落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (70)足利の再起

2015-06-30 11:22:49 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(70)足利の再起



 新田義貞は播磨へ進み、赤松則村がこもる白旗城を包囲する。
戦闘準備が遅れていた赤松は、義貞に使者を出す。
『播磨は自分の領地である。自領さえ保障してくれれば、何の野心もない。
自分を播磨の守護にしてくれるなら、天皇方について奉公する』と申し出る。


 赤松一族は、もともと天皇方で挙兵している。
だが度重なる戦の中で、何度も戦況のたびに寝返りを繰り返してきた一族だ。
義貞は城を包囲したまま、攻撃を中止する。
使者を京都へ送り、穂醍醐天皇の指示を待つことにした。
京から状況の詳しい問い合わせが有り、天皇の沙汰が出るまで1ヶ月も要した。
その間。赤松方は、合戦の準備をすっかり整えていた。



 新田義貞は、武士道をひたすら重んじる、きわめて古典的な武将のひとりだ。
卑怯をことさら嫌う。情を大事にする傾向が強い。
鎌倉を陥落させた後。同族の足利直義に足元をすくわれて、失墜したのもそのためだ。
政治力に欠けていたため、武将たちを掌握することができなかった。
その結果。帝の上洛要請を口実に、体裁よく鎌倉を追い出される羽目になった。


 いくさにおいても、武士の体面を第一に考える。
敗走の途中、『敵に追いつかれないために、橋を切り落としていては末代までの恥だ』
と、天竜川に架かる橋を破壊しなかった例も有る。
赤松の申し出をまともに信用して、1ヶ月近くも無策に過ごす人の良さも、
実はこうした傾向の中から生まれてくる。



 白旗城の攻防戦が、再開される。
騎馬を得意とする東国武将と、野戦を得意とする西国歩兵の勝負がはじまる。
小さな城とはいえ白旗城は、地形に恵まれた自然の要害だ。
大軍をもってしても白旗城は、攻めにくい。
2万の大軍が2ヶ月近くも攻めても、白旗城を落とすことが出来ない。
攻略を諦めた義貞は、備前・備中へ軍を転進させる。
だが義貞は、白旗城攻めに時間をかけ過ぎた。
手間取っているあいだに尊氏は九州をまとめあげ、ふたたび京都へ攻め上るための
準備をすっかり終えていた。



 楠木正成が後醍醐天皇に、家臣の義貞を捨て、尊氏を用いるよう進言したことがある。
正成は義貞の人柄だけではなく、武略や思考についても見下していた。
単なる推量ではない。
鎌倉を追われ京へ着いたとき、義貞は気落ちのあまり、出家しょうとしていた。
正成は『戦いには勝つ場合も負ける場合も有る。次回、頑張ればよいであろう』
と励ましたという逸話が残っている。


 京を奪回できたのは新田勢の実力というよりも、奥州からやって来た北畠軍や
信濃・越後の軍勢に支えられた部分が大きい。
だが、北畠軍の遠征の代償は大きい。
京へ向かった留守の間、尊氏とつながりを持つ武将が各地で蜂起している。
信濃で、小笠原貞宗と武田政義。奥州で、磐城の相馬一族。津軽の曽我貞光。
出羽の安藤家季たちが、足利方として挙兵している。
騒乱の火種は、すでに全国に広がっている。



 敗走しながら尊氏は、冷静に自分の敗因を分析していた。
破竹の進撃をおこない、一時は都を占拠したにもかかわらず、都周辺の豪族たちの
多くが、完敗したはずの新田軍を支援し続けている。
敗れても敗れても増えつづける新田支援の数に、根負けした形で敗れ去った。



 新田軍の人気の秘密は、ただひとつ。
天皇を奉じる新田軍が官軍で、足利軍が賊軍という立場だからだ。
都の周辺で、官軍と賊軍の立場の違いはあまりに大きい。
錦の御旗の威力は絶大だ。
どんな大軍をもってしても賊軍という立場を解決しないかぎり、京での戦いは不利になる。
これを解決する方法がひとつだけ有る。


