マルコの福音書9:21-24
『イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」』
「出来ません」と言うのは信仰のことばでしょうか、それとも不信仰のことばでしょうか?
控え目に言うのが謙遜な態度だと思われる社会の中に長く生きていると、とりあえず出来ませんと先に言ってしまいます。
日本は特にそうですね。
責任を負いたくないから「出来ます」とは言わないです。
しかしイエス様は信じる者が「出来ません」ということばを謙遜なことばではなく、不信仰のことばだと思っています。
本文でもはっきりと『出来るものならと言うのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです。』言われました。
私たちには力がないですが、信じる者のうちにおられる主に力があります。
それを信じて「出来ます」と信仰の宣言をすることです。
パウロはそのように信仰のことばを言いました。
ピリピ4:13
『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』
主にあって「出来ます」と言う時から、主が働きます。
【関連聖句】
へブル11:30
『信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。』
【聖書通読】
-キリストの再臨を嘲笑う者-
- 第2ペテロ3:1-9
《 3分バイブルボイス 》