落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第四章(4)山南の脱走  

2012-12-31 12:32:47 | 現代小説
舞うが如く 第四章(4)山南の脱走
 

 
壬生から五条通をこえて南に行くと、島原遊郭へ出ます。
島原で遊ぶとなるとかなりの出費です。
馴染みの芸妓を持ち、盛大に宴会を開いたりするのは、
新撰組でも幹部たちだけの特権でした。


 また島原の太夫は、江戸吉原の花魁などとは格が違い、
お公家さんの子女などもいて、
教養に溢れた女性たちがほとんどでした。
そこから遊郭の大門を出て、花屋町通を東に向かうと、
西本願寺に到着をします。



 隊士たちが200名を越えた新撰組が、
手狭となった壬生の屯所から、ここの西本願寺へ、
本拠を移す計画が持ちあがりました。


 なにかにつけて、幕府と敵対する長州藩と、
西本願寺には、特に密接な縁が有りました。
先の「蛤ご門の変」でも、敗走する長州藩士30名余りを坊主にして
匿ったという逸話が残っています。

 尊王攘夷思想から今では幕府の用心棒となり、
勤皇の志士達への弾圧と、殺害に奔走しはじめた新撰組が、
次に選んだ屯所が、長州藩の影響を排除を狙っての
西本願寺の境内でした。


 局長の山南敬助が、これに異を唱えました。


 近藤と土方による新撰組の
独占支配が色濃くなってきたためでした。
新撰組自体も、当初の尊王攘夷思想からは、逸脱をはじめました。
ひたすら幕府をまもるための護衛部隊として、
勤皇の志士達の弾圧のために、出動することばかりが増えてきたのです。

 もうひとつ、先日の出動で山南が左手に深い傷を受けたことも、
武士としての働きに影を落とすようになりました。
左手が思うようには回復をしないまま、市内警護への出動回数も減りました。
そんな山南を気遣ってくれているのが、昨年秋に、
入隊してきたばかりの伊東甲子太郎でした。


 
 伊東は、常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生れました。
忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、
後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、
一家は領外へ追放されてしまいました。


 伊東は水戸へ遊学し、
水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学びました。
また、水戸学を学んで、勤王思想に傾倒します。
追放後の忠明は、高浜村東大橋(石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、
帰郷した伊東も、その教授に当たりました。



 のちに、深川佐賀町の北辰一刀流剣術・伊東道場に入門しますが、
道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、
伊東大蔵と称するようになりました。


 元治元年(1864年)の10月に、
同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟をします。
同年の11月に、弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、
門人の内海二郎や中西昇らとともに上洛をしました。
このときの上洛の年(甲子)に因んで、
伊東甲子太郎と称するようになりました。

 新撰組では、参謀兼文学師範に任じられました。
容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったようです。
しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組首脳が佐幕派となり、勤皇思想も倒幕に傾むいてきたことから
水面下では、それぞれに微妙な矛盾も生じはじめました。



 「近藤さんや土方さんは、幕府への執着が強すぎる。
 いまのままでは、新撰組は、
 幕府の弾圧組織になりさがってしまうばかりです。
 役目と言えば、勤皇の志士たちを追いまわすことばかりである。
 これでは攘夷どころか、尊王思想まで怪しくなってきた。」

 「山南さん、
 尊王思想のあなたに局長職は重すぎるでしょう、
 今なら遅くはない、新撰組を離れたらどうですか?」


 「脱走は重罪です、
 幹部と言えども死罪です。
 総司や、中沢氏(琴)を裏切ることはできません。」


 「そうですか・・・
 すでに新撰組に、あなたの思想の生きる場所が無いように思えます。、
 私の思いすごしであれば良いのですが。」


 心配そうな伊東甲子太郎が、もう一度
山南敬助の横顔を、そっと覗き込みました。
黙ったまま腕を組み、瞑想に沈む山南敬助の様子に
伊東には次の言葉が見つかりませんでした。





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舞うが如く 第四章 (3)総司の病

2012-12-30 12:12:27 | 現代小説
舞うが如く 第四章
(3)総司の病



 
武家伝奏(ぶけてんそう)とは、
室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つで、
公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ
役目を果たしていました。


