からっ風と、繭の郷の子守唄(43)
「赤城型民家と呼ばれる古老の屋敷と、金色の糸を吐くオカイコ」
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「なんで俺は、こんなところで全力疾走をしているんだろう?」
駆け始めた坂道の途中であっというまに苦しさを覚え、青ざめた顔で立ち止まった康平が、
肩で大きく喘ぎながら思わず心の中でつぶやいています。
昨夜から寝ていないことからくる寝不足と、中途半端に残っているアルコールが
胃の中でいっそう攪拌をされ、吐き気に加えてわずかな目眩さえ感じている情けない自分が
まぎれもなくそこへいます。
子供の頃なら息ひとつ切らさずに駆け抜けることが出来た、
桑の巨木からもうひとつ先の丘陵を登った先にある徳次郎の屋敷までが、今日に限っては
やたらと遠くに感じられてなりません
『それにしても衰えたものだ。ガキの頃のあの元気が、もう微塵も残っていないなんて』
背後からゆっくりとした足取りで、大地を踏みながら一歩ずつ歩んでくる古老の姿を
目の隅に置きながら、早くも支える力をすべて失い、ガクガクと小刻みに笑い始めている
自分の膝の様子に、流れる汗を拭いながら康平が苦笑いを浮かべています。
徳次郎の屋敷はひときわ高い斜面の上に、四方のすべてを木立に囲まれて、
長い年月を悠然とそびえています。
赤城山の斜面を吹きおろす真冬の激しい季節風、上州の『からっ風』を避けるために、
この辺り一帯の農家は、北と西側に樹木を植え、荒れ狂う強風から家を守ります。
屋根の高さよりもはるかに高い位置まで伸ばされた樹木は、真冬になると漬物用の
大根を乾燥させるための、格好の風の晒し場としても活用されています。
養蚕の衰退とともに、独特の特徴を持っていた養蚕農家の母屋は、
何度かの改造を改築を重ねてきましたが、ついにその姿が次から次へと消えはじめました。
今では徳次郎の屋敷だけが、茅葺き屋根の2階正面の一部をすっぱりと切りおとす独特の
構造をした『赤城型民家』と呼ばれる形態と姿を、かろうじて維持をしています。
明治から大正時代にかけて、上州各地で次々と建築をされた養蚕農家の母屋は、
その外観だけを見れば、まるで3階建てに相当をするようなきわめて大きなものばかりです。
総2階建てというのが、当時の普通の養蚕農家の姿です。
広さをほこる2階のスペースは、カイコ専用として使われました。
1階の住人たちの居住スペースですら、大量のカイコたちによって占拠され
住人たちが追い詰められ居場所を無くすことも、養蚕農家においてはしばしば起こる
日常的な出来事のひとつです。
人とカイコが一緒になって暮らしていく形こそが、まさに養蚕最盛期における
農家の母屋の役割と形態でした。
平坦地に建てられた養蚕農家の多くが、2階の全てに開口部を設けています。
しかし赤城型の農家では、正面入口の上にあるぽっかりと空いた開口部分を除き、
ほぼ全周にわたり大きな傾斜を持つ屋根が、すっぽりと覆い尽くしているのが特徴とされています。
比較的温暖な気候を保つ平坦地にたいし、秋の冷え込みが早く、思わぬ早霜や低温による
影響などを受けないため、山間地の知恵として対応した結果と言われています。
徳次郎が住む赤城型農家の典型的な屋敷は、茅葺きの門を入ると
邸内には、母屋と同じだけの年月を経過した蔵と井戸が、昔の姿そのままに残っています。
子供の頃に康平が元気に駆け回って遊んだ庭は、当時とほとんど変わらぬ姿で、
懐かしい雰囲気のまま、久しぶりの珍客をただ静かに出迎えてくれます。
サワサワと休むことなく鳴りつづける、桑の葉の音が庭の片隅から響いてきました。
ポツポツと無限に繰り返される、静かな音も同時に聞こえてきます。
カイコが桑の葉を食べる時に出す、独特の食事の音です。
バラックと呼ばれる別棟の建物の一角に、壁と室内のすべてをビニールで覆われた
蚕の飼育スペースが設けられています。
蚕座(さんざ・飼育のために整えられたカイコのおき場所)の上には、
積み上げられた桑の葉のあいだを埋め尽くして、脱皮から目覚めたばかりのカイコが
旺盛な食欲ぶりを発揮して、ただひたすら食事中という光景が見て取れます。
「『船起き』したばかりのカイコだ。
そいつが例の、金色の糸を吐くという、オカイコ様だ」
ようやく追いついてきた徳次郎が、康平の背後から声をかけます。
『船起き』は、成長のために何度も脱皮を繰り返すカイコが、4齢目になった時点のことを言い