 自らも官軍として、錦の御旗をかかげることだ。
双方が官軍として出陣をするなら、官軍賊軍の区別が戦いの争点にならない。
実力のある側に、世論は有利に働く。
今回の争いの発端は、持明院統と大覚寺統の皇位両統迭立の契約を、後醍醐天皇が、
無視したことから始まっている。



 本来なら、現在の天皇は、皇位を剥奪されている持明院統の光厳上皇だ。
苦肉の論理で光厳上皇の綸旨を手に入れた足利尊氏は、まんまと錦の御旗を手中におさめる。
官軍となった尊氏は宿敵・義貞との再決戦のために、
東に向かって海路を急ぐ。


(71)へつづく


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (69)ひとときの安らぎ

2015-06-29 11:23:35 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(69)ひとときの安らぎ



 敗戦は新田義貞の心に、深い傷を残す。
鎌倉攻め以来、苦楽を共にしてきた執事・船田義昌の戦死は、義貞にこたえた。
わずかなおごりと油断が招いた惨敗に、義貞は自らを責める。


 失意の義貞に、局面を切り開くための新しい戦略は浮かんでこない。
だが、天がかすかに、失意の義貞をなぐさめる。
尊氏の鎌倉を攻撃した際。東山道をすすんで同時に鎌倉攻撃する予定だった
尊良親王を擁する官軍が、無傷で義貞の本陣へ戻って来た。
思わぬ援軍を得て東坂本に陣を張る新田勢が、一挙に大軍勢に膨れ上がる。


 気を取り直した新田義貞が、総攻撃の秘策を練る。
満を持して、1月27日。全軍に、足利勢の掃討を命じる
この日おこなわれた総攻撃が、京都攻防戦の中で、最大級の戦いになる。
足利勢は、勢いを取り戻した新田勢の前に、防戦一方になる。
やがてじりじりと後退し、兵庫のあたりまで陣を下げていく。



 2月7日。尊氏の軍が、ついに打出ノ浜まで後退する。
後のなくなった尊氏が、瀬戸内からやって来た水軍たちに救われる。
水軍の船に乗り込んだ尊氏が、再起を決して、九州へ落ち延びていく。


 官軍側が、完全な勝利をおさめる。
目まぐるしく一進一退を繰り返した末の尊氏の敗走は、だれの眼から見ても、
再起不可能と思える大敗だった。
完璧な敗北。あるじを失った多くの敗残兵が、官軍にたいして降伏の証を見せる。
二つ引きの足利紋の中心部分を、黒く墨で塗りつぶす。
こうすることで新田勢の紋、黒一文字の大中黒のように見える。
にわか作りの大中黒を抱えた敗残兵が、凱旋していく新田軍の後を着いていく。



 2月25日。後醍醐天皇が、元号を延元とあらためる。
皇室の権威に反抗する者が、ようやく遠い地に駆逐されたと、安堵の胸をなでおろす。
平和を取り戻した都で、足利一族の領地を中心に恩賞の配分がおこなわれる。
後醍醐天皇のもと親政は、再出発の機運が高まっていく。

 
 戦に明け暮れた義貞に、ようやく、ひとときの休息がおとづれる。
英雄には美女が、よく似合う。
静御前のいない義経の物語に、何の価値もないのと同じことだ。
男盛りの義貞のもとに、時代を代表する美女がやって来る。
後醍醐天皇から下賜された、後宮の美女、勾当内侍(こうとうのないし)だ。
『戦勝のほうびに女をくれる』などとは、何とも野蛮な考え方だ。
しかし史実によれば、義醍醐天皇が関係した女性は30人以上。
産ませた子供は、全部で32人と有る。
勾当内侍は後醍醐天皇が寵愛した、30人の美女のうちのひとりだ。



 こんな話もある。後醍醐天皇が、楠木正行にたいし弁内侍(べんのないし)を
下賜しようとしたとき、すでに戦いに勝ち目はなく、討死を覚悟していた正行が、
これを辞退したというエピソードが残っている。
義貞が賜った勾当内侍が、噂通りの天下一の美人とまでいかなくても、
たぶん実在した麗人のひとりであったと推測できる。
美人の妻を手にした新田義貞に、しばしの幸福な時間が過ぎて行く。