建武の新政の際に置かれ、
室町幕府がこれを制度化したものです。
役料はそれぞれ250俵が与えられ、
この他に官位禄物の配当もありました。定員は江戸時代には2名です。


 江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、
幕末の1867年(慶応3年)まで続きました。
江戸時代には、学問に優れて弁舌が巧みな
大納言級の公卿が伝奏に任じられ、
就任の際には京都所司代より血判の提出が求められました。


 この年の9月、
近藤勇、永倉新八らが、
武家伝奏のひとり坊城俊克の身辺警護役として
江戸に向けて旅発ちます。

 この江戸行きへのもう一つの理由が、
幕府のひざ元での新撰組隊士の募集でした。
池田屋、蛤ご門の変とたて続いた騒動の中で、
いくつもの実績を残してきた新撰組の存在は日増しに大きくなり、
幕臣からも重くみられるようになってきたのです。

 幕府からは、局長の近藤を与力上席とし、
さらに隊士たちを与力とする内示が伝えられたとき、
土方が近藤を制止しました。
本来の狙いは大名であるために、次の機会を待つようにと近藤を説得します
また山南敬助を総長に昇格させ、副長は土方一人になりました。


 初秋の頃になると、
沖田の病状もずいぶんと回復をしました。
盆地である京都の秋の到来は早く、
蒸し暑かった真夏の風が嘘のようにやわらいで
いつのまにか、山々からは涼しい風が吹き下ろし始めます。


 幕府の典医・松本良順の見立てで、
沖田は軽い呼吸器疾患と診断されました。
この後も、乾いた咳でときおりむせ込むことがありましたが、
池田屋のような吐血は影をひそめました。



 江戸へ発つ前日、
近藤が沖田を訪ねてきます。
手土産がひとつ、軍鶏の肉が届けられました


 「坂本(竜馬)も大好物だという軍鶏肉だ。
 わざわざ三条の坂本の行きつけの店より取り寄せたものだ。
 旨いものには、勤皇も佐幕もあるまい、
 滋養があるということだ。
 充分に英気を養ってくれ。
 長州もいまごろは、
 幕府軍に取り囲まれて、身動きが取れない事であろう。
 わしらも、ゆるりと、江戸まで行ってまいる。
 しっかりと、養生せいよ、
 総司。」


 池田屋での激しい吐血と昏倒は、
蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症か、
一時的な体調の不良であろうというのが、
大方の見方となりました。



 実際に九月に入ってからは土方を押しのけて
朝からの道場での練習にも、たいそう精をだすようになりました。
もともとが激しい稽古で知られていましたが、
最近ではそれに凄味が加わりました。
いつにない激しい立会いぶりに、そろそろと山南が助け船をだしました。



 「総司、あまり根をつめるな、
 病み上がりとは言え、そう先を急ぐでないぞ。
 わしが、代わろう」


 尊拠(そんきょ)の姿勢から一礼を終えた沖田が、
道着をはだけて、したたる胸の汗をぬぐいました。
そのかたわらに土方が現れました
そのまま聞けと、総司に小声でささやきます。


 「近藤が江戸より連れてきた新隊士のうちに、
 伊東甲子太郎というのがおるが、
 どうも、要注意人物のようである。」



 「警戒せよと?」


 「剣の腕と言い、
 弁舌と言い、何の文句もないのだが、
 どうも何か気にかかるものがある。
 俺も注意はしてみておくが、
 総司もそのつもりで居るように。」


 「承知いたしました。」


 この時は、軽い懸念にすぎませんでしたが、
やがてこの伊東甲子太郎が、新撰組の別動隊を仕立て上げようと、
よからぬ策動を開始いたします。


 しかしそれ以上に、年が明けた元治2年の冬に、
沖田を震撼させる、一大事件が発生します。





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舞うが如く 第四章 (2)蛤御門(はまぐりごもん)の変

2012-12-29 10:24:58 | 現代小説
舞うが如く 第四章
(2)蛤御門(はまぐりごもん)の変




元治元年(1864年)7月19日。
京都で勢力の挽回を図る長州藩と
御所を守る幕府軍との間で武力衝突が発生しました。


 前年の、8月18日の政変で京都政界を追放された長州藩が、
新撰組による池田屋事件で火に油を注ぐこととなり、
ついに武力行使に至りました。
兵力では圧倒的に劣っている長州軍でしたが、
尊攘をめざす藩士たちの猛攻には、それをしのぐ凄まじいものがありました。
とりわけ熾烈を極めた御所周辺を筆頭に、
市内の各地で、激しい戦闘が繰り広げられました。


