落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第26話 オートロックの城

2014-10-31 09:34:18 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。



おちょぼ 第26話 オートロックの城




 タクシーはバー「S」から10分ほどで、佳つ乃(かつの)高層マンションに着く。
部屋はこのマンションの7階に有るという。
だが、おおきに財団の理事長はタクシーから降りようとしない。
佳つ乃(かつの)を背負うのを手伝った後、「あとは頼んだよ」と、路上似顔絵師に
1万円札を握らせたあと、「先斗町へ行ってくれ」と涼しい顔で運転手に指示をする。


 「え?。僕だけで佳つ乃(かつの)さんを、部屋まで送っていくのですか!」
驚く路上似顔絵師を尻目に、タクシーは街路樹の通りを走り去る。
まいったなぁ、もう・・・と、背中でずり落ちかけている佳つ乃(かつの)を、
担ぎ上げた路上似顔絵師が、しぶしぶマンションの入り口に向かう。
だが路上似顔絵師がマンションの入り口に立っても、ガラス戸はピクリともしない。



 (あ・・開かないはずだ。ここは最新式を誇るオートロックのマンションだ)



 オートロックマンションは、入り口から警戒が厳重になっている。
入り口を開けた瞬間、不審者も一緒にマンション内に滑り込む可能性が有るからだ。
内部に他人を入れぬよう、郵便受けや新聞受けなどは外部の壁に設置してある。
見知らぬ人間がオートロックの前に立っていたら、まず建物から離れて
様子を見るのが賢明だと指示されている。
だが建物の前に居るのは、途方に暮れた路上似顔絵師と、背中で寝息をたてている
酔いつぶれた佳つ乃(かつの)の2人だけだ。
マンション内にも、周囲にも、住民らしき人影はまったく見当たらない。


 「バッグの中を見て」という小さなささやきが、路上似顔絵師の耳に届く。
背中で眠っていたはず佳つ乃(かつの)が、似顔絵師が首から下げているバッグを
そっと指さす。
「青いのが入り口専用で、ピンクが部屋に入るためのもの。
あ。気を付けてな。エレベーターに乗るためには、指紋認証が必要やし」


 
 言われた通りに青いカードをかざすと、厚いガラス戸が苦もなく開く。
分厚い絨毯を進んでいくと、すぐにエレベーターの前に着く。
驚いたことに玄関からエレベータまでの空間は、まったく何もない壁だけの密室だ。
いくら見回しても、上に行ける階段は見当たらない。
玄関の空間から上の階に行けるのは、目の前に設置されているエレベータだけだ。
開閉ボタンは見当たらず、かわりに指紋認証の画面がむき出しになっている。


 「こいつがなにかと厄介なの。ときどき誤作動をするし、認識せん時も有る。
 画面が汚れただけで読み取れへんし、マンション中の人たちが毎日、
 乗り降りするたびに触るから不衛生そのもの。
 でも、ストーカーや泥棒に侵入される危険を考えたら、我慢しなくちゃね」

 「じゃ。出来たばかりの恋人や愛人は、エレベータに乗れないことになりますね」


 「ちびっとばかり時間はかかるけど、追加認証が出来るから大丈夫。
 清乃も登録したまんまにしてあるわ。あの子がいつ訪ねてきてもええように」



 「じゃ僕も」と言いかけて、路上似顔絵師が慌てて言葉を呑み下した。
身体が密着しているということだけで、なぜか、気持ちが大胆になりかけている。
(今夜の俺はどうかしている。品行方正に、送り届けるだけに専念すべきだ・・・)
危ない、危ない、嫌われたら元も子もない、と冷や汗を流す。
 

 「7階」と言われるままに、エレベータのボタンを押す。
オートロックが完備されたマンションでも、女性は1階や2階の低層には住まない。
最低でも、3階以上と言うのが部屋を決める時の鉄則だ。
部屋の入り口でピンクのカードをかざすと、静かな音が廊下に響いてドアが開いた。
このあたりで背中から降りると思いきゃ、「そのまま部屋へ入って」と
佳つ乃(かつの)が小さな声で指示をする。
住人が見たらどんな風に思われるのかと肝を冷やしたが、さいわいなことに
廊下にまったく人影はない。