月があらたまった、3月2日。尊氏が九州で菊池勢たちと合戦していたころ。
京では尊氏追放の功労者に報いる、昇進人事が発表された。
久しぶりの平安な日々が、京におとずれていたなによりの証拠だ。
3月10日。北畠の奥州軍が義良親王を奉じて、長い帰国の途につく。
大軍の駐留は、もはや必要ないと考えられたからだ。
同じころ。義貞の軍勢も尊良親王を奉じて、山陽道へ出発していた。
足利方の残党を追討し、反抗を完全に封じるためだ。


 侍大将に上り詰めた義貞が美女に性根を奪われ、尊氏追撃の絶好の機会を
失ったと、巷(ちまた)が騒がしくなったのもこの頃だ。
義貞が腹心の江田行儀と大舘氏明を播磨に向け、出陣させたのは、3月4日。
大軍を率いて義貞が京を出発したのが、3月の半ば過ぎ。
遅すぎたという訳ではないが、この猶予の時間が、尊氏に復活の時間を与えてしまう。
間髪を入れず、九州へ落ち延びた尊氏を追って、壊滅のための追討作戦を実施していれば、
新田義貞が完全な勝利を手中にしていた可能性が有る。


 だが、つい3年前まで無位無官だった義貞が、いまや誰もが従う官軍の総大将だ。
異例の栄達をうらやみ、多少の悪口が流れるのは世の常だ。
足利追討に軍を進める義貞の望みは、ただひとつ。
望みは、後醍醐天皇の権威の回復でもなければ、京都の町の治安回復でもない。
源氏による強力な統率のもと、全国をただひとつの武家社会にまとめあげたうえで、
自らがその頂点に立つことだ。



 義貞が目指していたのは源氏再興、それのみだ。
しばしの平和がおとずれたとはいえ、京を一歩出れば、そこには天皇や朝廷の権威など
全く及ばない、豪族たちの武力社会が存在している。
京都以西を完全に、源氏の力で平定をする。それこそが新田義貞の、次なる戦略だ。



(70)へつづく

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (68)京都攻防戦

2015-06-28 12:29:38 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(68)京都攻防戦



 新田勢が京へ戻ったのは、12且25日。
それを追う足利の先陣は、すでに近江の真近まで迫っていた。
西へすすむ足利勢のはるか後方を、北畠顕家が率いる奥州の軍勢がすすんでいる。
結城宗弘・伊達行朝らの精鋭、2万騎だ。
さらにその後方を、足利方の奥州管領の軍勢が追いかけている。
北畠の奥州軍は、すでに鎌倉を落としている。
天下分け目の大いくさが、いままさに、都の周辺で始まろうとしている。


 両軍の合戦は、先鋒隊の衝突からはじまる。
建武3年1月1日。中山道をすすんできた足利軍の先鋒隊と、千草・名和・結城の
官軍が、琵琶湖の瀬田で衝突する。
その2日後。こんどは、南下してきた但馬丹波の足利一門と、新田一門の江田行義の軍勢が
京都の北で衝突する。



 両軍主力による合戦は、7日の宇治・大渡から始まる。
官軍の守備隊は、宇治に楠正成の5000騎。大渡に新田義貞の8000騎。
山崎に脇屋義助の7000騎。3軍あわせて2万騎あまり。


 一方、攻め寄せる足利軍は、宇治へ尊氏が率いる10万騎。
弟の足利直義が別動隊の5万騎を率いて、赤松・細川の軍勢5万騎が山崎へ向かう。
総勢20万を超える足利の大軍が、ぐるりと京の周囲を取り囲む。


 激しい合戦は、2昼夜におよぶ。
数に勝る足利軍がじりじりと優勢になる。先陣が都へ迫る。
だが橋を落とし、堀を深くした守りの前に、都へ突入することが出来ない。
数では劣るものの、官軍側も必死の抵抗をつづける。
10日の昼。山崎に向った赤松と細川の軍勢が、脇屋義助が守っていた地点を突破する。
赤松勢にしてみれば、山崎は地元で戦い慣れた戦場だ。


