忠治が愛した4人の女 (4)
はじめに ④
7歳から寺子屋へ通いはじめた忠次郎だが、学業は大の苦手。
もともと活発過ぎる子だ。長い時間、じっと座っていることなど端から出来ない。
寺子屋の中で、秩序を最初に乱す問題児になる。
それでも住職の貞然はあきらめない。根気強く忠次郎に、学問の大切さを説いていく。
年があけた8歳のとき。
隣にある赤堀村の、本間道場への入門を許される。
忠次郎の父・与五左衛門は、本間道場の当主、本間千太郎と同い年。
兄弟弟子であることから、特別の配慮が有った。
本間道場は念流の中でも、屈指の存在だ。
まわりが寒村であるにもかかわらず門弟の数は、軽く200人を超えている。
念流は、屈指の古流。
上州多胡(たご)郡の真庭村に伝わる、剣術だ。
始祖の相馬四朗義元から奥義をゆずられた樋口又七郎貞次が、住まいにしている
真庭村にちなみ、真庭念流と名乗るようになった。
はじまりは、慶長3年。
関ヶ原合戦の2年前の事だから、念流の歴史は400年を越える。
真庭念流は、上州一帯にひろがった。
14世が当主をつとめたころ、江戸へ進出している。
ちょうどその頃。北辰一刀流の千葉修作が、諸国回遊の武者修行の旅に出ていた。
旅の途中。上州一とうたわれた真庭念流の、小泉弥兵衛を打ち破った。
評判を聞きつけ千葉修作の元へ、100人あまりの入門者が集まった。
勢いに乗り、伊香保神社へ北辰一刀流の額を奉納しようという話が持ちあがる。
額の奉納は、伝播の証だ。
この噂が真庭村に伝わる。
奉額を阻止しろと、各地の一門に檄が飛ぶ。
周作に入門した者のほとんどが、真庭念流の門人だった。
そのうえ。流派の額を神社へ奉納されたのでは、念流の面目が丸つぶれになる。
伊香保神社に500人あまりの、念流の剣士たちが集まって来る。
教えを受けたやくざ者や、鉄砲をかかえた猟師まで血相変えて駆けつけてくる。
このとき。隊長格として周作と対峙したのが赤堀村の本間道場だ。
70~80人の門弟が、その場に駆けつけている。
伊香保の村役や代官所から「待った」の声がかかる。
千葉修作が江戸へ引き上げたことで、騒ぎが落着する。
だがこのときの騒動で、赤堀村の本間道場は血気に熱く、勇猛だとして、
近隣にさらにその名を知られている。
すそ野の長い赤城山の山麓が、途切れていく。
丘陵にかわるあたりから、丘の狭間のあちこちに水田が見えてくる。
前橋の城下から大間々(おおまま)の集落を経て、桐生へ向かうひとすじの道が有る。
桐生絹街道と呼ばれる山沿いの道だ。
道が赤堀村へ入ると間もなく、背後に杉木立を背負う長屋の門が見えてくる。
そこが忠次郎が学んだ、本間道場だ。
本間道場へ通いはじめて2年。
忠太郎の父・与五左衛門が、36歳の若さで亡くなる。
このときから忠太郎が、乱暴者に変りはじめたと記録に残っている。
何が有ったのか定かでないが、国定村にひとりの乱暴者が生まれたことになる。
16歳になると、並みの大人が2人がかりで組みついても
忠太郎にはね飛ばされてしまうようになる。
体躯肥満して、二十貫に近い。
肥えているといっても、全身岩のように固い筋骨に覆われていた。
身のこなしが早く、歩行はまるで飛ぶようで、一日に20里を歩いても
平気だと、広言していたという。
「俺は親父のあとを継ぎ、生糸の商売をして人生を終わりたくねぇ。
世間をみりゃ悪賢い奴らが、飲む、打つ、買うの三道楽で遊んでやがる。
悪い奴ほど、たんまりと金を溜め込んでいる。
あいつらのやることといったら、力のねえ者を絞りあげる事ばっかりだ。
俺は、あんな奴らにバカにされたくねえ。
強え奴を痛めつける、そんな人間になってやる。
そのためには、まず、撃剣をしっかり身に着けることだ。
そいつがおいらの生き方だ」
(5)へつづく
新田さらだ館は、こちら
はじめに ④