繭を作る直前状態の5齢目になったときの状態を指しています。
蚕は4回におよぶ脱皮をくりかえした後、成虫となりその先で繭をつくります。
孵化(ふか)とは、幼虫が卵の殻を食いやぶって生まれてくる状態をいいます。
カイコは朝のうちに出てくる習性があり、卵が青くなるとそろそろと幼虫が生まれてきます。
生まれたばかりのカイコは、たくさんの毛におおわれていて、黒っぽい色をしています。
まるでアリのようにも見えるので、蟻蚕(ぎさん)とも呼ばれます。
体長はまだ約3mmあまりで、体重は100頭(とう)で45mgくらいの重さです。
(カイコは、「匹」ではなく、動物と同じように「頭」と数えます)
ふ化したカイコを蚕座(さんざ)に移し、飼育を始める作業のことを「掃き立て」と呼んでいます。。
羽ぼうきで蟻蚕を掃きおろす様子から「掃き立て」と呼ぶようになり、
現在では生まれたばかりのカイコに、はじめてエサをあたえる作業のことを指してます。
ふ化してから、1回目の脱皮(だっぴ)までの期間を1齢。
次いで2齢、3齢・・・と言い、カイコは、普通、5齢目で繭(まゆ)を作りはじめます。
カイコが桑を食べることをやめ、脱皮のために静止する時期、またはそのようになった状態を、
ねているようにも見えるので、眠(みん)と呼びます。
最初の眠りが1眠で、次いで2眠、3眠、4眠と農家は呼びます。
起蚕(きさん)とは眠りから起きたカイコのことで、脱皮を終えたばかりのカイコを指します。
「こいつは、群馬県の蚕糸技術センターが育成してきた日本種の
「ぐんま」と、黄繭の中国種「支125号」を掛け合わした、日中の一代交雑種だ。
繭糸は細いがほぐれ具合も良好で、この繭からは、光沢のある黄色の生糸が生まれる。
千尋という女の子のたっての希望で、飼い始めてからもう3年目になる」
蚕は、上州の農村経済を支える中心でした。
かつては「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」と呼ばれ、
座敷を蚕室として使い、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼い続けてきました。
人々はこの蚕を大切にして「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と
尊称で呼ぶことが、上州における養蚕農家の普通のならわしです。
「おカイコ様」と呼ぶほど民家の構造にも、実に大きな影響を与えてきました。
赤城山南面の富士見村や赤城町の勝保沢、片品などでは、
掃き立ての時から2階で飼育をし、階下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる
「いぶし飼い」という技法で、長年にわたりカイコを育ててきました。
天井の板と2階の床板にはすき間があり、暖かい空気が上昇するように工夫をし、
2階ではまわりへ障子をめぐらし、床にはむしろなどを敷き詰めました。
大正から昭和にかけて大流行をしたのは、稚蚕期に蚕室の目張りをして、
養蚕火鉢などで保温をするという『密閉育』です。
稚蚕期のうちは下の座敷でカイコを飼い、大きくなったら2階も含めて家全体を使い、
家ぐるみで飼育を行うような形に変わりました。
養蚕農家の二階は、蚕室として活用ができるように、仕切を設けず広々としています。
さらに2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするために、
さまざまな民家構造が次々と考え出されてきたのも、実は
この頃からのことだと言われています
例えば、北部の山間部にみられる、茅葺き屋根の妻の部分を切り落とした民家の形。
赤城南麓に広く分布をする、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型の民家。
あるいは、榛名山麓の前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた、榛名型の民家。
屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)を持つもの
なども、すべて上州に作られた、典型的な養蚕農家の母屋たちです。
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「赤城型民家と呼ばれる古老の屋敷と、金色の糸を吐くオカイコ」
