つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(70)足利の再起

新田義貞は播磨へ進み、赤松則村がこもる白旗城を包囲する。
戦闘準備が遅れていた赤松は、義貞に使者を出す。
『播磨は自分の領地である。自領さえ保障してくれれば、何の野心もない。
自分を播磨の守護にしてくれるなら、天皇方について奉公する』と申し出る。
赤松一族は、もともと天皇方で挙兵している。
だが度重なる戦の中で、何度も戦況のたびに寝返りを繰り返してきた一族だ。
義貞は城を包囲したまま、攻撃を中止する。
使者を京都へ送り、穂醍醐天皇の指示を待つことにした。
京から状況の詳しい問い合わせが有り、天皇の沙汰が出るまで1ヶ月も要した。
その間。赤松方は、合戦の準備をすっかり整えていた。
新田義貞は、武士道をひたすら重んじる、きわめて古典的な武将のひとりだ。
卑怯をことさら嫌う。情を大事にする傾向が強い。
鎌倉を陥落させた後。同族の足利直義に足元をすくわれて、失墜したのもそのためだ。
政治力に欠けていたため、武将たちを掌握することができなかった。
その結果。帝の上洛要請を口実に、体裁よく鎌倉を追い出される羽目になった。
いくさにおいても、武士の体面を第一に考える。
敗走の途中、『敵に追いつかれないために、橋を切り落としていては末代までの恥だ』
と、天竜川に架かる橋を破壊しなかった例も有る。
赤松の申し出をまともに信用して、1ヶ月近くも無策に過ごす人の良さも、
実はこうした傾向の中から生まれてくる。
白旗城の攻防戦が、再開される。
騎馬を得意とする東国武将と、野戦を得意とする西国歩兵の勝負がはじまる。
小さな城とはいえ白旗城は、地形に恵まれた自然の要害だ。
大軍をもってしても白旗城は、攻めにくい。
2万の大軍が2ヶ月近くも攻めても、白旗城を落とすことが出来ない。
攻略を諦めた義貞は、備前・備中へ軍を転進させる。
だが義貞は、白旗城攻めに時間をかけ過ぎた。
手間取っているあいだに尊氏は九州をまとめあげ、ふたたび京都へ攻め上るための
準備をすっかり終えていた。
楠木正成が後醍醐天皇に、家臣の義貞を捨て、尊氏を用いるよう進言したことがある。
正成は義貞の人柄だけではなく、武略や思考についても見下していた。
単なる推量ではない。
鎌倉を追われ京へ着いたとき、義貞は気落ちのあまり、出家しょうとしていた。
正成は『戦いには勝つ場合も負ける場合も有る。次回、頑張ればよいであろう』
と励ましたという逸話が残っている。
京を奪回できたのは新田勢の実力というよりも、奥州からやって来た北畠軍や
信濃・越後の軍勢に支えられた部分が大きい。
だが、北畠軍の遠征の代償は大きい。
京へ向かった留守の間、尊氏とつながりを持つ武将が各地で蜂起している。
信濃で、小笠原貞宗と武田政義。奥州で、磐城の相馬一族。津軽の曽我貞光。
出羽の安藤家季たちが、足利方として挙兵している。
騒乱の火種は、すでに全国に広がっている。
敗走しながら尊氏は、冷静に自分の敗因を分析していた。
破竹の進撃をおこない、一時は都を占拠したにもかかわらず、都周辺の豪族たちの
多くが、完敗したはずの新田軍を支援し続けている。
敗れても敗れても増えつづける新田支援の数に、根負けした形で敗れ去った。
新田軍の人気の秘密は、ただひとつ。
天皇を奉じる新田軍が官軍で、足利軍が賊軍という立場だからだ。
都の周辺で、官軍と賊軍の立場の違いはあまりに大きい。
錦の御旗の威力は絶大だ。
どんな大軍をもってしても賊軍という立場を解決しないかぎり、京での戦いは不利になる。
これを解決する方法がひとつだけ有る。
自らも官軍として、錦の御旗をかかげることだ。
双方が官軍として出陣をするなら、官軍賊軍の区別が戦いの争点にならない。
実力のある側に、世論は有利に働く。
今回の争いの発端は、持明院統と大覚寺統の皇位両統迭立の契約を、後醍醐天皇が、
無視したことから始まっている。
本来なら、現在の天皇は、皇位を剥奪されている持明院統の光厳上皇だ。
苦肉の論理で光厳上皇の綸旨を手に入れた足利尊氏は、まんまと錦の御旗を手中におさめる。
官軍となった尊氏は宿敵・義貞との再決戦のために、
東に向かって海路を急ぐ。
