鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市の南端にある港町で景勝地。この辺りの市街を一般的に「鞆の浦」と呼ばれているが、本来「鞆の浦」とは鞆港を中心とした海域のこと。地名とすれば「鞆」が正しいんですね。
沿岸航海が主流の時代には、潮流が変わるこの鞆の浦が瀬戸内海を横断する舟の拠点で、鞆港が潮待ちの港として賑わっていました。しかし、航海技術が発達するとともに、動力船の時代となると、鞆の浦で潮待ちをする必要性は薄れていき、拠点は尾道にシフト。以来、鞆港は流通の港と言うよりは漁港となり、乗客を運ぶのは県営桟橋から走島まで1日5往復の定期連絡船と、少しの観光船のみとのこと。
近代化の波に乗り遅れたことが幸いし、鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれています。写真は太田家住宅と鞆の津の商家です。
江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみというから、相当な文化遺産ですね。
宮崎駿が海辺で一軒家を借り切って長期間滞在し、「崖の上のポニョ」の着想を得たのがこの鞆の浦だったことから、一気に脚光を浴びるようになってきたが、それ以外にも、宮城道雄が光を失う前、目に焼き付いていた海の情景がこの鞆の浦で、そのイメージから生まれたのが箏曲『春の海』だったとか。ここにはなぜか芸術を育む空気があるようです。
仙人も酔ってしまうほど美しいことから名づけられ、明治時代より天皇・皇后を始めとする皇族が好んで訪問してきた仙酔島や、島内に弁天堂が建てられていることから弁天島と呼ばれている百貫島など、沖の島々もそれぞれ景勝を競っています。
こののどかな土地を大きく揺さぶる問題が立ちあがっています。鞆の浦埋立て架橋計画のことです。江戸時代に形成された街並みでは道路の幅員が狭く、車がスムーズに通行できない箇所が多くあり、少子高齢化が進行して産業の衰退も深刻な問題となってきた。そんな鞆の活性策として港の一部を埋め立てて道路と公園を整備する構想が生まれたのです。
この構想では、鞆港の左右の両岸を埋立てて、その埋立地から橋で鞆港を跨ぐバイパスを建設するというもの。鞆の景観を大きく変えてしまうこの計画に、地元の一部やC・W・ニコル、宮崎駿、大林宣彦といった多くの文化人が異を唱えていったんは凍結となったが、2004年に鞆町出身で推進派の市長が当選したことから実現に向けて動きだし、景観か開発か、地元を二分しての騒動となっています。
部外者が偉そうなことを言うことはできないが、鞆の最大の魅力である美しい港の眼前に現代的な橋が横たわっている情景を想像すると幻滅やなあ…もしそうなればマイカーの観光客が続々押し寄せることで、一時は賑わうかもしれないが、リピート客を得られず早晩寂れてしまうことになりかねない。さらに、そんな場所から文化が生まれるとも思えません。目先の僅かな利益にとらわれることなく、永い目でこの鞆を考えることがこの地域の最大の利益だと思うのだが…
- 訪問日:2011年5月7日