 突破口が開いたことで、足利勢がさらに押し寄せてくる。
完全に浮足立った脇屋軍の兵士が、逃げ場を求めて義貞の本隊へなだれ込んでいく。
にわかに生じた混乱のため、新田軍が統制力を失う。
総崩れになった山崎を突破口にして、足利軍が一気に市街地へなだれこんで来る。
この瞬間。最初の交戦は、皇軍の惨敗が決まる。



 後醍醐天皇を敵に奪われてはならない新田義貞は、天皇を伴って、
比叡山の麓、近江の東坂本まで落ち延びて行く。
1月11日。足利尊氏の本隊が都へ入る。
一息つく暇も見せず、新田軍の本拠地、東坂本を総攻撃するための陣容を整えていく。
「公家側が破れた。」関東での戦いが、新田と足利の主導権争いであったのに対して、
都の内外でまきおこった戦いは人々の眼には、武家と公家の戦いとして映った。


 公家(くげ)とは、朝廷に仕える貴族や、上級官人たちのことを指す。
天皇の近くにつかえ、御所に出仕している三位以上の位階を世襲する家のことを、
公家と呼ぶ。
鎌倉時代。軍事警察権と東国支配を担当するための武家政権が、朝廷の承認の元
源頼朝がひらいた鎌倉の地に置かれた。
これにたいし、政務一般と西国支配を所掌する公家政権が、京に存在した。
両政権がおおむね協調連携しながら、日本全体の政務にあたってきた歴史が有る。


 鎌倉時代の中ごろから、公家の経済的支配権が地方の武士(地頭)たちに
浸食されるケースが目立ってきた。
この傾向は時代とともに、さらに顕著化していく。
朝廷を守る公家方と、武家を代表する足利勢の激突は、まさに
こうした時代の象徴と言えるだろう。



 1月14日。
遅れていた奥羽軍が、義貞の本陣・東坂本へ到着する。
北畠顕家の奥羽軍は途中で鎌倉を攻め落とし、破竹の進軍を続けながら
京都まで駆け登ってきた。
意気上がる奥羽軍の勢いが冷めぬうち、義貞は、新田と北畠の連合軍を編成する。


 1月16日。
一気に尊氏を京都からおいはらうべく、都に向かって突撃を開始する。
北畠軍の気勢に押され、足利尊氏は一旦、都から兵を引いていく。
しかしその翌日。態勢を整え直した足利軍が、ふたたび都へ突入してくる。



 勝利に酔い、洛中で略奪に走り、統制がきかなくなっていた北畠軍は、
押しよせて来た足利軍に、なすすべもなく敗れてしまう。
勢いに乗った足利軍が、あっという間に新田義貞の本陣を包囲する。
新田義貞に、絶体絶命のピンチがおとずれる。
このピンチに、義貞が最も信頼していた執事の船田義昌が命を捨てて退路を切り開く。
虚をつかれた義貞は、命からがら、かろうじて東坂本へ逃げ帰る。



(69)へつづく

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (67)武士の血 

2015-06-27 11:34:57 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(67)武士の血 





 武家は自分たちの土地を守るために、いのちを賭けてたたかう。
官軍と賊軍の違いに、特別の意味はない。
竹ノ下の戦いは、結集した武家たちが、どちらに着くかを決めるいくさになった。
今回のいくさに勝利した者が、天下に号令を出せる大将軍になれる。


 だが武家たちはまだ、多少のためらいを残している。
すい星のごと現れ、不可能と思われた鎌倉をわずか2週間で、いとも簡単に
攻め滅ぼした新田義貞のインパクトは大きい。
その一方で、全国に領地と一門を持つ、名家の足利尊氏の存在も捨てがたい。
どちらも、魅力的な頭領としての風格をそなえている。
それゆえ、戦況の局面が変わるたびに、寝返りの多発を引き起こす。



 敗走する新田軍が、天竜川へさしかかる。
冬の12月。天竜川の流れは早く、深い水は人を寄せ付けない。
まして厳寒の時期。騎馬や徒歩での渡河は困難をきわめる。
大軍を船で渡していたのでは、追撃してくる足利軍に追いつかれてしまう。


