画像が消されましたので、別の画像を共有させていただきました。・・・消さないで。
世界でいちばん熱い夏 - PRINCESS PRINCESS
プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本の伝説的ガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女子のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を大連発。略称は『プリプリ』。
来歴
1983年
2月、ガールズバンド結成のための楽器ごとのオーディションがTDKレコード主催で行われ、5人のメンバーが選出されて結成。当初のバンド名は「赤坂小町(あかさかこまち)」。このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。5月29日、銀座の山野ホールで初ライブを行う。
4 月から、西日暮里(東京都荒川区)で合宿生活を開始する。合宿開始当初(1983年ごろ)は、同じ事務所に所属していた木之内美穂とともに合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4カ月にも及んだ。
1984年
3月21日、TDKレコードより、シングル「放課後授業」でデビュー。この頃、奥居は「ヴォーカル&ベース」から「ヴォーカル&ギター」に、渡辺は「ギター」から「ベース」に、それぞれパート変更する(パート変更の時期は、富田によると「放課後授業」のリリース前、渡辺によると同シングルのリリース後とされており、ライブ年表によると、「放課後授業」発売の約1ヶ月半後の1984年5月8日のシャープ会館イベントがパートチェンジ後の初ライブとされている)。
1985年
事務所が与えるアイドル的な仕事に違和を覚えたことや、音楽性の違いから、所属事務所をTDKレコードから音楽座(ミュージカル劇団音楽座とは別の事務所)へと移籍する。ここでバンド名を「JULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)」に改名する。JULIAN MAMA時代はシングル、アルバムのリリースは無かった。
1986年
5月、バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと改名し(名づけ親はムーンライダーズの岡田徹)、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』でCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビュー。この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへの接触、移籍交渉を開始することになる。
8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが理由であった。だが当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。
11月、所属事務所であった音楽座との意見の相違などもあり、音楽座との話し合いをへて音楽座からシンコーミュージックに移籍する。
1987年
4月、ファーストシングル「恋はバランス」が発売される。この曲は、作詞は中山が担当したが、作曲は鈴木キサブローによるものだった。当時メンバー内では、部外者が作曲した作品をリリースすることについての抵抗がかなりあったらしく、以後はメンバー自身が作詞・作曲した曲をリリースすることにこだわり続けた。
1988年
3枚目のシングル「MY WILL」が、スポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用されたことをきっかけとして注目を集め、フジテレビの夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たす。初登場時は電飾を使ったセットが用意され、これは彼女らに余計に緊張を与えたという。またこの番組は、渡辺にとって昔からの憧れの番組であり、また「何度出ても緊張する番組だった」と後に語っている[8]。
2月、後にバンドの代表曲の1つとなる4枚目のシングル「19 GROWING UP -ode to my buddy-」をリリースする。この時期からたびたびテレビドラマやCMのタイアップに起用されるようになり、バンドの知名度、CD売上も上昇していく。
4月、結成当初から目標の一つとしていた渋谷公会堂ライブを行う。チケットは発売開始からわずか2時間で完売し、これを聞いたマネージャーの市村はメンバーより先に泣いたというエピソードがある。この頃からライブ会場をライブハウスからホールへと移行させていく。
5月、5枚目のシングル「GO AWAY BOY」リリース。資生堂夏のキャンペーンソングに起用される。続く6枚目のシングル「GET CRAZY!」も月9テレビドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用された。
11月、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』リリース。収録曲の「M」は後にリリースされるシングル「Diamonds」のカップリング曲にもなり、バンドを代表する曲の一つとなる。
1989年
1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う(翌年より正月に公演が行われるようになり、以後1996年まで毎年行われた)。
4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース、オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。
このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏(平成レコーディング)」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。
6月1日発売のユニコーンのアルバム「服部」に奥居がPSY・SのCHAKAと共にコーラスで参加。
8月、西武球場で初のスタジアムライブを含む「夏祭りだよ! 全員集合」(ライブ)が行われる。
