とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 372 木綿のハンカチーフ 太田裕美 [歌詞]

2018-07-01 07:42:02 | 日記
歌詞が長い !!! それでも、いや、それだからこそ物語性が生まれ、既成の歌詞の概念を破った。ロングヒットの大きなパワーになりました。

木綿のハンカチーフ 太田裕美 [歌詞]



太田 裕美(おおた ひろみ、1955年1月20日 - )は日本のシンガーソングライター。 本名・福岡 弘美(ふくおか ひろみ、旧姓:太田)。東京都荒川区生まれ・埼玉県春日部市育ち。血液型はA型。夫は音楽プロデューサー・福岡智彦。2男あり。


経歴

東京都荒川区に出生。3歳時に埼玉県春日部市に転居。幼少の頃から音楽が大好きだったという。8歳の夏にピアノを習い始めて同時期に初めて作曲。小学校時代はコーラス部に入っていた。

1967年4月、上野学園中学校音楽指導科声楽科入学。
1969年、中学3年の時に友人の代わりにスクールメイツのオーディションを受け、合格する。受験理由は、大好きなザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったため。 これにより渡辺プロの東京音楽学院に入ることとなった。同期生には、伊藤蘭・田中好子(後のキャンディーズ)らがいた。

1972年(高校3年)の11月、NHKのテレビ番組『ステージ101』のレギュラーグループ「ヤング101」のオーディションを受け、「ショパンのワルツ」をひいて合格する。1973年1月から番組終了の1974年3月まで、ヤング101の一員として『ステージ101』に出演。同期メンバーには谷山浩子がいた。ヤング101の途中から、芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更した。
1973年12月、NETテレビのオーディション番組『あなたならOK!』に出て優勝。渡辺プロと新人養成契約を結び、西銀座のライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りを始める。

1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。デビュー初期はフォーク調で、ピアノ弾き語りの曲が多かった。1975年、日本レコード大賞、日本歌謡大賞等で新人賞を受賞。

1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が大ヒット、翌1976年のオリコンチャート4位を記録(1位は子門真人「およげ!たいやきくん」)。なお、NHK紅白歌合戦には初登場の1976年から1980年まで、5年連続で出場。

1982年に歌手活動を一時休業、8か月間アメリカ合衆国・ニューヨークに単身留学(「八番街西五十一丁目より」で第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞)。帰国後には『ニューヨークなんて怖くない』を執筆。また帰国後はディレクターがデビュー時からの白川隆三から、後に夫となる福岡智彦に替わり、テクノポップ調の曲を多くリリースするようになった。このニューウエーブ系路線は、大村雅朗、「4人目のYMO」といわれた松武秀樹、銀色夏生(山元みき子)、BaNaNa、板倉文、ホッピー神山、岡野ハジメ、杉林恭雄などがサポートしていた。

1984年1月20日(29歳の誕生日)、ディレクター兼プロデューサーの福岡智彦との交際を明らかにする。8月28日、婚約発表。
1985年1月26日、福岡智彦と結婚。1980年代後半からは遊佐未森らへの楽曲提供も行うようになった。
1988年1月発表の弦楽四重奏グループ・クロノス・カルテットのアルバム『冬は厳しく〜弦楽四重奏曲の諸相II』には、太田の朗読がフィーチャーされている。

1996年4月2日、ライブ活動を再開。1998年、ミニアルバム『魂のピリオド』をリリース。
2005年、親交があるミュージシャンAYUOとの連名でアルバム『RED MOON』を制作、ニューヨークのレーベルTZADIKから1月20日、50歳の誕生日にアメリカで発表。

2004年から太田、伊勢正三(元かぐや姫)、大野真澄(元ガロ)の3人でユニット「なごみーず」を組み、『アコースティック・ナイト』コンサートを開催している。
2016年8月1日、マネージャーの勇退により所属事務所“ボイスアンドリズム”を離脱。(「Wikipedia」より)