舞うが如く 第四章(4)山南の脱走
壬生から五条通をこえて南に行くと、島原遊郭へ出ます。
島原で遊ぶとなるとかなりの出費です。
馴染みの芸妓を持ち、盛大に宴会を開いたりするのは、
新撰組でも幹部たちだけの特権でした。
また島原の太夫は、江戸吉原の花魁などとは格が違い、
お公家さんの子女などもいて、
教養に溢れた女性たちがほとんどでした。
そこから遊郭の大門を出て、花屋町通を東に向かうと、
西本願寺に到着をします。
隊士たちが200名を越えた新撰組が、
手狭となった壬生の屯所から、ここの西本願寺へ、
本拠を移す計画が持ちあがりました。
なにかにつけて、幕府と敵対する長州藩と、
西本願寺には、特に密接な縁が有りました。
先の「蛤ご門の変」でも、敗走する長州藩士30名余りを坊主にして
匿ったという逸話が残っています。
尊王攘夷思想から今では幕府の用心棒となり、
勤皇の志士達への弾圧と、殺害に奔走しはじめた新撰組が、
次に選んだ屯所が、長州藩の影響を排除を狙っての
西本願寺の境内でした。
局長の山南敬助が、これに異を唱えました。
近藤と土方による新撰組の
独占支配が色濃くなってきたためでした。
新撰組自体も、当初の尊王攘夷思想からは、逸脱をはじめました。
ひたすら幕府をまもるための護衛部隊として、
勤皇の志士達の弾圧のために、出動することばかりが増えてきたのです。
もうひとつ、先日の出動で山南が左手に深い傷を受けたことも、
武士としての働きに影を落とすようになりました。
左手が思うようには回復をしないまま、市内警護への出動回数も減りました。
そんな山南を気遣ってくれているのが、昨年秋に、
入隊してきたばかりの伊東甲子太郎でした。
伊東は、常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生れました。
忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、
後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、
一家は領外へ追放されてしまいました。
伊東は水戸へ遊学し、
水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学びました。
また、水戸学を学んで、勤王思想に傾倒します。
追放後の忠明は、高浜村東大橋(石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、
帰郷した伊東も、その教授に当たりました。
のちに、深川佐賀町の北辰一刀流剣術・伊東道場に入門しますが、
道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、
伊東大蔵と称するようになりました。
元治元年(1864年)の10月に、
同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟をします。
同年の11月に、弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、
門人の内海二郎や中西昇らとともに上洛をしました。
このときの上洛の年(甲子)に因んで、
伊東甲子太郎と称するようになりました。
新撰組では、参謀兼文学師範に任じられました。
容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったようです。
しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組首脳が佐幕派となり、勤皇思想も倒幕に傾むいてきたことから
水面下では、それぞれに微妙な矛盾も生じはじめました。
「近藤さんや土方さんは、幕府への執着が強すぎる。
いまのままでは、新撰組は、
幕府の弾圧組織になりさがってしまうばかりです。
役目と言えば、勤皇の志士たちを追いまわすことばかりである。
これでは攘夷どころか、尊王思想まで怪しくなってきた。」
「山南さん、
尊王思想のあなたに局長職は重すぎるでしょう、
今なら遅くはない、新撰組を離れたらどうですか?」
「脱走は重罪です、
幹部と言えども死罪です。
総司や、中沢氏(琴)を裏切ることはできません。」
「そうですか・・・
すでに新撰組に、あなたの思想の生きる場所が無いように思えます。、
私の思いすごしであれば良いのですが。」
心配そうな伊東甲子太郎が、もう一度
山南敬助の横顔を、そっと覗き込みました。
黙ったまま腕を組み、瞑想に沈む山南敬助の様子に
伊東には次の言葉が見つかりませんでした。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
壬生から五条通をこえて南に行くと、島原遊郭へ出ます。
島原で遊ぶとなるとかなりの出費です。
馴染みの芸妓を持ち、盛大に宴会を開いたりするのは、
新撰組でも幹部たちだけの特権でした。
また島原の太夫は、江戸吉原の花魁などとは格が違い、
お公家さんの子女などもいて、
教養に溢れた女性たちがほとんどでした。
そこから遊郭の大門を出て、花屋町通を東に向かうと、
西本願寺に到着をします。
隊士たちが200名を越えた新撰組が、
手狭となった壬生の屯所から、ここの西本願寺へ、
本拠を移す計画が持ちあがりました。
なにかにつけて、幕府と敵対する長州藩と、
西本願寺には、特に密接な縁が有りました。
先の「蛤ご門の変」でも、敗走する長州藩士30名余りを坊主にして
匿ったという逸話が残っています。
尊王攘夷思想から今では幕府の用心棒となり、
勤皇の志士達への弾圧と、殺害に奔走しはじめた新撰組が、
次に選んだ屯所が、長州藩の影響を排除を狙っての
西本願寺の境内でした。
局長の山南敬助が、これに異を唱えました。
近藤と土方による新撰組の
独占支配が色濃くなってきたためでした。
新撰組自体も、当初の尊王攘夷思想からは、逸脱をはじめました。
ひたすら幕府をまもるための護衛部隊として、
勤皇の志士達の弾圧のために、出動することばかりが増えてきたのです。
もうひとつ、先日の出動で山南が左手に深い傷を受けたことも、
武士としての働きに影を落とすようになりました。
左手が思うようには回復をしないまま、市内警護への出動回数も減りました。
そんな山南を気遣ってくれているのが、昨年秋に、
入隊してきたばかりの伊東甲子太郎でした。
伊東は、常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生れました。
忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、
後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、
一家は領外へ追放されてしまいました。
伊東は水戸へ遊学し、
水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学びました。
また、水戸学を学んで、勤王思想に傾倒します。
追放後の忠明は、高浜村東大橋(石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、
帰郷した伊東も、その教授に当たりました。
のちに、深川佐賀町の北辰一刀流剣術・伊東道場に入門しますが、
道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、
伊東大蔵と称するようになりました。
元治元年(1864年)の10月に、
同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟をします。
同年の11月に、弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、
門人の内海二郎や中西昇らとともに上洛をしました。
このときの上洛の年(甲子)に因んで、
伊東甲子太郎と称するようになりました。
新撰組では、参謀兼文学師範に任じられました。
容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったようです。
しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組首脳が佐幕派となり、勤皇思想も倒幕に傾むいてきたことから
水面下では、それぞれに微妙な矛盾も生じはじめました。
「近藤さんや土方さんは、幕府への執着が強すぎる。
いまのままでは、新撰組は、
幕府の弾圧組織になりさがってしまうばかりです。
役目と言えば、勤皇の志士たちを追いまわすことばかりである。
これでは攘夷どころか、尊王思想まで怪しくなってきた。」
「山南さん、
尊王思想のあなたに局長職は重すぎるでしょう、
今なら遅くはない、新撰組を離れたらどうですか?」
「脱走は重罪です、
幹部と言えども死罪です。
総司や、中沢氏(琴)を裏切ることはできません。」
「そうですか・・・
すでに新撰組に、あなたの思想の生きる場所が無いように思えます。、
私の思いすごしであれば良いのですが。」
心配そうな伊東甲子太郎が、もう一度
山南敬助の横顔を、そっと覗き込みました。
黙ったまま腕を組み、瞑想に沈む山南敬助の様子に
伊東には次の言葉が見つかりませんでした。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/