(71)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(70)足利の再起

新田義貞は播磨へ進み、赤松則村がこもる白旗城を包囲する。
戦闘準備が遅れていた赤松は、義貞に使者を出す。
『播磨は自分の領地である。自領さえ保障してくれれば、何の野心もない。
自分を播磨の守護にしてくれるなら、天皇方について奉公する』と申し出る。
赤松一族は、もともと天皇方で挙兵している。
だが度重なる戦の中で、何度も戦況のたびに寝返りを繰り返してきた一族だ。
義貞は城を包囲したまま、攻撃を中止する。
使者を京都へ送り、穂醍醐天皇の指示を待つことにした。
京から状況の詳しい問い合わせが有り、天皇の沙汰が出るまで1ヶ月も要した。
その間。赤松方は、合戦の準備をすっかり整えていた。
新田義貞は、武士道をひたすら重んじる、きわめて古典的な武将のひとりだ。
卑怯をことさら嫌う。情を大事にする傾向が強い。
鎌倉を陥落させた後。同族の足利直義に足元をすくわれて、失墜したのもそのためだ。
政治力に欠けていたため、武将たちを掌握することができなかった。
その結果。帝の上洛要請を口実に、体裁よく鎌倉を追い出される羽目になった。
いくさにおいても、武士の体面を第一に考える。
敗走の途中、『敵に追いつかれないために、橋を切り落としていては末代までの恥だ』
と、天竜川に架かる橋を破壊しなかった例も有る。
赤松の申し出をまともに信用して、1ヶ月近くも無策に過ごす人の良さも、
実はこうした傾向の中から生まれてくる。
白旗城の攻防戦が、再開される。
騎馬を得意とする東国武将と、野戦を得意とする西国歩兵の勝負がはじまる。
小さな城とはいえ白旗城は、地形に恵まれた自然の要害だ。
大軍をもってしても白旗城は、攻めにくい。
2万の大軍が2ヶ月近くも攻めても、白旗城を落とすことが出来ない。
攻略を諦めた義貞は、備前・備中へ軍を転進させる。
だが義貞は、白旗城攻めに時間をかけ過ぎた。
手間取っているあいだに尊氏は九州をまとめあげ、ふたたび京都へ攻め上るための
準備をすっかり終えていた。
楠木正成が後醍醐天皇に、家臣の義貞を捨て、尊氏を用いるよう進言したことがある。
正成は義貞の人柄だけではなく、武略や思考についても見下していた。
単なる推量ではない。
鎌倉を追われ京へ着いたとき、義貞は気落ちのあまり、出家しょうとしていた。
正成は『戦いには勝つ場合も負ける場合も有る。次回、頑張ればよいであろう』
と励ましたという逸話が残っている。
京を奪回できたのは新田勢の実力というよりも、奥州からやって来た北畠軍や
信濃・越後の軍勢に支えられた部分が大きい。
だが、北畠軍の遠征の代償は大きい。
京へ向かった留守の間、尊氏とつながりを持つ武将が各地で蜂起している。
信濃で、小笠原貞宗と武田政義。奥州で、磐城の相馬一族。津軽の曽我貞光。
出羽の安藤家季たちが、足利方として挙兵している。
騒乱の火種は、すでに全国に広がっている。
敗走しながら尊氏は、冷静に自分の敗因を分析していた。
破竹の進撃をおこない、一時は都を占拠したにもかかわらず、都周辺の豪族たちの
多くが、完敗したはずの新田軍を支援し続けている。
敗れても敗れても増えつづける新田支援の数に、根負けした形で敗れ去った。
新田軍の人気の秘密は、ただひとつ。
天皇を奉じる新田軍が官軍で、足利軍が賊軍という立場だからだ。
都の周辺で、官軍と賊軍の立場の違いはあまりに大きい。
錦の御旗の威力は絶大だ。
どんな大軍をもってしても賊軍という立場を解決しないかぎり、京での戦いは不利になる。
これを解決する方法がひとつだけ有る。
自らも官軍として、錦の御旗をかかげることだ。
双方が官軍として出陣をするなら、官軍賊軍の区別が戦いの争点にならない。
実力のある側に、世論は有利に働く。
今回の争いの発端は、持明院統と大覚寺統の皇位両統迭立の契約を、後醍醐天皇が、
無視したことから始まっている。
本来なら、現在の天皇は、皇位を剥奪されている持明院統の光厳上皇だ。
苦肉の論理で光厳上皇の綸旨を手に入れた足利尊氏は、まんまと錦の御旗を手中におさめる。
官軍となった尊氏は宿敵・義貞との再決戦のために、
東に向かって海路を急ぐ。
(71)へつづく
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