 
 足を踏み込んだ瞬間、勝手に部屋の照明がいっせいに点いた。
ここにも最新のハイテクが導入されている。
初めて入る女性の部屋だ。
薄暗闇から急な明るい場所に目が慣れて着た頃、「降りる」と背中で声がした。



 女性の部屋と言うことで、もっと化粧や香水の香りが漂っているものと
勝手に妄想していたが、部屋は意外過ぎるほど清潔な空気を保っている。
「完全空調の効果かな?」と思ったが、かすかにどこからともなく漂ってくるのは、
白塗りのときの白粉のようだ。
そんな風に女性の部屋の最初の印象を感じていた時、
「もうおろして。お礼にコーヒーを入れてあげるから」と佳つ乃(かつの)が、
もそりっと、背中で身体を動かした。



第27話につづく

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おちょぼ 第25話 佳つ乃(かつの)が酔いつぶれる

2014-10-30 10:55:13 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。



おちょぼ 第25話 佳つ乃(かつの)が酔いつぶれる




 「なるほど。京都の花街が姉妹関係で成り立っていることは、よくわかりました。
 しかし妹の清乃さんが引退したことで、姉に当たる佳つ乃(かつの)さんが、
 ここまで落ち込んでいることが、僕にはどうにも不思議です」


 「佳つ乃(かつの)はいま、自分の内面を見つめとる。
 考えてもみい。性格も容姿も申し分のない女が、30を過ぎていまだに独身や。
 妹の清乃は、新しい目標を見つけて祇園を後にした。
 だが姉の佳つ乃(かつの)は、生身の女を封印したまんま、
 いまだに花街の真ん中で生きておる」



 「女を封印している?。佳つ乃(かつの)さんがですか?。
 女性としての色気を充分に感じるし、美しさも申し分ないと思います。
 着物を着ればあでやかなことこの上なしだし、舞も上手です。
 女の人でさえ、佳つ乃(かつの)さんの美貌に憧れるといいます。
 そんな佳つ乃(かつの)さんが、女を封印しているという意味が、
 僕にはよく分かりません」


 「女の幸せとは、いったいどんなものだとお前さんは思う?。
 たしかに、女たちまで憧れるほどの美しさを佳つ乃(かつの)は、持っとる。
 年齢を重ねて脂ののった佳つ乃(かつの)は、祇園甲部どころか、
 いまでは京都の5花街を代表する、美しい芸妓の一人や。
 やけど、古典芸能に身を捧げた女の生き方は、女としては不幸な生き方や。
 世間一般の女の幸せからは、遠ざかって生きることになる」

 「恋愛をして結婚をする。
 子供を産んで、育てていくという一般的な生き方の事ですか?。
 でもいまは旦那制度もないし、その気になれば花街で恋愛は可能なはずです。
 佳つ乃(かつの)さんほどの美人を、世の男たちが絶対に
 放っておくはずがありません」



 「阿保かお前。花街のトップクラスに言い寄る男はなかなかおらん。
 出たての芸妓や、2流3流の芸妓なら口説く気にもなるやろうが、
 こいつはもう誰が見ても、はるか崖の上に咲く高嶺の花や。
 芸妓として一生懸命生きておる。ある日気が付いたら30歳を過ぎとった。
 そないな佳つ乃(かつの)が、7年間も自分の妹みたいに面倒を見てきた
 清乃を手放したんや。心の傷は、よっぽど深かろう」


 「そんなものですか」と、路上似顔絵師が短い溜息をつく。
「なんだよ。お前さんが溜息ついても始まるまい。どれ。そろそろ帰ろうか」
高そうな腕時計をちらりと覗き込んだ、おおきに財団の理事長が、
「あまり遅くなっても可哀想だ。風邪をひかせるとあとが大変だしな」と席を立つ。
「おい。タクシーを呼んでくれ」と、カウンターに向かって声をかける。