 しかし、薩摩藩・会津藩を主力とする
大軍の幕府軍には力及ばず、ついに長州藩は敗走をはじめました。
中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)であったため、
のちに、蛤御門の変と呼ばれるようになりました。


 御所の周囲にある9門の一つで、天明の大火(1788年)の際に
初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられて、
「蛤御門」と呼ばれました。
今でも御門の梁には、めり込んだ鉄弾が残っています。


 戦闘は19日の昼過ぎには終了しましたが、
おりからの強風にもあおられて、市内一帯に広がった戦火による火災は、
21日ので朝まで続いていたといわれています。




 この当時の京都の人口が約50万人でした。
この戦火の被害は27513戸にも上り、811町が焼失をしました。
公家屋敷は18軒、武家屋敷は51軒、土蔵1207棟、橋41、宮門跡3つ、
芝居小屋2軒、髪結所132軒、社寺253、番部屋562と延焼し、
京都市街の3分の2が焼失したともいわれています。

 この直後、21日に孝明天皇が長州追討令を出し、
これを受けた幕府は、西国諸藩に号令を出し
15万人規模の長州征討軍を編成しました。
第一次長州征討のはじまりです。



 体調を崩した沖田は、この戦闘には参加していません
すさまじい火災の中、琴と共に壬生の屯所の警護に残りました。
もうひとり山南も、体調がすぐれないために、
残された隊士たちを率いて
屯所の警護と警戒の指揮をとっていました。


 濛々と立ちあがる黒煙と、飛び散る火の粉を遠くに見ながら、
頬のこけた沖田が、柱にもたれかかりながら茫然と立ち続けています。
どこまでも蒸し暑く、吹きつける熱風が髪を焦がすようです

 「総司さん。すこし、横になられたほうが・・・」


 素直にうなずいた沖田が、用意された布団に膝を崩して座りました。
琴が背中から薄い夜着をかけます。
屯所内を見回り中の山南が、隊士を連れて現れました。


 「総司、心配はない。
 火の勢いは、東から南にかけてのもので、
 こちらにはまいるまい。」



 「たいそうな火の勢いです。
 戦局も気にかかりますが、
 九条に出陣した近藤さんや、歳さんたちは無事でしょうか、
 まるごと京都を焼き尽くすような火の回り様です。」

 
 「一時は長州藩が、
 御所の内部にまでなだれ込んだそうだが、
 薩摩藩の介入で形勢が逆転したようだ、
 今は、洛内のあちこちで小競り合いが続いている
 程度だそうだ。」

 「近藤さんや、歳さんは・・・」



 「九条河原に布陣したままと聞いておる、
 戦況については、
 まだ何の連絡もない。」

 「政局のたびに、
 京都は焼ける街ですね。
 ずいぶんと沢山の人たちが難儀に合われているかと思うと
 胸がいたみます。」

 
 琴の一言に、いあわせた一同が
一様に燃え上がる夜空を見あげました。

激しい炎には、まったく収まる気配が見えません。

 「焼けた跡に、甦る物とは一体何でしょう
 京都は焼けるたびに、
 新しい歴史を生み出してきたと聞いておりますが、
 あたらしいものとは何でしょう。
 朝廷と幕府がともに手を取りあった
あたらしい世の中のことでしょうか、
 それとも・・・。」


 時代が変わろうとする予感は感じつつも、
ともに明日が見えないことは、
居合わせたすべての人々に共通する、心境でした。
徳川幕府の崩壊・大政奉還まで、
残された時間はあとわずかに3年でした。




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舞うが如く 第四章 (1)日本の開国

2012-12-28 10:19:31 | 現代小説
舞うが如く 第四章
(1)日本の開国




徳川幕府のもとで鎖国を続けてきた日本に、
ペリー来航(1853)よりもかなり以前から、
日本近海には、開港を求める外国船が頻繁にやって来ました。


 1779年にはロシア船が蝦夷に来て、松前藩に通商を要求し、
1792年にはロシア使節ラクスマンが根室に来航して通商を請いますが、
幕府はこれを断固として拒絶しました。
1796年にはイギリス船が室蘭に来航します。
1811年には国後に来たロシア軍艦長ゴローニンが捕らえられ、
逆に翌年には高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられました。


