに見せてくれます。
お互いに暗い過去を持つ二人は、それぞれの境遇を語り合ううちに愛情が芽生え結ばれる、という物語です。
男の故郷、雪深い米沢で初夜を迎えた二人の会話が、先ほど紹介をした有名な会話です。
志乃を演じた栗原小巻もこの時はまだ、初々しさが香る清廉な22歳。
つぶらな瞳が、匂うような可憐さと気品を、画面いっぱいにただよわせています。
かつての日本の若者たちは、こんな生き方をしていたのだったと、しみじみと思わせるような
そんななつかしい想いと詩情を、たっぷりと描いた作品です。
清子は、この小説と映画が、ともに大好きなのです。
「私もこれで、先に休まさせていただきます。では最後に・・・・」
と、清子の切れ長のいつもの目が、妖艶なままに俊彦をのぞき込みます。
『チューはやめとけよ。チューだけは。非常時だ。遊んでいる場合じゃない』この修羅場でと俊彦が
あわてて顔をそむけてしまいますが、清子の唇は、的確に俊彦の頬を捉えてしまいます。
『一回パスをすると高くつきますよ・・・うふふ』と、耳元へ笑い声を残します。
『まったく・・・・』君は、と言いかける俊彦を尻目に、清子が床から立ち上がります。
作務衣に隠された清子の丸いお尻が、挑発するように、ゆらゆらと揺れながら
奥の寝室へ向かって消えていきます。
パチンと爆(は)ぜた火の粉がひとつ、点滅を繰り返しながら天に向かって立ち上ります。
『さて、と・・・・この先は、いったいどうなることやら・・・』
茶碗を持ち上げた俊彦が、傍らの一升瓶を手にします。
なみなみと注いだあと、ふと清子が座っていた嬶座(かかざ)の辺りに目をやります。
いつのまにか丸いお盆が置いてあり、布巾の下には肴の支度の様子が見えます。
『長期戦になるかもしれませんねぇ。まずは焦らず、じっくりと構えて頑張ってくださいな』と笑う
清子の姿が、まるでそこに有るような佇まいさえあります。
山あいにある孤立集落では、夜が更けるのに連れて、さまざまな物音が飛び交いはじめます。
昼間には決して聞こえてこなかった小さな物音たちまでが、俄然として、息を吹き返してきます。
山に住む小さな獣たちのほとんどが、夜行性です。
視覚が発達をしている鳥類の大部分は昼行性ですが、フクロウやゴイサギ、ミゾゴイ、ヨタカ、
タマシギ、ヤマシギなどは夜行性で、夜になると、その日の捕食活動を開始します。
さらに、息を潜めたまま暗闇に隠れている大きな獣たちの、その息使いまで聞こえてくるような
気配までが、どこからともなく漂ってくるから、これもまた夜中特有の不思議さです。
乾いた古民家とは言え、深夜になると、家全体が静かに呼吸などをはじめます。
ピシッという鋭い音が、深夜の空気を切り裂く瞬間がやってきます。
長年を経過した古民家の木材といえども、そのすべてが、細部や内部にわたって乾燥を
し切っているわけではありません。
ほんのわずかに残った水分が、人の寝静まった深夜になると、ふたたび自らの存在を示すような意味合いで、
大きな音を立てて、いまだに割れ目を入れることがあります。
ミシリ・・・・と、奥の部屋から、廊下を踏みしめる小さな音が聞こえてきました。

「新田さらだ館」の、本館はこちら
さらだ館は、食と、農業の安心と安全な未来を語る、ホームページです。
詳しくはこちら