 「タクシー?。10分も歩けば家に着くというのに、やけの今夜は豪勢だ。
 どうした、いつもの痛風が顔を出して歩くのが困難か?」

 「痛風が痛むのは、いつものこっちゃ。そうじゃねぇ。
 酔いつぶれた佳つ乃(かつの)を、祇園の衆目にさらすわけにはいかんやろ。
 おおきに財団の理事長の責任で、マンションへ送り届けてやるだけや。
 決して送りオオカミなんかにはならんから、安心してすべてをわしに任せろ」



 「わかった、すぐに車は手配する。そういうことなら、よろしく頼む。
 だが、昔から口とは裏腹で危ない男だからな、お前は。
 くれぐれも手を出すなよ。佳つ乃(かつの)は、祇園の至宝だからな」


 
 「阿呆野郎。わしが、同級生のお前の娘に手なんか出してどうするや。
 ええからさっさと車の手配しろ」


 2人の会話の中に現れた「娘」という言葉に、路上似顔絵師が鋭く反応をする。
(同級生の娘?。ということは、佳つ乃(かつの)さんは「S」のオーナの娘なのか?。
ちょっと待て。親子のような会話をしているのは何度か見たことあるが、
どこからどう見ても、あの2人が、真の親子のようには見えないぞ・・・
どうなってんだぁ事実は。それとも俺のただの聞き間違いなのかな?)



 目を白黒している路上似顔絵師に、おおきに財団の理事長が声をかける。



 「おいお前。ここに居る中では、一番力が有りそうやな。
 佳つ乃(かつの)を背負って、路上まで降りろ。
 5分もすればタクシーが来る。
 あ・・・・まずいなぁ。佳つ乃(かつの)の部屋は、マンションの7階や。
 ということは、お前はんに責任をもって佳つ乃(かつの)を
 7階まで背負ってもらうことになるな。
 よし。そういうことで決まりだな。頼んだぜ、色男」


 なにが「よし」か分からないが降って湧いた大役に、路上似顔絵師が、
狂喜乱舞していることに疑いの余地はない。


第26話につづく

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おちょぼ 第24話 祇園の姉と妹

2014-10-29 10:55:14 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第24話 祇園の姉と妹



 「めでたく、引いて貰うお姉はんが決まったら店出しの当日。
 お姉はん、お姉はんのお姉はん(引いてもらう舞妓からみておっきいお姉はん)
 先に引かれた姉芸妓、舞妓たちの親戚筋が集まって、義姉妹の固めの盃事が行われる。
 ほんでその先は、どちらかが他界するか、妓籍を抜けるまで、
 ず~っ姉妹の関係が続く。
 ある意味では、ほんまの姉妹よりずっと深い関係と云える。
 実はこの姉妹の縁組み、引かれる舞妓よりも引く側のお姉はんの方が
 精神的にも肉体的にもずっとエライんや。
 というのも、妹がしたことについての責任はすべて姉にまわって来る。
 お師匠はんに舞が下手やて叱られたときは、一緒にあやまりに行かんならん。
 「おとめ」といって稽古場に残されたときは、飛んで迎えに行かなならん。


 また、何らかの理由でお座敷に穴空けたら、お茶屋のお母はんに謝りに行かなならん。
 出立ての頃は贔屓のお客はんなど居ないから、お姉はんがお茶屋を連れまわる。
 『今度出たうちのいもとどす、よろしゅうお頼申します』と、
 お客はんたちに紹介してまわる。
 もちろんお客はんに粗相でもしたときは、一緒に謝らんならんのは当然や。
 『うちのいもとがえらい事しまして、すんまへんどした』てな。
 今でこそそういったことは少なくなったが、毎月の簪(かんざし)を揃えてやったり、
 「東京行き」ちゅうて、東京見物にも連れて行かんならん」



 「まるで島倉千代子が歌う、『東京だよ、おっかさん』の世界です・・・
 何から何までかいがしく世話を焼く姉は、実の姉妹よりも親密ですねぇ」


 「当たり前や。それにしてもお前。
 その若さで島倉千代子などと言う、死んでしまった歌手のことを良く知ってんなぁ。
 そっちのほうこそ、ワシには驚きや。
 東京見物だけじゃねぇ。芝居見物や、ご飯食べにも連れて行く。
 悩み事があったら相談に乗ってやらなあかん。舞や鳴り物のアドバイスもする。
 こんな事やったら妹なんか引かん方がましや、と、つくづく思うときもある」