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「なんで俺は、こんなところで全力疾走をしているんだろう?」
駆け始めた坂道の途中であっというまに苦しさを覚え、青ざめた顔で立ち止まった康平が、
肩で大きく喘ぎながら思わず心の中でつぶやいています。
昨夜から寝ていないことからくる寝不足と、中途半端に残っているアルコールが
胃の中でいっそう攪拌をされ、吐き気に加えてわずかな目眩さえ感じている情けない自分が
まぎれもなくそこへいます。
子供の頃なら息ひとつ切らさずに駆け抜けることが出来た、
桑の巨木からもうひとつ先の丘陵を登った先にある徳次郎の屋敷までが、今日に限っては
やたらと遠くに感じられてなりません
『それにしても衰えたものだ。ガキの頃のあの元気が、もう微塵も残っていないなんて』
背後からゆっくりとした足取りで、大地を踏みながら一歩ずつ歩んでくる古老の姿を
目の隅に置きながら、早くも支える力をすべて失い、ガクガクと小刻みに笑い始めている
自分の膝の様子に、流れる汗を拭いながら康平が苦笑いを浮かべています。
徳次郎の屋敷はひときわ高い斜面の上に、四方のすべてを木立に囲まれて、
長い年月を悠然とそびえています。
赤城山の斜面を吹きおろす真冬の激しい季節風、上州の『からっ風』を避けるために、
この辺り一帯の農家は、北と西側に樹木を植え、荒れ狂う強風から家を守ります。
屋根の高さよりもはるかに高い位置まで伸ばされた樹木は、真冬になると漬物用の
大根を乾燥させるための、格好の風の晒し場としても活用されています。
養蚕の衰退とともに、独特の特徴を持っていた養蚕農家の母屋は、
何度かの改造を改築を重ねてきましたが、ついにその姿が次から次へと消えはじめました。
今では徳次郎の屋敷だけが、茅葺き屋根の2階正面の一部をすっぱりと切りおとす独特の
構造をした『赤城型民家』と呼ばれる形態と姿を、かろうじて維持をしています。
明治から大正時代にかけて、上州各地で次々と建築をされた養蚕農家の母屋は、
その外観だけを見れば、まるで3階建てに相当をするようなきわめて大きなものばかりです。
総2階建てというのが、当時の普通の養蚕農家の姿です。
広さをほこる2階のスペースは、カイコ専用として使われました。
1階の住人たちの居住スペースですら、大量のカイコたちによって占拠され
住人たちが追い詰められ居場所を無くすことも、養蚕農家においてはしばしば起こる
日常的な出来事のひとつです。
人とカイコが一緒になって暮らしていく形こそが、まさに養蚕最盛期における
農家の母屋の役割と形態でした。
平坦地に建てられた養蚕農家の多くが、2階の全てに開口部を設けています。
しかし赤城型の農家では、正面入口の上にあるぽっかりと空いた開口部分を除き、
ほぼ全周にわたり大きな傾斜を持つ屋根が、すっぽりと覆い尽くしているのが特徴とされています。
比較的温暖な気候を保つ平坦地にたいし、秋の冷え込みが早く、思わぬ早霜や低温による
影響などを受けないため、山間地の知恵として対応した結果と言われています。
徳次郎が住む赤城型農家の典型的な屋敷は、茅葺きの門を入ると
邸内には、母屋と同じだけの年月を経過した蔵と井戸が、昔の姿そのままに残っています。
子供の頃に康平が元気に駆け回って遊んだ庭は、当時とほとんど変わらぬ姿で、
懐かしい雰囲気のまま、久しぶりの珍客をただ静かに出迎えてくれます。
サワサワと休むことなく鳴りつづける、桑の葉の音が庭の片隅から響いてきました。
ポツポツと無限に繰り返される、静かな音も同時に聞こえてきます。
カイコが桑の葉を食べる時に出す、独特の食事の音です。
バラックと呼ばれる別棟の建物の一角に、壁と室内のすべてをビニールで覆われた
蚕の飼育スペースが設けられています。
蚕座(さんざ・飼育のために整えられたカイコのおき場所)の上には、
積み上げられた桑の葉のあいだを埋め尽くして、脱皮から目覚めたばかりのカイコが
旺盛な食欲ぶりを発揮して、ただひたすら食事中という光景が見て取れます。
「『船起き』したばかりのカイコだ。
そいつが例の、金色の糸を吐くという、オカイコ様だ」
ようやく追いついてきた徳次郎が、康平の背後から声をかけます。
『船起き』は、成長のために何度も脱皮を繰り返すカイコが、4齢目になった時点のことを言い
