落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(52)泣き虫

2021-01-30 17:34:04 | 現代小説
上州の「寅」(52)



 「あの子は泣き虫でした」


 昨日よりやわらかい笑顔の恵子さんが、寅とチャコを出迎える。
「どうぞ」手招きされた。
「紅茶?。コーヒー?。今日はわたしにおごらせて」
こころが落ち着いたせいか、物腰も昨日よりはるかにやわらかい。


 「ユキはね。とっても泣き虫な赤ん坊でした」


 コーヒーが2つ運ばれてきたあと、恵子さんがユキの話を始めた。


 「わたしも泣き虫だったよ。私のDNAを受け継いだようです。
 うまれたときからユキはとにかくよく泣きました。
 何が気に入らないのか、火がついたように泣くの。
 はじめてのことでどうしたらいいかわからず、一晩中、抱っこしたまま
 公園を歩いたこともあります。
 好きなだけ泣いて泣きつかれるとようやく眠るの。
 その時の寝顔が可愛いの。
 泣くときは悪魔、眠るときの顔は天使。
 とにかく手を焼きました。それが産まれた頃のユキです」


 泣き虫だったのかユキは。快活に笑ういまのユキから想像できない過去だ。


 「でもね。そんなわたしに子育ての勇気をくれたのもユキでした」


 「泣き虫の赤ん坊が勇気をくれたのですか?」


 チャコの目がまるくなる。


 「そうよ。火がついたように泣くユキから子育ての勇気をもらったの」
 
 「信じられません!」


 「信じられないようなことがおこるの。子育てでは。
 あなたもいつかお母さんになれば、きっとわかるときがきます」


 「そんなものですか?」


 「そんなものです。
 あれはユキが産まれて半年くらいたったときのことです。
 病院の帰り。ユキを抱っこしてバスに乗りました」


 「ひょっとして、バスの中で泣きだしたのですかユキが」


 「泣かなければいいなと思っていました。
 でもやっぱり、火がついたように泣きはじめた。
 冬のことでバスの中は混んでいた。
 暖房とおおぜいの乗客の熱気のせいで、赤ん坊は息苦しかったのでしょう。
 それはわかっていたけど、泣かれるとわたしもオロオロするばかり。
 周りの乗客もみんな迷惑そうな顔していました」


 人ごみの中で赤ん坊が泣きはじめるのはよくあることだ。
赤ちゃんはとにかくよく泣く。なきはじめると容赦なく泣き続ける。
やっと泣きやんでも、ささいなことでまたスイッチが入る。
ふたたび泣きはじめる。
どうしたらいいかわからず新米のお母さんは、ただ戸惑うばかり。


 泣きやまない原因の一つに、人一倍敏感な体質をもっている場合がある。
そうした赤ちゃんは室温の変化や、大きな音、眩しい光などに敏感に反応する。
その反応ぶりは親の想像をはるかにこえる。
赤ん坊は自分の不安や不快感を泣くことで訴える。
ユキもそうした敏感な赤ちゃんのひとりだった。


 「バスが次の停留所へとまったとき。何人かのひとが降りていきました。
 泣き止まないユキをあやしながら、わたしも最後の人へつづいて
 バスをおりようとしました」


 駅まで行きたかったけど、このままでは皆さんに迷惑がかかる。


 「すみません。降ります」


 そう言ったとき。運転手さんが「ちょっと待って」と呼び止めてくれました。


(53)へつづく


上州の「寅」(51)渡したいもの 

2021-01-26 17:28:06 | 現代小説
上州の「寅」(51) 


 「あんたのせいでまた、ホームセンターへ行く羽目になったじゃないか」


 次の日の昼休み。背後からあらわれたチャコが唇を尖らせた。


 「おれはなにもしてないぜ。
 君がぜんぶ話をしたくせに、なんでいまさら俺のせいなんだ」
  
 「寅ちゃんが運転してね。あたし、疲れた」


 「それはかまわないが、怖いぞおれの運転は」


 「だいじょうぶ。寝ているから」


 「いいのか。なんどもホームセンターへ行くとユキが疑うぜ」


 「ユキには買い忘れが有ると言っておいた。
 それよりなんだろう。
 渡したいものがあるからもう一度来てくれというのは」
 
 別れ際、準備していたものがあるの、と恵子さんが言い出した。
ユキに渡してほしいという意味か。
明日用意するから午後3時過ぎにまた来てほしいという。


 断る理由はない。
わかりましたと2人で答え、ホームセンターから帰って来た。


 4月。瀬戸内の海が明るくなってきた。
「サクラのせいさ」と徳次郎老人が笑う。
「知らんのか。桜の花びらをたっぷり吸い込こむと海の色がピンクになる」
えっ、ホントかよ・・・寅があわてて海を振りかえる。