7歳から寺子屋へ通いはじめた忠次郎だが、学業は大の苦手。
もともと活発過ぎる子だ。長い時間、じっと座っていることなど端から出来ない。
寺子屋の中で、秩序を最初に乱す問題児になる。
それでも住職の貞然はあきらめない。根気強く忠次郎に、学問の大切さを説いていく。
年があけた8歳のとき。
隣にある赤堀村の、本間道場への入門を許される。
忠次郎の父・与五左衛門は、本間道場の当主、本間千太郎と同い年。
兄弟弟子であることから、特別の配慮が有った。
本間道場は念流の中でも、屈指の存在だ。
まわりが寒村であるにもかかわらず門弟の数は、軽く200人を超えている。
念流は、屈指の古流。
上州多胡(たご)郡の真庭村に伝わる、剣術だ。
始祖の相馬四朗義元から奥義をゆずられた樋口又七郎貞次が、住まいにしている
真庭村にちなみ、真庭念流と名乗るようになった。
はじまりは、慶長3年。
関ヶ原合戦の2年前の事だから、念流の歴史は400年を越える。
真庭念流は、上州一帯にひろがった。
14世が当主をつとめたころ、江戸へ進出している。
ちょうどその頃。北辰一刀流の千葉修作が、諸国回遊の武者修行の旅に出ていた。
旅の途中。上州一とうたわれた真庭念流の、小泉弥兵衛を打ち破った。
評判を聞きつけ千葉修作の元へ、100人あまりの入門者が集まった。
勢いに乗り、伊香保神社へ北辰一刀流の額を奉納しようという話が持ちあがる。
額の奉納は、伝播の証だ。
この噂が真庭村に伝わる。
奉額を阻止しろと、各地の一門に檄が飛ぶ。
周作に入門した者のほとんどが、真庭念流の門人だった。
そのうえ。流派の額を神社へ奉納されたのでは、念流の面目が丸つぶれになる。
伊香保神社に500人あまりの、念流の剣士たちが集まって来る。
教えを受けたやくざ者や、鉄砲をかかえた猟師まで血相変えて駆けつけてくる。
このとき。隊長格として周作と対峙したのが赤堀村の本間道場だ。
70~80人の門弟が、その場に駆けつけている。
伊香保の村役や代官所から「待った」の声がかかる。
千葉修作が江戸へ引き上げたことで、騒ぎが落着する。
だがこのときの騒動で、赤堀村の本間道場は血気に熱く、勇猛だとして、
近隣にさらにその名を知られている。
すそ野の長い赤城山の山麓が、途切れていく。
丘陵にかわるあたりから、丘の狭間のあちこちに水田が見えてくる。
前橋の城下から大間々(おおまま)の集落を経て、桐生へ向かうひとすじの道が有る。
桐生絹街道と呼ばれる山沿いの道だ。
道が赤堀村へ入ると間もなく、背後に杉木立を背負う長屋の門が見えてくる。
そこが忠次郎が学んだ、本間道場だ。
本間道場へ通いはじめて2年。
忠太郎の父・与五左衛門が、36歳の若さで亡くなる。
このときから忠太郎が、乱暴者に変りはじめたと記録に残っている。
何が有ったのか定かでないが、国定村にひとりの乱暴者が生まれたことになる。
16歳になると、並みの大人が2人がかりで組みついても
忠太郎にはね飛ばされてしまうようになる。
体躯肥満して、二十貫に近い。
肥えているといっても、全身岩のように固い筋骨に覆われていた。
身のこなしが早く、歩行はまるで飛ぶようで、一日に20里を歩いても
平気だと、広言していたという。
「俺は親父のあとを継ぎ、生糸の商売をして人生を終わりたくねぇ。
世間をみりゃ悪賢い奴らが、飲む、打つ、買うの三道楽で遊んでやがる。
悪い奴ほど、たんまりと金を溜め込んでいる。
あいつらのやることといったら、力のねえ者を絞りあげる事ばっかりだ。
俺は、あんな奴らにバカにされたくねえ。
強え奴を痛めつける、そんな人間になってやる。
そのためには、まず、撃剣をしっかり身に着けることだ。
そいつがおいらの生き方だ」
(5)へつづく
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