北へふたり旅(35)
キュウリの収穫が終わるとその日のうち、枯らす作業がはじまる。
キュウリの木を、根っこからすべて引き抜いていく。
土とつながっていると枯れないからだ。
抜き終わるとハウスが密閉され、除草剤がまかれる。
ガスが発生する。
青々していたキュウリの木が目の前で、見る間に枯れていく。
あっという間の惨状に、息をのみこむ。
「初めてみましたが、すごいですね・・・
驚きました」
「間違ってもハウスに入るなよ。
有毒だからな。あれは」
「有毒?。
ハウスの中で毒ガスが発生しているのですか、あの状態は」
「毒ガスじゃない。だが似たようなものだ。
覚えているだろう。
ベトナム戦争でアメリカ軍が、ジャングルに枯葉剤をまいたことを」
「知ってます。猛毒の枯葉剤でしょ。
下半身がつながった双子のベトちゃんと、ドクチャンの登場は
枯葉剤の恐ろしさを全世界につたえました。
ハウスの薬は、それに匹敵するということですか?」
「ある意味、それ以上かもしれねぇ。
ベトナム戦争から40年以上経っている。
その間、農薬の研究は、すさまじい勢いで進化したからな」
「ベトナムでつかわれた枯葉剤以上ですか・・・。
たしかに目の前で枯れていく様は、ベトナム以上かもしれません」
「懐かしいよな。歌声喫茶で反戦ソングを歌っていたあの頃が」
「反戦ソング?
へぇぇ・・・Sさんにもそんな時代があったのですか」
「バカにすんな。土ばっかりいじっていたわけじゃねぇぞ。
高校生の頃はバレーボールに明け暮れて、腹筋も6っつに割れていた。
戦争をしらない子供たちは、当時の俺の18番だった」
「門倉有希のノラがおはこかと思っていました。
10代の頃は反戦フォークですか。
失礼しました。
Sさんにも熱い時代があったんですね」
「そういうマスターだって、安保反対で東京までデモに行っただろ。
あの頃はおたがい青かったなぁ・・・」
「日本で化学肥料や農薬が使われるようになったのは、いつ頃からですか?」
「終戦後だ。
敗戦で1000万人が餓死するかもしれない食糧難がやってきた。
生産量を拡大するため、入植(開拓)と化学肥料と農薬の普及がさかんになった。
1950年代は日本農業のおおきな分岐点をうんだ」
日本ではその昔、「虫追い」、「虫送り」などの行事が有った。
農家がみんなで太鼓や半鐘、たいまつをもち、おおきな声を出しながら
田んぼのまわりを歩き、稲につく虫を追い払った。
江戸時代にはいると、鯨からとった油を水田に撒いた。
戦前は除虫菊(蚊取り線香と同じ成分)、硫酸ニコチンなどを用いた殺虫剤や、
銅、石灰硫黄など、天然物由来の農薬が使われた。
しかし雑草に対しては手取りが中心だった。
手取りという原始的な草取りは、戦後、除草剤が開発されるまでつづいた。
炎天下におこなわれるこの作業は、なんとも大変な重労働だった。
(36)へつづく