今日の「いのちのパンと祈り」

毎日の生活の中で、いのちのパンを食べて神様と共に歩きましょう。デボーション(祈り・黙想)のブログです。

謙遜か高慢か

2013-09-20 00:03:45 | マタイの福音書
(聖書箇所:マタイ3:11)
|私はあなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを受けていますが、私の後から来られる方は私よりもさらに力がある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。]

バプテスマのヨハネは福音を伝えたり水のバプテスマをあけたりと多くの働きをしました。うわさを聞いてユダヤ全土から人びとが彼の所に集まって来ました。
いつの間にか彼を知らない人はいないほど有名人になりました。
彼は特別な人だと思っていました。しかしヨハネは本当に謙遜な人でした。
11節のことばにその謙遜さが現れました。私たちはどんな人ですか?多くの働きをしながらも謙遜な人ですが?それとも小さい働きをしながも大きな働きをしたかのように振る舞う高慢な人ですか?

(ヤコブ4:10---主の御前でへりくだりなさい。そうすれば主があなたがたを高くして下さいます。)

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真の悔い改め

2013-09-19 00:30:07 | マタイの福音書
(聖書箇所:マタイ3:7-10)

なぜヨハネはパリサイ人やサドカイ人たちがバプテスマを受けに来た時に"まむしのすえ"と厳しいことばで語ったでしょうか。心から悔い改める姿が彼らにあるならばこれは大変失礼なことばで神様までもがびっくりするでしょう。

しかし彼らは反論出来ませんでした。
自分たちの心が見抜かされたからです。他の人たちには悔い改めがありましたが、この人たちは自分を正しい者といつも思っているので悔い改めの必要も感じていませんでした。
彼らの目的はバプテスマをうけてさらに自分たちを義なる者に見せたい思いがありました。
洗礼は義人になるしるしでも天国に行くチケットでもありません。
クリスチャンの洗礼は悔い改めた人に対する罪の赦しの証しであり、キリストと1つになったしるしです。
たとえ洗礼を受けていても救いに至る真の悔い改めと神様との正しい関係が出来てないならばその洗礼が何の役にも立たないことを知らなければなりません。
真の悔い改めをしましたか?

(マタイ3:8--それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。)

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ことばと行動が一致してますか?

2013-09-18 00:01:45 | マタイの福音書
(聖書箇所:マタイ3:1-6)

バプテスマのヨハネは清い生活をしながら、さらに言行一致の生活のしたので彼の声には力がありました。私たちが福音を伝える時に福音にふさわしい行いを見せないなら私たちの声には力がないと思います。
ある時は誤った行動のために他人の前で沈黙しているかも知れません。聖徒たちは自分自身がまず神様の前でよく悔い改めて再臨を待ちながら他の人びとにも悔い改めを勧める人にならないといけないです。
(ヤコブ1:22--またみことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。)

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あなたは従う人ですか?

2013-09-17 06:58:37 | マタイの福音書
(聖書箇所:マタイ2:13-21)
ヨセフは何事にも神様の指示に従う人でした。それは彼が神様の導きにいつも頼っていましたので、神様の指示が出た時にすぐさま従う準備が出来ていました。"立て"と言う言葉にすぐ従えたのも従うために彼の心はいつも立ての姿勢であったかも知れません。
信仰と従順は切り離すことは出来ません。信仰は神様を信じて敬うことなのに従順出来ないと言うならばそれはとても矛盾しています。
また導きを求める人は指示があるならば同然従うでしょう。求めながら従わないならば話になりません。
あなたは信仰と従順の人ですか?
それとも矛盾だらけの信仰生活をしていますか?
[ヘブル12:9---さらにまた私たちは肉の父がいて私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか]

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東方の博士たちを見習って

2013-09-16 00:26:50 | マタイの福音書
(今日の聖句:マタイ2:1-6)
3人の東方の博士たちはユダヤ人の王としてお生まれになったキリストを拝むためにはるばる遠い所から贈り物をもってユダの地まで訪ねて来ました。
彼らはユダヤ人でもなく異邦人でした。

しかし神のことばをよく知っていた律法学者や祭司たちはキリストがベツレヘムで生まれることは知っていましたが直接訪ねることはしませんでした。
なぜこのような温度差が。
知識的にはたくさん知っているが実際には行いのない生活をしていることがこれでばれました。

しかし博士たちは山と砂漠を越え遠くから探し訪ねて来る熱心さを見せました。
私たちはこのような熱心さを持って主を尋ね求めているでしょうか?
それとも距離が遠いから、渋滞だから、調子悪いから主に会いにいくことを嫌がってはないでしょうか?
キリストがあまり近くにいると侮る罪を犯しやすいです。
私に永遠のいのちを与えて下さった主にいまどんな態度で接していますか?

[マタイ24:42]--[だから、目をさましていなさい。あなたがたは自分の主がいつ来られるか知らないからです。]

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