 小島の向こうへ夕陽が落ちていく。
オレンジの雲と海の境目に、ほんのりさくら色が混じっている。
ホントゥだ・・・
 
 午後2時。ホームセンターへ行くため、仕事をきりあげた。
徳次郎老人がユキを誘いにやってきた。


 「ユキ。はつみつを採るのを手伝ってくれ」


 「いいよ。そのかわり後ですこし舐めさせて!」


 子猫のようにユキが尻尾をふってついて行く。
老人に事情を説明していない。
しかしチャコと寅の気配から、なにかを察知したようだ。
「気ぃつけて行っておいで」老人が高台から手をふってくれた。


 「おれの運転で不安か」


 いつまでたっても眠らないチャコへ声をかけた。


 「心配で寝れない」


 「悪かったな。いつまでたっても下手くそで」


 「別れ際、わたしてほしいものがあるって言ってたね。
 なんだろう?。
 ユキのために前から用意していたものって。
 うらやましいな。やっぱり親子だ。母は母だ・・・」


 「何の話だ。いきなり」


 「何でもない。ただのひとりごと。気にしないで」


 思いだした。
チャコに母はいない。父も亡くなっている。
東北の大震災、3月11日の大津波でチャコは両親を失っている。
(大丈夫か?)口にしかけたとき、チャコが顔をそむけた。
(きれいな海)ちいさくつぶやく独り言が、寅の耳にむなしく聞こえる。


 午後3時。春の太陽が西へかたむきかけている。


 ななめになった陽ざしが、海の色をやわらかくする。
宮城道雄が作曲した「春の海」はこの瀬戸内の海をイメージしているという。
8歳で失明したが神戸に生まれ、幼少の頃、瞼に焼きついた瀬戸内の海を
イメージしたのだろう。
彼の見た海も、こんな風にうららかな陽ざしの下の海だろうか・・・


 午後3時。予定通りホームセンターへ着いた。
駐車場へすすんでいるとき、チャコが窓越しに恵子さんの姿を見つけた。
昨日二人がすわった窓辺のテーブルでお茶を飲んでいる。


 (52)へつづく


上州の「寅」(50)休憩室

2021-01-21 18:31:21 | 現代小説
上州の「寅」(50)

 
 周囲が騒がしくなってきた。
「不審者あらわる」の一報が警備室へ伝わる。警備員が駈けつけてきた。
「なに?」「どうしたの?」買い物客たちも立ち止まる。
寅の周囲へ物見高い人垣が出来上がる。
おおくの視線が寅へ集まる。


 「だから言ったのに・・・」


 人垣をかきわけてチャコが出てきた。
店長へペコリと頭を下げる。


 「ごめんなさい。この人はわたしの連れです。
 こちらのレジにいた女性の娘さんのことで話があり、戻ってきました」


 人垣の背後へ3番レジにいた女性が戻ってきた。
「わたしの娘、ユキをご存じなのですか!」声がふるえている。


 「この人の娘さんのことを知っているのか、君たちは」


 「はい。どうやら誤解があったようです。
 最初にそう言えばよかったのに、このひと、やたら口が不器用なんです」


 「なんだ。そういうことか。よかった」店長がほっと胸をなでおろす。


 「ここではなんだな。
 君。休憩室へこのひとたちを案内して。そこで話を聞くといい。
 君も早合点はいかんな。お客さんの話は最後まで聞くように」


 3番レジの女性へ声をかけた店長が、恵子さんの肩を叩いて去っていく。
「なんだ。なんだ。ただの誤解かぁ」
寅をとりまいていた好奇の人垣がほどけていく。


 (恵子さんというのか。ユキちゃんのお母さんは・・・)