 1837年にはアメリカ船モリソン号が
漂流民を伴って浦賀に入港しましたが、1825年に発布された
幕府の「異国船打払令」によって撃退されてしまいました。




大航海時代と呼ばれた19世紀にはいると、
欧米各国による、アジア進出が激しさを増しました。


1840年にイギリスは、
アヘンの持込を禁止した清国(中国)に対して
アヘン戦争をおこし、清国を屈服させ、1842年には南京条約を結んで清国を
開国させて香港を手にいれました。

続いてフランス、アメリカも
清に迫って、同じような条約を結びました。
1860年には太平天国の乱に乗じたイギリス・フランスの連合軍が清国を攻め、
北京条約により、イギリスは九竜を割譲させましたが
この時ロシアは、沿海地方を手に入れました。
インドやインドシナの諸国もヨーロッパ諸国の武力の前にひとたまりも
なく屈して、次々と植民地化されていきました。




 1856年・下田に
アメリカの駐日総領事ハリスが着任し、
幕府は、アメリカと日米修好通商条約を結びました。
 この条約には一方的な最恵国待遇・居留地制・領事裁判権・協定関税制などの
不平等な条項が盛り込まれ、日本は1911年まで治外法権と
安い外国製品の流入に苦しめられる結果となります。


 開国の結果、アメリカ以外に英仏露など列強各国が
こぞって日本にやって来て、横浜などに居留しはじめました。
当初は外国商人との貿易が中心となり、
綿糸・織物・金属・武器・砂糖・薬品などが主に輸入され、
日本からは絹生糸やお茶などを輸出しました。

 こうした盛んな貿易は、やがて諸物価の高騰をまねき、
流通制度などで日本経済の大混乱を招き、庶民の生活を圧迫し始めました。
庶民や武士らの不満は、やがて尊皇攘夷思想を芽生えさせ、
倒幕運動へと発展していきました。


 幕府はこうした動きに対して
大老井伊直弼らが厳しく取り締まり、安政の大獄などを行いますが、
逆に尊皇派は、井伊を桜田門外で暗殺してしまいました。
権威を著しく失った幕府は、朝廷と公武合体を図り
融和策を取りはじめます。



 しかし、薩英戦争や英米仏蘭による、四国艦隊下関砲撃事件などを経て、
欧米諸国の強大さを実感した長州藩は、幕府を早急に倒し、
天皇を中心とした中央集権国家を作る必要性を
強く感じるようになりました。
長州は志を同じくする薩摩藩と薩長同盟を結び、
本格的な倒幕運動を目指すようになります。


 また、土佐藩は朝廷と徳川家の連合政権を構想し、
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めました。
慶喜はこれを受諾して、1867年12月には王政復古の大号令が発せられ、
ついに徳川幕府は倒れ、新政府が樹立しました。


 しかし、佐幕派によって慶喜の入閣が実現しそうになると
それを阻止しようとする討幕派との間に、激しい対立が巻き起こり、
鳥羽・伏見では旧幕府軍と新政府軍(官軍)が激突をしました。


欧米各国が提供した大砲などの新兵器に、
旧幕府軍は、無残に撃退されてしまいます。
慶喜は降伏を決め、勝海舟と西郷隆盛の会談により
江戸城が無血開城されました。
 その後も上野の彰義隊や、会津藩や長岡藩、蝦夷五稜郭などで
官軍に対する激しい抵抗が行われたましたが、
それらもすべて鎮圧されてしまいます。



 こうした一連の戦争は戊辰戦争と呼ばれ、
多くの犠牲を払ったのちに終結し、
1868年、明治維新を迎えることになるのです。
 しかし本編はまだ、元治元年6月半ばのことで、
新撰組による池田屋騒動を伝え聞いた長州藩が、
兵力を挙げて、京へ進軍を始めるために躍起になっている
まさにその最中でのことです。



