完全に正しいことも完全に間違っていることもないとは思います。
99%正しくて1%間違っているとか。
99%間違っていて1%正しいとか。
ある価値観では正しいけれど、他の価値観では間違っているなんてよくあることです。
ただし、論法においては単一事象に集中しないと論破できない。
言葉による論法において、複数の価値観を同時にある程度の割合で満たすことを説明するのは困難で、単一か数個の価値観における因果関係のみで説明しないと、多くの人に正しさを共有できない。
一神教の論理の強さはそこにあって、多神教文化の日本では最終的な弁論や討論の決定打に欠ける部分というのはある。
もっとも、根本的な法や基本の原理を知らずに、そもそも間違っているということも多々あるので、枝葉末節にこだわりながらも、物事の根本は何かを考えることは重要です。
King Gnuの「白日」
曲は好きでつい頭の中でリフレインしてしまいますが、歌詞は好きではありません。
罪を日の当たる公に晒すという意味の白日です。
後悔や間違いは誰にでもあることですが、99%間違いか1%間違いかによって生きる尊厳は全く変わってくるので。
誰かを傷つけることは99%当然として生きるか、99%傷つけないようにして1%傷つける後悔は全く様相が異なる。
前者は無意識の犯罪者もしくは犯罪予備軍で、後者は善行を行う努力家ですが、自戒の念の強さは明らかに後者が強い。
前者は悪行を行っても全く気にしない。
残念ながら多くの人は前者で、他人を傷つけていることも、それが自分を窮地に追い込んでいることも知らない。
罪の意識の重さは、前者が軽く、後者が重いという、為していることに対して逆の評価になってしまう。
白日の歌詞は善行を行おうとして自らに厳しい人を救うものであるなら良いけれど、もともとそんなことを気にも留めない人が濫用していい価値観ではない。
朝目覚めたらどっかの誰かになってやしないかな
自分より悪い人間になっていることが怖いので、勝手に他の誰かに入れ替わられては困ります。
全体の歌詞の意味はそんなに責任重大ではない。
まぁ、歌は歌として楽しむ分には特に問題はないのですよ。