 「それは分かります。姉に指名されたばかりに貧乏くじを引きっぱなしだもの。
 後悔しないほうが、嘘になります」

 
 「ところが、祇園と言うのは粋な世界や。
 実際のトコ、世話になっとる屋形のお母はんから
 「○×はん。今度うちの子、引いて貰えへんやろか?」
 と云われたら大概は尻込みをするもんや。
 けど結局お母はんとか、自分のお姉はんとかの筋で、どないにしても
 断れんようになって来る。
 それによく考えたら、自分も昔は、お姉はんに引いて貰うて舞妓になった
 いきさつというものがある。
 そのお礼返しやと思うたら、引き受けざるをえん。
 そないな風にして祇園では、順繰りに、姉妹の関係がつくられて行く。
 引かれる舞妓は楽でええやないか、と思うやろうが、案外そうでもない。
 舞妓にもまた、せなならへんことが山のようにある。
 今でこそ見かけんようになったが、昔は「鏡台磨き」ちゅうて、
 毎朝自分のお姉はんのとこまで行って、お姉はんの鏡台まわりの
 掃除と水の用意をしたもんや。
 それに今の若い子には辛いことやろうが、お姉はんの云うことには絶対に服従や。
 お姉はんが「あきまへん」ちゅうたら、どんなことがあってもあかんのや。
 一緒にご飯食べに呼ばれても、お姉はんが箸をつけるまでは、
 なんぼお客はんが勧めても、決して口にすることは出来ん」



 「凄いですねぇ。ある意味で体育会系か、規律が厳しいはずの軍隊以上です。
 へぇぇ。上下関係がずいぶんときっちりしているんですねぇ、祇園という花街は」


 
 「こんな風にいうと花街は、なんだかいじめの世界かと誤解される恐れがある。
 そやけどもお姉はんにとって、決して妹が憎い筈がない。
 他所の妓よりも、自分の妹のほうが可愛いのんは当然のこっちゃ。
 よその妓より、自分の妹が舞が上手やったらそら嬉しいもんや。
 お師匠はんから誉められたりしたら、我がこと以上の喜びになる。
 せやから、をどりが近づいたら気が気でおへん。
 あんじょう舞えるやろか、失敗せえへんやろかと、まるで参観日の母親みたいに
 妹の稽古ばかりを見つめる。
 妹もそないなお姉はんの気持ちが通じてか、お姉はんの名前に傷つけんように、
 お姉はんに恥かかはんようにと、一生懸命に稽古に励む。
 どうや。なかなかにええもんやろう。祇園という世界の、義理の姉妹は」




第25話につづく

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おちょぼ 第23話 佳つ乃(かつの)の淋しさ

2014-10-28 09:35:55 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第23話 佳つ乃(かつの)の淋しさ




 それから15分ほどが経った。
関東風の「すいとん」を満喫した美人芸妓の佳つ乃(かつの)が、いつの間にか
カウンターに突っ伏して、スヤスヤと寝息を立てて眠りはじめた。
「寝かせてやろう」と立ち上がったおおきに財団の理事長が、足音をたてないように、
奥のボックス席へ移動していく。


 「俺の分は、こっちへ持ってきてくれ」と、理事長が目で合図を送る。
ちょうど2杯目のすいとんが出来がったばかりだ。
路上似顔絵師も足音を立てないように、そろりそろり奥のボックス席へどんぶりを運ぶ。
「これが関東風のすいとんか。なんだかツユの色が黒いなぁ、出しが違うのか?」
どんぶりを受け取った知事長が、路上似顔絵師の顔を見上げる。



 「出しは同じですが、関東は関西とは異なり濃口の醤油を使います。
 群馬県や栃木県は、これでもまだ色が薄いほうです。
 東北の福島や岩手に行くと、もっとドバドバとたっぷり濃口醤油を使います。
 当然のことですが、味も濃く、ツユも真っ黒けになります」