11月、5thアルバム『LOVERS』リリース、オリコン・アルバムチャートで初の1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。中山が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」、ポップなナンバー「パレードしようよ」などが収録されている(ちなみに、「パレードしようよ」の歌詞の最後に出てくる「パレード1991」というのは、「その頃には結婚できたらいいな」という願望から出たフレーズである)。
夜のヒットスタジオ騒動 1989年10月18日、生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』第1回目で、新しく司会として起用された加賀まりこが、奥居に対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をする。これに対し奥居は、同日番組終了後に生放送されたTBSラジオ『ポップン・ルージュ』で加賀の言動に激怒する。メンバーの恋人の存在が写真週刊誌に掲載された直後の同年11月15日出演時では、生放送中に加賀がそのことに打ち合わせなしで言及し、奥居がその夜の『ポップン・ルージュ』内で再び激怒。その後メンバー全員が『夜ヒット』への出演を拒否する事態に発展し、その後同番組に出演することはなかった(だがレギュラー放送終了後、1993年3月31日に放送された特番では病欠中だった今野を除くメンバー4人で生出演し、また1994年10月12日放送の特番には「夜ヒットの思い出」として奥居がVTRでコメント出演をしている)。
再結成
2012年
1月6日、東日本大震災をきっかけに再び集結、復興支援として、1年間の期間限定で16年ぶりの再結成を発表(実際にはその前年、2011年からリハーサルは行われていた)。
3月20日、再結成後の初公演は幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティーコンサート『ALL THAT LOVE -give & give-』。米米CLUB、TM NETWORKとともに参加。当日の模様はWOWOWで中継された。
4月6日、公式facebook開設。
6月27日、2枚組ベスト「THE REBIRTH BEST 〜再会〜」発売。
7月 - 8月バンドとしては初めての夏フェスに出演(全国4ヶ所)。
11月3日 - 24日、ライブツアー「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜」を、仙台サンプラザホール(11月3日・4日)、日本武道館(11月20日・21日・23日・24日)にて開催。
12月23日・24日、追加公演「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜 "The Last Princess"」を東京ドームにて開催。女性バンドとしては史上初の公演だった。また、12月24日の公演はWOWOWで中継された。
12月30日、第54回日本レコード大賞に出演、特別賞を受賞。
12月31日、第63回NHK紅白歌合戦に出演(初出場)。(「Wikipedia」より)
世界でいちばん熱い夏 - PRINCESS PRINCESS
プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本の伝説的ガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女子のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を大連発。略称は『プリプリ』。
来歴
1983年
2月、ガールズバンド結成のための楽器ごとのオーディションがTDKレコード主催で行われ、5人のメンバーが選出されて結成。当初のバンド名は「赤坂小町(あかさかこまち)」。このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。5月29日、銀座の山野ホールで初ライブを行う。
4 月から、西日暮里(東京都荒川区)で合宿生活を開始する。合宿開始当初(1983年ごろ)は、同じ事務所に所属していた木之内美穂とともに合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4カ月にも及んだ。
1984年
3月21日、TDKレコードより、シングル「放課後授業」でデビュー。この頃、奥居は「ヴォーカル&ベース」から「ヴォーカル&ギター」に、渡辺は「ギター」から「ベース」に、それぞれパート変更する(パート変更の時期は、富田によると「放課後授業」のリリース前、渡辺によると同シングルのリリース後とされており、ライブ年表によると、「放課後授業」発売の約1ヶ月半後の1984年5月8日のシャープ会館イベントがパートチェンジ後の初ライブとされている)。
1985年
事務所が与えるアイドル的な仕事に違和を覚えたことや、音楽性の違いから、所属事務所をTDKレコードから音楽座(ミュージカル劇団音楽座とは別の事務所)へと移籍する。ここでバンド名を「JULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)」に改名する。JULIAN MAMA時代はシングル、アルバムのリリースは無かった。
1986年
5月、バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと改名し(名づけ親はムーンライダーズの岡田徹)、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』でCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビュー。この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへの接触、移籍交渉を開始することになる。
8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが理由であった。だが当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。
11月、所属事務所であった音楽座との意見の相違などもあり、音楽座との話し合いをへて音楽座からシンコーミュージックに移籍する。