 義貞は逃げ隠れている、渡し守たちをかき集める。
舟橋を架ける様に命じる。
急いで架けなければ殺すと命じられ、渡し守たちは3日で舟橋を天竜川へ架ける。
義貞は5昼夜をかけて敗軍を渡し、最後に自身もその橋を渡る。



 全軍が渡り終わったら、橋を破壊するのが軍略だ。
しかし義貞は、舟橋を壊さない。
壊すのを禁じたばかりか、足利軍が来るまで橋を守るよう渡し守たちに命じる。
命令として次のように語ったと、古文の中に残っている。


 「敗軍のわたしたちでさえ、架けて渡る橋である。
 勝ちに乗った足利軍なら、もっと早く架けるであろう。
 小勢が川を背にして大敵にあたるならば、一歩も引かぬ決意を固めるために舟を焼く。
 橋を壊すことも武略のひとつであるが、いまはその時ではない。
 義貞としては簡単に架けられる橋を壊して、あわてふためいて逃げたことよ、
 などと敵に笑られるのは、末代までの恥である」



 追撃してきた足利軍が、川の様子に眼を見張る。
舟橋が架かっており、渡し守たちが舟橋を守っている。
渡し守から貞義の言葉を聞いた将士は、みな涙を流した。
『弓矢の家に生まれた者なら、だれもがかくありたいもの。
 まさに義貞公はうたがいなき名将だ』と、深く感銘したという。

 いくさの中の、美談は多い。
人柄や生き方をあらわす美談は、古今東西、数限りなくある。
だが日本を揺るがす激しい戦いは、たったいま、本格的な口火を切ったばかりだ。
義貞が敗軍のしんがりを守りながら、西へ向っている頃。
足利直義が出した新田義貞追討の催促書が、全国の武将たちに届いている。


 後醍醐天皇の親政に嫌気を覚えていた武将たちは、足利の催促書に呼応する。
四国・讃岐の細川氏。備後備中の飽浦と田井の一族。越中守護や安芸の守護職。
九州の大友や島津たちが、相次いで兵をあげる。
武家政治の再興の願う豪族たちの挙兵が、続々と連鎖していく。
こうして騒乱は野火のように、わずかなうちに、日本全国へひろがっていく。



 尊氏は敗走する官軍を追い、伊豆国府まで兵をすすめていた。
20万を越える軍勢が、尊氏に従っている。
いずれも建武の新政に反発して、武家政権の復活を願う者たちばかりだ。


 イデオロギーで固まった集団は、強い。
まして武士は、命を懸けてたたかう戦いのプロ集団だ。
指揮を取る尊氏の人柄にも、魅力がある。
降伏してきた武家を暖かく迎えいれる、大きな心が有る。


 国府に着いた尊氏が、各地から結集してきた武将たちを一堂に集める。
官軍を追跡し、このまま上洛するとたからかに宣言する。
足利尊氏がはじめて、武家政権樹立の野望を口にした瞬間だ。
戦争は人を狂気にさせる。
その一方で、個人が果たすべき役割を鮮明にする。


 もう決して、引き返すことは出来ない。
おおくの武士たちのために、絶対に勝利しなければならないたたかいが、
ここからはじまる事になる。

(68)へつづく



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つわものたちの夢の跡・Ⅱ (66) 箱根・竹ノ下の合戦

2015-06-26 11:17:48 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(66) 箱根・竹ノ下の合戦




 足利尊氏は、北畠軍が陸奥から鎌倉へ到着するまで、相当の時間がかかると読んだ。
主力を、西からやって来る義貞軍にぶつけることにした。
すぐさま、弟の直義を三河へ送る。
同族の吉良氏、上杉氏、細川氏、畠山氏らと共に三河の矢矧(やはぎ)に陣を張らせる。
進軍してくる新田軍を、三河で食い止める作戦だ。