 こちらへとユキの母親が指さす。
搬入用の扉をあけると、うす暗い通路の先に休憩室がある。
「どうぞ」と招かれ、休憩室のドアがあく。


 「コーヒーか、お茶でも?」


 「おかまいなく。わたしたちはユキのことでお邪魔しました。
 話がすめばすぐ帰ります」


 「ユキは元気にしていますか?」


 「元気です。いまはわたしたちといっしょに仕事しています」


 「どんなお仕事でしょう?」


 「養蜂です。日本ミツバチを集めるための巣箱をつくり設置しています」


 「ユキがそんな仕事を・・・ご迷惑をおかけしていないですか?」


 「役に立っていますよ。どうぞご心配なく」


 「よかった・・・」


 ふらりとゆれた恵子さんが、椅子へ崩れおちる。
(あの子、生きててくれたんだ・・・よかったぁ)
張りつめてきた気持ちが切れたのだろう、肩がふかく波打っている。


 (やっぱり母親だ。こころのそこからユキのことを心配してたんだ)


 チャコが携帯を取り出す。
画面に触れたあと、「はい」と恵子さんへ差し出す。


 「さいきんのユキの様子です。
 わたしたちといっしょに巣箱をつくっているところを写しました」


 いつのまに撮影したのだろう。
笑顔のユキや、真剣に作業している横顔がたてつづけに出てくる。
画面を見つめる恵子さんの顔がゆるんできた。
笑みが浮かんでくる、どこか似ている。やはり親子だ、ユキと同じ笑顔だ。
 


 (51)へつづく



上州の「寅」(49)もう一度行く 

2021-01-16 18:15:08 | 現代小説
上州の「寅」(49)


 「もう一回行く?。何か考えがあるの?」
 
 慌ててチャコも立ち上がる。


 「策はない。でももういちど三番レジのおばちゃんに会って来る」


 「会ってどうするの。策もないのにどうするつもり?。
 会いに行くだけじゃなにも解決しないわ」


 「それでもおれは行く」


 「石橋を叩いても渡らないくせに、へんなところでやる気をみせるわね。
 お願いだから無茶しないで。
 家族が崩壊するようなことになったら逆効果になるからね」


 「それでもおれを止めるな」


 「止めないわ」


 「じゃ、行ってもいいんだな」


 「行きたいんでしょ。どうぞご自由に」


 自分でもよくわからないまま寅が動き始めた。
なにかがはげしく寅を突きあげる。黙って座っていられない気分だ。
「無茶しないでよ」チャコの声を背中で聞きながら、寅が喫茶店をあとにする。


 こんな気分になったのははじめてだ。
寅は人のために動いたことがない。
自分のことですら、石橋をたたきそのままUターンしてしまうことがおおい。
しかし。いまは自分を動かす熱いものが、身体の奥からこみ上げてくる。


 つかつかと大股で駐車場を横切っていく。
大股で歩くことすら珍しい。
ふだんはがに股。いそぐことなく、肩を左右に揺らして身体をはこぶ。


 しかし。熱い気持ちと裏腹に、頭の中はからっぽだ。
(何を言えばいい?・・・どう説明すればいいんだ・・・いったいぜんたい)
空っぽの頭の中に、はてなマークばかりが増えていく。
それでも寅の足はとまらない。


