上州の「寅」(52)
「あの子は泣き虫でした」
昨日よりやわらかい笑顔の恵子さんが、寅とチャコを出迎える。
「どうぞ」手招きされた。
「紅茶?。コーヒー?。今日はわたしにおごらせて」
こころが落ち着いたせいか、物腰も昨日よりはるかにやわらかい。
「ユキはね。とっても泣き虫な赤ん坊でした」
コーヒーが2つ運ばれてきたあと、恵子さんがユキの話を始めた。
「わたしも泣き虫だったよ。私のDNAを受け継いだようです。
うまれたときからユキはとにかくよく泣きました。
何が気に入らないのか、火がついたように泣くの。
はじめてのことでどうしたらいいかわからず、一晩中、抱っこしたまま
公園を歩いたこともあります。
好きなだけ泣いて泣きつかれるとようやく眠るの。
その時の寝顔が可愛いの。
泣くときは悪魔、眠るときの顔は天使。
とにかく手を焼きました。それが産まれた頃のユキです」
泣き虫だったのかユキは。快活に笑ういまのユキから想像できない過去だ。
「でもね。そんなわたしに子育ての勇気をくれたのもユキでした」
「泣き虫の赤ん坊が勇気をくれたのですか?」
チャコの目がまるくなる。
「そうよ。火がついたように泣くユキから子育ての勇気をもらったの」
「信じられません!」
「信じられないようなことがおこるの。子育てでは。
あなたもいつかお母さんになれば、きっとわかるときがきます」
「そんなものですか?」
「そんなものです。
あれはユキが産まれて半年くらいたったときのことです。
病院の帰り。ユキを抱っこしてバスに乗りました」
「ひょっとして、バスの中で泣きだしたのですかユキが」
「泣かなければいいなと思っていました。
でもやっぱり、火がついたように泣きはじめた。
冬のことでバスの中は混んでいた。
暖房とおおぜいの乗客の熱気のせいで、赤ん坊は息苦しかったのでしょう。
それはわかっていたけど、泣かれるとわたしもオロオロするばかり。
周りの乗客もみんな迷惑そうな顔していました」
人ごみの中で赤ん坊が泣きはじめるのはよくあることだ。
赤ちゃんはとにかくよく泣く。なきはじめると容赦なく泣き続ける。
やっと泣きやんでも、ささいなことでまたスイッチが入る。
ふたたび泣きはじめる。
どうしたらいいかわからず新米のお母さんは、ただ戸惑うばかり。
泣きやまない原因の一つに、人一倍敏感な体質をもっている場合がある。
そうした赤ちゃんは室温の変化や、大きな音、眩しい光などに敏感に反応する。
その反応ぶりは親の想像をはるかにこえる。
赤ん坊は自分の不安や不快感を泣くことで訴える。
ユキもそうした敏感な赤ちゃんのひとりだった。
「バスが次の停留所へとまったとき。何人かのひとが降りていきました。
泣き止まないユキをあやしながら、わたしも最後の人へつづいて
バスをおりようとしました」
駅まで行きたかったけど、このままでは皆さんに迷惑がかかる。
「すみません。降ります」
そう言ったとき。運転手さんが「ちょっと待って」と呼び止めてくれました。
(53)へつづく