 「充分に黒く見えるが、東北へ行くとさらに濃くなるのか。ふぅ~ん。
 東の方の人間は無粋だな。
 醤油を入れ過ぎると塩分の摂りすぎで、高血圧になるだけだ」


 同じ日本でも関東と関西で、汁ものの色が大きく異なる。
一般的に関西は薄口醤油の薄いつゆが主流で、こんぶだしが基本になる。
いっぽうの関東は、濃いつゆの、かつお風味の醤油味がというのが定番だ。
「へぇぇ。これが関東風のつゆか」と、パイプクラブの面々も
興味深そうに理事長の周りに集まって来る。


 「旨い。悪くない」いけるじゃないかこれ、と理事長が似顔絵師を見上げる。
そこへ座れとばかりに、顎で座席を示す。
「これだけの腕が有れば、こんなシケたトコで仕事をしなくてもええやろう。
どうや。ええトコを紹介してやるから、本気で板前修業をはじめる気は有るか?」
と目を細め、路上似顔絵師の顔を覗き込む。



 「いえ。本業は路上の似顔絵師ですし、ここでの仕事にも満足しています」


 「本業で食えんから、こんなうす暗いバーで安い金でアルバイトをしとるからに。
 まるっきしもって欲のない奴だな、お前はんて奴は。
 まぁええ。その気になったら電話しいな。番号はオーナーが知っとる」

 ありがとうございます。でもそれよりも、おおきに財団の理事長に、
是非とも教えてほしいことが有るのですがと、路上似顔絵師が身体を乗り出す。


 「佳つ乃(かつの)さんのことです。
 妹芸妓の清乃さんが引退をしてから、見た通りの荒れ放題です。
 たかが妹芸妓の引退だというのに、どうしてそんなにショックを受けるのですか?
 女の人は本能的に、気持ちの切り替えが早いと聞いています。
 別れたら別の人と、昔から良く言うじゃないですか」

 「最近の、佳つ乃(かつの)の様子が気になんのか?。
 佳つ乃(かつの)に、惚れとるのかお前?。
 やけど、とうに30は過ぎとるはずやし、お前はんよりはるかに年上や。
 そやけどもはた目で見ていて、心配だというお前はんの気持ちには嬉しいものが有る。
 祇園における姉妹の契りには、特別なもんがある」


 「ヤクザの世界における親分子分の関係か、義兄弟のようなものですか?」



 「たとえが悪いが、まぁ、似たようなものだと考えてもええやろう。
 舞妓になるために祗園へやって来ると、どこぞの置屋はんでまずおちょぼになる。
 仕込みをおよそ一年ほど続けてから、舞妓として店出しを(デビュー)する。
 このときに必ず、芸妓のお姉はんに引いてもらう。
 この時の人選は屋形のお母はんの判断で、だいたいは決まっとる。
 ほとんどの場合、誰にひいてもらうか舞妓の意志は反映されへんことになる。
 ごく稀に、自分から逆指名するちゅうこともあるが、こらあくまでも例外だ」


 「本人の意思が通じないとなると、親が決めた見合い結婚みたいなものですねぇ。
 へぇぇ封建的なんですねぇ、祇園の義理姉妹と言うのは・・・」


 「黙って聞け。話がややこしくなるやないか!」長い話になるから、
黙って聞けと理事長が、すいとんのどんぶりをそっと静かに、テーブルへ置く。


第24話につづく

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おちょぼ 第22話 すいとん

2014-10-25 12:59:08 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第22話 すいとん



 「疲れたぁ。なんか呑ませて」と佳つ乃(かつの)が、
「おおきに財団」理事長の隣に、どかりと腰をおろす。

 「久しぶりに行きあったと思ったら、なんだよ、もうそんなに酔っぱらっとるのか。
 いったいどこで、そないになるまで呑んできた?」


 「おおきなお世話どす。
 どこでもええでしょ、ウチがボロボロに酔っぱらっといても。
 あれ以来、ウチの心の中にぽっかりとおおきな穴が開いとるんだもの。
 とてもじやないどすが、呑まなきゃやってられません」


 「おいおい。ただ事ではおまへんなぁ。
 自他ともに認める祇園の別嬪が、本心をあからさまに口したらいかん。
 祇園へ通ってくるお前はんのファンの夢が、その一言で、
 いっぺんに夢から覚めちまうことになる」


