ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

親と子

2018-05-14 07:20:55 | Assist
昨日は母の日でした。

それを祝うことはいいことだと思います。

ただ、究極的な思考としては、父親である、母親である、あるいは子供であるという役割さえもなくていいんじゃないかと思うのです。

日本国憲法第11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあり、これによって福祉も存在しています。

出産が女性特有の生物的役割とはいえ、生まれた子供を女性だけが面倒を見続ける必要はないと思うのです。

これは別に育児放棄を推奨するものではありません。

かつてより子供は、親だけではなく地域社会が育てる共同の財産だったのです。

困ったことに現代社会が、隣人が誰だかわからない環境になりつつあり、地域に育児を任せられない状況になっています。

そうでない環境もあるのでしょうが。

結局、保育園や幼稚園、学校などといった教育システムがその役割を負うところになっていますが、その分保育士や教師への作業負荷が増大してしまい、人手不足や残業の増大といった労働環境の劣悪化を招く事態となります。

基本的人権どころではない労働環境になってしまっているのです。


当たり前のように、「親は子供を育てるべき」という概念があると思います。

しかし本来地域が子供の成育を担っていた社会においては、「放っておいても子供が育つ」は成立していたのです。

「親は子を育てるべき」という固定概念のみが残ってしまい、教育機関や育児施設に預けることだけが親の責務となってしまい、そこで行われる教育に過度に口出しする立場が成立してしまったのではないでしょうか。

「モンスターペアレンツ」と呼ばれるものです。


もうね、「親は子を育てなくてはいけない」という概念そのものを手放していいと思うんです。

育児放棄を積極的にしなさいということではなく。

子供は子供でちゃんと考えて育つんです。

親の価値観や思考の範疇では捉えきれないぐらい。

全く違う経験やモノの見方をしながら育つ。

だから多少の規格外行動は放っておけばいいんです。

間違えないと気づけないこともいっぱいあるのだから。


それは今確実に到来している高齢化社会、及びこれから来る高齢社会にも言えることです。

子供が親の面倒をすべて見る必要はない。

認知症になるとかなりのことを忘れてしまいます。

親だから一生懸命介護しているのに、ある日、
「あなた誰?」
と言われた日には、それはやってられなくなります。

そのために介護福祉サービスが構築されていますが、親に対して殺意を抱いたりするよりは、何日かでも介護福祉施設に預けて休むという、自分自身のケアも重要だと思います。

「レスパイトケア」と言って、家族が介護を休むのも重要な位置づけとされています。

「親だから子供に」〜「しなきゃいけない」
「子だから親に」〜「しなきゃいけない」
と思い込んだり、または周りからそう言われたりして当然だと思っているかもしれませんが、基本的人権の尊重はそれによって招かれる破局的状況を良しとしません。

「人として」を主語に考えて、身近な公的機関なら、地域の社会福祉協議会を活用するとか、公共の福祉に問題を預けてもいいと思います。


親は親になりきれないし、子は子になりきれない。
そう演じることはできても。

それでも子は親を信じる。

自分の信念を曲げずに生きるのが、遠回りで近道だろうとは思います。
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