1987年
4月、ファーストシングル「恋はバランス」が発売される。この曲は、作詞は中山が担当したが、作曲は鈴木キサブローによるものだった。当時メンバー内では、部外者が作曲した作品をリリースすることについての抵抗がかなりあったらしく、以後はメンバー自身が作詞・作曲した曲をリリースすることにこだわり続けた。
1988年
3枚目のシングル「MY WILL」が、スポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用されたことをきっかけとして注目を集め、フジテレビの夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たす。初登場時は電飾を使ったセットが用意され、これは彼女らに余計に緊張を与えたという。またこの番組は、渡辺にとって昔からの憧れの番組であり、また「何度出ても緊張する番組だった」と後に語っている[8]。
2月、後にバンドの代表曲の1つとなる4枚目のシングル「19 GROWING UP -ode to my buddy-」をリリースする。この時期からたびたびテレビドラマやCMのタイアップに起用されるようになり、バンドの知名度、CD売上も上昇していく。
4月、結成当初から目標の一つとしていた渋谷公会堂ライブを行う。チケットは発売開始からわずか2時間で完売し、これを聞いたマネージャーの市村はメンバーより先に泣いたというエピソードがある。この頃からライブ会場をライブハウスからホールへと移行させていく。
5月、5枚目のシングル「GO AWAY BOY」リリース。資生堂夏のキャンペーンソングに起用される。続く6枚目のシングル「GET CRAZY!」も月9テレビドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用された。
11月、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』リリース。収録曲の「M」は後にリリースされるシングル「Diamonds」のカップリング曲にもなり、バンドを代表する曲の一つとなる。
1989年
1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う(翌年より正月に公演が行われるようになり、以後1996年まで毎年行われた)。
4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース、オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。
このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏(平成レコーディング)」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。
6月1日発売のユニコーンのアルバム「服部」に奥居がPSY・SのCHAKAと共にコーラスで参加。
8月、西武球場で初のスタジアムライブを含む「夏祭りだよ! 全員集合」(ライブ)が行われる。
11月、5thアルバム『LOVERS』リリース、オリコン・アルバムチャートで初の1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。中山が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」、ポップなナンバー「パレードしようよ」などが収録されている(ちなみに、「パレードしようよ」の歌詞の最後に出てくる「パレード1991」というのは、「その頃には結婚できたらいいな」という願望から出たフレーズである)。
夜のヒットスタジオ騒動 1989年10月18日、生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』第1回目で、新しく司会として起用された加賀まりこが、奥居に対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をする。これに対し奥居は、同日番組終了後に生放送されたTBSラジオ『ポップン・ルージュ』で加賀の言動に激怒する。メンバーの恋人の存在が写真週刊誌に掲載された直後の同年11月15日出演時では、生放送中に加賀がそのことに打ち合わせなしで言及し、奥居がその夜の『ポップン・ルージュ』内で再び激怒。その後メンバー全員が『夜ヒット』への出演を拒否する事態に発展し、その後同番組に出演することはなかった(だがレギュラー放送終了後、1993年3月31日に放送された特番では病欠中だった今野を除くメンバー4人で生出演し、また1994年10月12日放送の特番には「夜ヒットの思い出」として奥居がVTRでコメント出演をしている)。
再結成
2012年
1月6日、東日本大震災をきっかけに再び集結、復興支援として、1年間の期間限定で16年ぶりの再結成を発表(実際にはその前年、2011年からリハーサルは行われていた)。
3月20日、再結成後の初公演は幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティーコンサート『ALL THAT LOVE -give & give-』。米米CLUB、TM NETWORKとともに参加。当日の模様はWOWOWで中継された。
4月6日、公式facebook開設。
6月27日、2枚組ベスト「THE REBIRTH BEST 〜再会〜」発売。
7月 - 8月バンドとしては初めての夏フェスに出演(全国4ヶ所)。
11月3日 - 24日、ライブツアー「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜」を、仙台サンプラザホール(11月3日・4日)、日本武道館(11月20日・21日・23日・24日)にて開催。
12月23日・24日、追加公演「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜 "The Last Princess"」を東京ドームにて開催。女性バンドとしては史上初の公演だった。また、12月24日の公演はWOWOWで中継された。
12月30日、第54回日本レコード大賞に出演、特別賞を受賞。
12月31日、第63回NHK紅白歌合戦に出演(初出場)。(「Wikipedia」より)