 
 「理事長はん。
 ご存じでしょうが、祇園に生きとる女というのは女の本性を封印したまんま、
 芸の中だけにひたすら生きとります。
 綺麗だと言われるのは、あくまでもお仕事しているときの表面だけ。
 今のウチは、ただ疲れ切っとるだけの、まるで季節外れの祇園の幽霊や。
 ああ・・・ウチも清乃みたいに、華が有るうちにすっぱりと
 引退をしちゃおうかしら」


 「そうやなぁ。確かに夏は過ぎたから、たしかに幽霊は季節外れや。
 って、そないなことを言うてる場合ではおまへんやろ。
 それにしても引退するとはただ事ではおまへん。
 それこそ聞き捨てならへん重大発言や。たしかに今夜のお前は正気やない。
 弥助!(バー「S」の老オーナの本名)。
 何でもええから佳つ乃に、急いでカクテルを作ってやれ」


 バー「S」の店内がにわかに慌ただしくなってきた。
「おおきに財団」の理事長が自分のパイプを手のひらで抑え、あわてて火種を消した。
パイプの火は、空気を遮断することで簡単に消える。
「お前たちも消せ」とばかりに、理事長が全員に向かって慌てて目配せをする。
「S」の天井には、もくもくと無数の煙が雲のように漂っている。

 「お気遣い、ありがとう」とニコリと笑った佳つ乃(かつの)が、
次の瞬間、ふらりとカウンターの椅子の上で、態勢を崩す。
隣に座っていたおおきに財団理事長の反応は、すこぶる早かった。
予見していたかのようにすぐに両手を差し伸べ、佳つ乃(かつの)の身体を
かろうじて支える。
「ふふふ。おかげさんでかろうじてセーフどす」理事長に支えられた佳つ乃(かつの)が、
ふらりと椅子の上に態勢を戻す。


 「またなんも食わいで、昼間から酒ばかり呑んできたんやろう。
 何や有るたびにそないな風に酒をあおっとったら、いくつあっても身体が足りへん。
 おい、坊主。(路上似顔絵師のことを、常連客たちはかならずこう呼ぶ)
 カクテルなんか呑気に呑ませとる場合ではおまへん。
 急いでこいつに、何や食わせてやれ!」


 「どうせなら、いつか作ってくれた関東風のすいとんがええなぁ~」
虫の息状態の佳つ乃(かつの)が、厨房に向かってか細い声で注文を出す。
「関東風のすいとん?。なんやねんそれ。聞いたことがないなぁ」
初めて聞く料理の名前に、美食家でも通っている「おおきに財団」理事長が、
はてなと首をひねる。



 すいとん(水団)は、小麦粉の生地を手で千切る、手で丸めるなどの方法で
小さい塊に加工し、汁で煮込んでいく田舎特有の食べ物だ。
小麦が作られる地方で、簡易に作れる食べ物として定着してきた歴史が有る。
すいとんの歴史は古く室町時代の書物に、すでに「水団」の文字が見られる。
江戸時代から戦前にかけて、すいとん専門の屋台や料理店なども存在をした。
当時の庶民の味として、おおいに親しまれてきた料理の一つだ。


 食糧不足の戦後において、おおいに重宝されてきた経緯もある。
庶民の味として長く親しまれてきたが、食材が溢れ、外食産業が発展してくる中で
いつのまにか忘れら去られた料理になった。
だが路上似顔絵師の出身地でもある群馬県では、いまも郷土食のひとつとして、
戦後まもなく生まれた人たちから、懐かしい味にひとつとして、密かに珍重されている。
「何でもいいから、あんたの得意な料理を食べさせて」と佳つ乃(かつの)に
オーダーされたとき路上似顔絵師が、「すいとん」を作ったことがある。


 佳つ乃(かつの)の舌は、それを覚えていたのだろう。
「ねぇ、2つ作って下さいな。美食家の理事長の分まで、お願いねぇ~」
佳つ乃(かつの)が、厨房に向かって、さらに鼻にかかった甘い声で注文を出す。



第23話につづく

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