繭を作る直前状態の5齢目になったときの状態を指しています。
蚕は4回におよぶ脱皮をくりかえした後、成虫となりその先で繭をつくります。
孵化(ふか)とは、幼虫が卵の殻を食いやぶって生まれてくる状態をいいます。
カイコは朝のうちに出てくる習性があり、卵が青くなるとそろそろと幼虫が生まれてきます。
生まれたばかりのカイコは、たくさんの毛におおわれていて、黒っぽい色をしています。
まるでアリのようにも見えるので、蟻蚕(ぎさん)とも呼ばれます。
体長はまだ約3mmあまりで、体重は100頭(とう)で45mgくらいの重さです。
(カイコは、「匹」ではなく、動物と同じように「頭」と数えます)
ふ化したカイコを蚕座(さんざ)に移し、飼育を始める作業のことを「掃き立て」と呼んでいます。。
羽ぼうきで蟻蚕を掃きおろす様子から「掃き立て」と呼ぶようになり、
現在では生まれたばかりのカイコに、はじめてエサをあたえる作業のことを指してます。
ふ化してから、1回目の脱皮(だっぴ)までの期間を1齢。
次いで2齢、3齢・・・と言い、カイコは、普通、5齢目で繭(まゆ)を作りはじめます。
カイコが桑を食べることをやめ、脱皮のために静止する時期、またはそのようになった状態を、
ねているようにも見えるので、眠(みん)と呼びます。
最初の眠りが1眠で、次いで2眠、3眠、4眠と農家は呼びます。
起蚕(きさん)とは眠りから起きたカイコのことで、脱皮を終えたばかりのカイコを指します。
「こいつは、群馬県の蚕糸技術センターが育成してきた日本種の
「ぐんま」と、黄繭の中国種「支125号」を掛け合わした、日中の一代交雑種だ。
繭糸は細いがほぐれ具合も良好で、この繭からは、光沢のある黄色の生糸が生まれる。
千尋という女の子のたっての希望で、飼い始めてからもう3年目になる」
蚕は、上州の農村経済を支える中心でした。
かつては「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」と呼ばれ、
座敷を蚕室として使い、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼い続けてきました。
人々はこの蚕を大切にして「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と
尊称で呼ぶことが、上州における養蚕農家の普通のならわしです。
「おカイコ様」と呼ぶほど民家の構造にも、実に大きな影響を与えてきました。
赤城山南面の富士見村や赤城町の勝保沢、片品などでは、
掃き立ての時から2階で飼育をし、階下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる
「いぶし飼い」という技法で、長年にわたりカイコを育ててきました。
天井の板と2階の床板にはすき間があり、暖かい空気が上昇するように工夫をし、
2階ではまわりへ障子をめぐらし、床にはむしろなどを敷き詰めました。
大正から昭和にかけて大流行をしたのは、稚蚕期に蚕室の目張りをして、
養蚕火鉢などで保温をするという『密閉育』です。
稚蚕期のうちは下の座敷でカイコを飼い、大きくなったら2階も含めて家全体を使い、
家ぐるみで飼育を行うような形に変わりました。
養蚕農家の二階は、蚕室として活用ができるように、仕切を設けず広々としています。
さらに2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするために、
さまざまな民家構造が次々と考え出されてきたのも、実は
この頃からのことだと言われています
例えば、北部の山間部にみられる、茅葺き屋根の妻の部分を切り落とした民家の形。
赤城南麓に広く分布をする、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型の民家。
あるいは、榛名山麓の前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた、榛名型の民家。
屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)を持つもの
なども、すべて上州に作られた、典型的な養蚕農家の母屋たちです。
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/