松山千春というと足寄という地名が出てくる。知名度が上がるとともに足寄も一種の観光地になりました。こういう出身地と密接に繋がる歌手は少ないのでは。そして、声。のびやかないい声質です。忘れることの出来ない歌手です。
季節の中で 松山千春 1979
松山 千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 - )は、日本の男性フォークシンガー。北海道足寄郡足寄町出身。身長170cm。体重55kg。血液型はO型。いて座。
略歴
北海道足寄郡足寄町出身。北海道足寄高等学校卒業。
1975年に「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも落選。
1976年にSTVラジオの竹田健二ディレクターに見出され、同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー『千春のひとりうた』でメディアデビュー。
1977年1月25日、「旅立ち」でレコードデビューを果たすが、同年8月27日、二人三脚で歩んできた竹田が急性心不全のため36歳で急逝し、一時失意に陥る。 しかしこれが契機となり、同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)が設立され(正式な法人設立は1978年1月17日)、 松山をバックアップすることになる。
1977年10月には『オールナイトニッポン』水曜2部のパーソナリティに起用され全国区の人気に。(これに伴い『サンデージャンボスペシャル』からは降板した)。
1978年4月には月曜1部に昇格し全国区の知名度を更に得るようになる。同年に発売したシングル「季節の中で」が大ヒットしたことで一気にスターダムを駆け上り、 以後も多数のヒット曲を出し、ニューミュージック界で確固たる地位を築くに至った。
主な代表曲に「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」などがある。
1982年7月24日には札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。
1984年には『オレたちひょうきん族』内の『タケちゃんマン』に使用された「ビックリ箱のうた」の作詞・作曲を手がけた。
1985年12月に結婚し、一児(長女)をもうける。 デビュー以来精力的にコンサート活動を続けた。
2007年には、コンサート公演回数が2000回に達した。 コンサート動員数は相変わらず好調で、映画、ラジオ、ドラマ出演、雑誌「月刊松山SAGA」「月刊松山捨石」の発行、論評など、歌手以外の方面へ活動範囲を広げている。
長らく自由民主党北海道連青年部名誉会長を務め、鈴木宗男や明石康らの支援を行なってきたが、鈴木の離党に伴い自らも離党し名誉会長職を辞任。 鈴木と共に地域政党新党大地を結党した。新党大地の名付け親は松山であり、「大空と大地の中で」(着うたフル・ゴールド認定、日本レコード協会)は新党大地のテーマ曲である。(「Wikipedia」より)
季節の中で 松山千春 1979
松山 千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 - )は、日本の男性フォークシンガー。北海道足寄郡足寄町出身。身長170cm。体重55kg。血液型はO型。いて座。
略歴
北海道足寄郡足寄町出身。北海道足寄高等学校卒業。
1975年に「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも落選。
1976年にSTVラジオの竹田健二ディレクターに見出され、同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー『千春のひとりうた』でメディアデビュー。
1977年1月25日、「旅立ち」でレコードデビューを果たすが、同年8月27日、二人三脚で歩んできた竹田が急性心不全のため36歳で急逝し、一時失意に陥る。 しかしこれが契機となり、同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)が設立され(正式な法人設立は1978年1月17日)、 松山をバックアップすることになる。
1977年10月には『オールナイトニッポン』水曜2部のパーソナリティに起用され全国区の人気に。(これに伴い『サンデージャンボスペシャル』からは降板した)。
1978年4月には月曜1部に昇格し全国区の知名度を更に得るようになる。同年に発売したシングル「季節の中で」が大ヒットしたことで一気にスターダムを駆け上り、 以後も多数のヒット曲を出し、ニューミュージック界で確固たる地位を築くに至った。
主な代表曲に「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」などがある。
1982年7月24日には札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。
1984年には『オレたちひょうきん族』内の『タケちゃんマン』に使用された「ビックリ箱のうた」の作詞・作曲を手がけた。
1985年12月に結婚し、一児(長女)をもうける。 デビュー以来精力的にコンサート活動を続けた。
2007年には、コンサート公演回数が2000回に達した。 コンサート動員数は相変わらず好調で、映画、ラジオ、ドラマ出演、雑誌「月刊松山SAGA」「月刊松山捨石」の発行、論評など、歌手以外の方面へ活動範囲を広げている。
長らく自由民主党北海道連青年部名誉会長を務め、鈴木宗男や明石康らの支援を行なってきたが、鈴木の離党に伴い自らも離党し名誉会長職を辞任。 鈴木と共に地域政党新党大地を結党した。新党大地の名付け親は松山であり、「大空と大地の中で」(着うたフル・ゴールド認定、日本レコード協会)は新党大地のテーマ曲である。(「Wikipedia」より)