 池田屋の二階で吐血した沖田総司は、
八木邸の奥座敷で養生中でした。
明け放した座敷の中では、
浴衣姿の琴が、沖田を団扇を煽いでいます。




 縁側に風呂敷包みを抱えた、山南が現れました。
起き上がろうとする沖田を制して、
山南が琴を手招きしました。



 「明里より、預かってまいりました。
 京都の夏は蒸し暑い故、
 浴衣は何枚あっても邪魔にはならぬそうです。
 普段、明里が身につけているものではありますが、
 お役にたてばと、預かってまいりました。」


 「助かりまする、
 お内儀さんから借りた一枚だけでは、
 確かに、どうにもなりませぬ。
 明里さんに、よろしくお伝えください、
 兎に角、蒸しまする」


 「余り長居しても無粋ゆえ、これにて失礼いたします。
 総司をよろしく、」


 引きとめる間もなく、
山南が木戸へと消えて行ってしまいました。
見送る琴の耳に、奥座敷からの
総司の乾いた咳が聞こえてきました。





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舞うが如く 第三章 (17)池田屋のその後

2012-12-26 10:50:57 | 現代小説
舞うが如く 第三章
(17)池田屋のその後




 半隊を率いて長州藩士や土佐藩士らが頻繁に出入りしていた
料理屋・丹虎方面を探索していた土方が、誰も見当たらないのを確かめると、
すぐさま池田屋の応援に駆けつけました。


 しかしただちに突入はせずに、まずは池田屋の周囲を隊士たちで固めました。
後から駆けつけてきた会津藩や桑名藩の兵を池田屋には入れず、
新撰組の手柄を守ることに専念したのです。
まだ幕府の中でも立場の弱い新撰組のことを考えての行動で、
天下に新撰組の勇名を轟かせるための、
土方の冷静な機転でした。



 討ち入り開始から約一刻(2時間)の後に、
池田屋での捜査は終了しました。
池田屋に残された遺体の中には、宮部鼎蔵らの重要人物の姿もあり、
他にもさらに6名が惨殺されました。



 捜査が終わるころには、
池田屋の周辺には、数百人の会津藩士らが駆けつけてきました。
さらに同じく、騒ぎを聴きつけた野次馬たちであふれかえります。
池田屋屋内からは重傷の籐堂が運び出され、
裏庭からは奥澤・新田・安藤がそれぞれ隊士たちによって、
祇園会所へと運びこまれます。
琴と土方に付き添われた青い顔のままの沖田も、
祇園会所で再び横たわりました。


 池田屋屋内の捜査を終えた隊士たちは、
休む間もなく、会津藩兵とともに池田屋から逃亡した浪士たちの探索と、
京の町に残存する不逞浪士たちの掃討のために
さらに作戦行動を展開します。


 浪士掃討は翌朝の九時近くまでで終了しました。
不逞浪士の七名が死亡して、二〇名余りが捕縛されて
「池田屋事件」が終了しました。
祇園会所で隊士をまとめた近藤は、昼近くになってから隊伍を組み、
意気揚々と壬生の屯所へと凱旋をはじめました。



 先頭を歩いたのは沖田総司で、真っ青な顔のまま、左右から
土方と琴の介添えを受けての行進でした。
一番の活躍を見せた永倉は、右手に曲がってしまった刀を下げて、
左手には応急手当の手ぬぐいから血が滲んだままでした。


 傷つきながらも晴れがましく歩く新撰組の姿は、
あたかも吉良邸討ち入りを成功させた、
赤穂浪士の姿を彷彿とさせるものでした。
 街道に居並ぶ人たちからも賞賛の声が飛び交いました。
この凱旋する姿を見せたことが、のちに新撰組を、
歴史の表舞台に登場させるその重要なきっかけとなりました。




 新撰組が凱旋した翌7日、会津藩から500両、
さらに8月4日には幕府から600両もの大金が
報奨金として下されました。



 この事件の四日後に、
池田屋事件が長州に報ぜられました。

 池田屋事件の発端となった「八月一八日の政変」以来、
収まることの無かった長州藩の怒りが、
多くの同士が惨殺され、捕縛されたことを聴きおよぶにつけ、
ついに、その頂点にと達します。


 そしてそのわずか10日後に、長州藩が動き始めました。
京都に向けて進軍を開始して、
7月19日には幕府と長州勢が衝突をします。
世に言う「禁門の変」の勃発でした。


第三章・完




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