 1335年11月25日。両軍の最初の戦闘がはじまる。
官軍であることを全面に出し、意気高く進んでくる新田軍に対して、最初から
防戦一方の足利軍は、時間とともに劣勢になる。
敗戦の気配が濃厚となる中。持ち場を捨てて、寝返りする者が相次いで出てくる。
ついに守備隊が総崩れとなり、兵たちが東に向って敗走していく。


 緒戦の大敗に驚いた尊氏は、総力戦で臨むべく、急いで援軍を組織する。
自ら陣頭に立ち、迎え撃つために出馬する。
直義軍の総崩れでさらに士気あがる新田義貞軍は、鎌倉めざして破竹の勢いで前に進む。



 箱根の手前。三島へ到着したところで、貞義軍が休息をとる。
敵の窮地をつき、本来ならそのまま鎌倉へ進軍すべきところだが、義貞には
別の思惑が用意されていた。
軍備を補給することと、東山道を遅れ気味に移動している別動隊と、
鎌倉突入の歩調を合わせることに目的があった。


 だがこの休息が結果的に、尊氏を首の皮一枚で助けることになる。
防衛上の拠点、箱根峠をこえられては万事休すになる。
何としても箱根でくいとめねばならぬと、尊氏が兵を急がせる。
いまの尊氏は、半年前に反乱を起こした諏訪頼重と全く同じ立場にあるからだ。



 諏訪氏を攻めたときの足利軍は、防衛上の拠点・箱根峠を突破したことで、
全軍の士気が最高潮に達した。
箱根峠を突破したことが、鎌倉奪還の勝利を呼び込んだ。
義貞があのときの自分と同じなら、箱根峠を突破されることは足利勢が
いくさに負けることを意味する。
直義の必死の踏ん張りもあり、尊氏はかろうじて箱根峠に間に合う。


 合戦を前に、尊氏が策略をめぐらす。
直義が守っている箱根峠に援軍の主力を向かわせたと見せかけて、義貞が率いている
官軍の主力を、箱根峠に釘付けにする作戦に出た。
その間に足利の本隊が、箱根山の北へ廻り込む。
義貞の弟、脇屋義助が小数で布陣している竹ノ下の峠へ、援軍のすべてを集結させる。



 大軍を相手に真正面から、力任せでぶつかれば、多大な被害が出ることは明らかだ。
手薄になっている部分を見つけ出し、そこを突破して一気に敵陣を分断する。
これこそが、尊氏が最も得意としている戦法だ。
1335年12月12日早朝。
尊氏が率いる数万の主力が、いきなり脇屋勢の真正面に現れる。

 多勢にぶぜいの脇屋勢は、たたかう前に総崩れになる。
支援に参じてきた大友貞載、塩冶高貞たちが、いち早く足利側に寝返っていく。
脇屋軍には、尊良親王が同行している。
二条為冬が討たれたため、脇屋義助が小数を率いて親王の警護に回る。
義貞の本隊と合流すべく、竹ノ下から退いていく。



 先手必勝の論理通り、この戦いが、戦況のすべてを支配していく。
尊氏の思惑通りの展開になる。
援軍の来ない直義軍と押しぎみに戦い、防衛線をいままさに突破しようとしていた
義貞軍に、突如として、信じられない変化がおこる。


 竹ノ下を突破した足利尊氏に、背後をつかれる危険性が出てきたためだ。
このままでは挟み打ちにあうと危惧した義貞が、全軍を三島の地まで後退させる。
だがこれが、義貞がとった名将らしからぬ大誤算になる。
寝返りが当たり前とされるこの時代の戦さに、後退の判断は許されない。



 後退する新田軍を、敗走とうけとめた諸将が、つぎつぎと敵に寝返る。
寝返りが相次ぐ中。三島に着いたころには、新田軍は半数にも満たない劣勢になっていた。
判断を誤ったため、新田軍は更に敗走していく。
勢いに乗り、強気で皇軍のあとを追いかけていく足利尊氏。


 たった一日で、両者のすべてが逆転した。
義貞は、自分の采配が敗北を決定的なものにしてしまった事を悔いながら、
しんがりをつとめ、西に向かって兵を退いていく。




(67)へつづく

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