 入り口の自動ドアが開く。
店内の風景が目に飛び込んでくる。
買い物客の向こうにレジの列がならんでいる。
1番目、2番目、そして3番目・・・


 「あれ・・・」


 3番レジにいるのはちがう女性だ。
会計中の客が立ち去るのを待ち、寅が3番レジの女性に声をかける。


 「あのう・・・さきほどこちらにいたレジの方は?」


 「誰さ、あんた。恵子ちゃんに何か用?」


 「恵子さんというのですか、さきほどまで3番レジにいたあの人は。
 あ・・・ぼくはけして怪しいものではありません」


 「自分から怪しいという人はいません。
 あんた。恵子ちゃんとどういう関係?。身内の人?」


 「他人です。今日はじめて会いました」


 「他人?。個人情報ですので教えることは出来ません。お帰り下さい」


 「いちど帰ったのですが、また戻ってきました」


 「また戻ってきた?。胡散臭いわね。
 怪しいな。なんか不審者の匂いがする。帰らないと店長を呼ぶよ」


 「いや。店長ではなく恵子さんを呼んでください。
 話があるんです」


 「話がある?。はじめて会ったひとに何の話があるのさ?。
 あんた若いくせに、子持ちの人妻に興味があるの。じつは変態者だろ」


 「と、とんでもない。誤解です。
 ぼく、子持ちの人妻なんかに興味はありません。
 できたら若い子の方がいいです」


 「若いほうがいいですって!。やっぱり変態だ。店長!。店長!」


 「どうした。どうした。何の騒ぎだ!」


 騒ぎを聴きつけて遠くから、店長らしい人物が飛んできた。


 (50)へつづく


上州の「寅」(48)妹が出来た

2021-01-12 18:05:25 | 現代小説
上州の「寅」(48)

 
 「貧しいけど楽しかった?。
 そんなはずはない。おかしいだろう、矛盾していないか?」


 「あんたみたいに恵まれた家庭に育った子には、わからないさ。
 人は仲良く暮せることが一番だ。
 わたしたちは仲間をまもる。どんなことがあっても裏切らない。
 テキヤは人と人のつながりを一番大切にする集団だ。
 一攫千金を夢見ているけど実態はほとんどが、額に汗して働く貧民層さ」


 「貧しいのか?。テキヤの暮らしは?」


 「裕福な人はすくない。
 お金には恵まれないが、こころまで貧しくはない。
 どんな状況でも事実を受け止め、笑顔で仲良く暮らす。
 笑顔は大切だ。こころの栄養になるからね。
 ユキは3歳から10歳までお金には恵まれなかったけど、母の愛に恵まれた」


 「10歳のとき。なにが起きたんだ」


 「窮状を見かねたかつての同級生が救いの手をさしのべた」


 「再婚したのか?、ユキの母親は!」


 「再婚により家庭はすこしだけ裕福になった。
 あたらしい父親もユキを可愛がってくれた。らしい」


 「問題が解決したんだ。やれやれ、めでたしめでたしだ」


 「人生はそんな単純なものじゃない。
 再婚して2年は誰が見ても、仲の良さを感じさせる明るい家庭だった。
 妹が産まれる前までは」
 
 「妹が出来たのか。ユキに」


 「可愛い妹らしい」


 「事件がはじまるんだな。そこから・・・」


 「冴えてるね。今日の寅ちゃんは」


 「そのくらいは想像がつく。俺だって」


 「かわいい妹が生まれたため、ユキに孤独がやってきた。
 母親は生まれたばかりの赤ん坊にかかりっきり。
 父親も手のひらを返したように、赤ん坊のことばかり。
 無理もない。
 生まれたばかりの赤ん坊は周囲の関心をぜんぶひきつけるからね」


 ユキの心が寂しくなった。
赤ん坊を中心にした家族の笑顔が、遠いもののように見えてきた。
母にも2人目の父にも悪意はない。 
あたらしく生まれた命にただただ、夢中になっているだけだ。


 しかし。14歳のユキのこころのどこかに穴があいた。
「あなたはもう大人でしょ」母の何気ないひとことがこころの穴をおおきくした。
(わたしは誰にも愛されていない・・・)
次の日の朝から自分の部屋へひきこもり、学校を休んだ。
ユキが黒髪を捨てて金髪に染めるまで、それほど時間はかからなかった。
 
 「誰も悪くないはずなのに。
 赤ちゃんが生まれただけで、人生が180度変ってしまう。
 14歳のユキにはショックが大きすぎた。
 中学3年生はおおくのことを理解できる。そんな風に考える大人はおおい。
 でもね。大人でもなく子供でもない。そんな年頃が思春期なの。
 思春期の女の子の感情はカミソリのように鋭いの。
 ユキの中に生まれた反発のカミソリは、ユキ自身を傷つけた。
 わたしにはそんなユキの気持ちがよくわかる」


 なるほど・・・それでユキは黒髪を金髪に染めたのか。
メロンソーダーをかき回した寅が、窓のむこうのホームセンターを見つめる。


 「もういっかい行ってくる。俺」


 寅が椅子から立ち上がる。




 (49)へつづく