とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 391 もしも明日が/ わらべ

2018-07-30 00:36:35 | 日記
アイドル全盛時代にこういう素朴な唄で「欽どこ」からデビュー。たちまち大ヒットとなった。・・・で、今聴いていて、なんとも複雑な気持ちになりました。いや、ほんとはこれが唄というものの原点なんだと思いました。素朴すぎて、ああ、これがほんとの唄というもの・・・。聴いているうちに懐かしくなり、涙が・・・。ははっ、過ぎ去りぬ、わが清春時代は。


【80s】 懐い音楽 もしも明日が わらべ




わらべは、テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』から誕生した高部知子、倉沢淳美、高橋真美の3人から成る企画ユニットである。

登場背景

企画立案時、萩本欽一の担当番組、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、『欽ドン!』、『欽ちゃんの週刊欽曜日』各番組の視聴率が合計100%を超え、また『欽ドン!』より誕生したイモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』が大ヒットしていた。『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の1982年のリニューアルにあわせて、これまで人形、あるいは子役タレントが担当してきた萩本家の3人の娘たち(のぞみ、かなえ、たまえ)が高校生として成長することになったのをきっかけに、オーディションで選ばれた3人の若手女優によって結成された。当時はアイドル全盛期で華やかなアイドルが多くいた中で、素朴な雰囲気を醸し出し、注目を集めた。


歴史

1982年12月、坂本龍一編曲による最初のシングル「めだかの兄妹」がフォーライフ・レコード(現:フォーライフミュージックエンタテイメント)よりリリースされた。もともと番組のエンディングで、就寝するシーンの中で使われていた曲をリリースしたもので、番組の企画物であったことなどもあり、1983年のオリコン年間シングルチャート第3位のロングヒットとなり、番組を放送していたテレビ朝日以外の局の音楽番組にも多数出演した。

曲の内容は、『すずめ、こねこ、めだか』が成長したら何になりたいかを歌ったもので、パジャマにちゃんちゃんこの衣装で歌っていた。ただ、このシングルがあまりにも売れすぎたため、これが当時の物品税の課税対象となる歌謡曲扱いか、または非課税となる童謡扱いかで国税庁とレコード会社の主張が対立し、論争となった。

だが1983年6月に、のぞみ役の高部知子の、ベッドの上で喫煙しているとされる写真が写真週刊誌『フォーカス』に掲載された。当初は当面謹慎の後、復帰の予定で、事件直後に高部が番組に電話出演して反省の弁を涙ながらに語り、「めだかの兄妹」を合唱した回は、42%の視聴率を記録した。しかし2か月後に、写真を週刊誌に提供した高部の元彼の自殺により、遺族へ配慮しての番組降板、ユニットからも脱退となってしまう。その後、その出来事は『ニャンニャン事件』と呼ばれ、後年テレビ番組『夕やけニャンニャン』のタイトルに使用された。

1983年12月、2枚目のシングル「もしも明日が…。」がリリース。オリコン調べでは前作の「めだかの兄妹」を上回る売上を記録し、同社調べによる1984年の年間シングルチャート第1位となる大ヒット曲となった。
1984年12月、3枚目のシングル「時計をとめて」がリリースされた。オリコン週間最高6位・1985年度年間79位を記録したが、以前ほどの大ヒットとはならなかった。

1985年3月の番組のリニューアルとともにユニットも解散、脱退した高部も含め3人はそれぞれ女優・タレントとして数多くの作品に出演、また歌手としてレコードを出した。(「Wikipedia」より)