ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

諦め

2022-06-19 04:04:27 | Culture
大学生の時、祖母が亡くなったと連絡を受けて群馬に帰った。

今から考えればおかしなことかもしれないけれど、通夜の夜、祖母の隣に布団を敷いてそこで寝た。

確か自分から言ったと記憶している。
部屋がなかったのかもしれないけれど。

そのほうがいいと思った。

同じく北枕だったのかな?
そういった禁忌は既に無く。
北枕なんか気にしてたらうかうか寝れんとか、まぁ色々思うところがあった。
そういえば今も北枕だ。

普通に祖父祖母の家に遊びに行って、寝る感じ。


若いうちの自殺は、生きるための死といわれる。

教員免許取得の際、当時文部省編纂の教科書に書いてあった。
生きるということに悩み、死を選ぶべきかどうしようかともがく。
死は行動力による。

それに対し、老年の死は諦めの死という。

生きることを諦める。

生きる体力や気力を失い、眠るのと同じように死ぬ。


葉隠の宮本武蔵などは代表的だと思う。
生きることに固執していたような人も、生きることを諦めれば死ぬ。


今の自分はどうかというと、いつ諦めてもいいように、思い残すことがないように生きている。

その観点で言えば、まだ死ねない。


言葉にすれば当たり前だけど、死んだら終わりだと考えている。

転生も天国も地獄も幽霊もなく死ぬ。
そんなものは死んでも生きたいと考える、人類の妄想だ。
他の動物に死後の世界があるとは思えない。 
コンティニューなんかできない。

だったら諦めず色々やってみたい。
やれることをやって生きたい。
だからといって無茶をするとかそういうことではない。
生きる前提で色々やりたい。


諦めたら終わり。

そのうえで、社畜になる暇はない。

そんなくだらない価値観の元で死にたくない。

他人の理想や目的や目標のために生きたくはない。

自分の理想や目的や目標のために生きたい。


しかしサラリーマンもできるようになってしまった。

仮に大学教授、そこまで行かなくても、准教授などになってしまえば、サラリーマンになることは無理だと、知り合いを見ていればわかる。

強固な目的とかではなく、サラリーマンになることが無理。

生活の前提が違う。

大学に養われてもいるわけだけど。

世間の大部分の人にとって、非常識な生き方をしている。


だいたい日本において、サラリーマン文化が定着したのは、ここ百年にも満たない。

大多数が農業で生計を立てていたのが戦前の日本だった。

今を生きる人にとっては非常識だろう。

ただそれは、現状を鑑みると、社畜よりよっぽど幸せだとも思う。


小学校や幼稚園から、毎日毎朝同じ時間に同じ場所へ同じ顔を見るために出かける。

大量生産品ですよ。

その文化を疑問に思わず、他の文化を知らずに死んでいく。

雇用統計で端数を切られる中のひとりですよ。


それが嫌なんですけれどね。