遅ればせながら、皆々様、新年 明けまして おめでとうございます。
昨日、伊勢崎から町田に帰ってきた。
外は晴れ。
「家にくすぶっている時間はないぞ。」
誰かが耳元でささやく。
特に死に急ぐ事はないにしても、生き急ぐ必要はありそうな気がする。
そう、何か気が急ぐのだ。
連日の株安。
金の無い私にはチャンスなのだが、それを生かすだけの資金が無い。
金を持たない私、まぁ、それは当然なのだが、残念至極。
何をするにも、最低限の資金は必要だということなのだろう。
何とも、間の悪いことだ。
もっとも、それが不幸となるか、はたまた幸となるか、神のみぞ知る・・・か。
すっごく美味しくなった。= すっごくまずかった。
→保護され感。
無駄もまた人生。
思いどおりにいかないのが人生だよ。
しかし、「存在感ゼロ」っていうのも、何かなぁ・・・。
はっきり言ってしまえば、私、けっこう真面目に生きてきたと思う。
だが、生きてきた時間のわりに、後輩に教えてやれることが、何一つ無い。
とは言え、今さら自分の生き方に異を唱えても何にもならない。
60を過ぎたら、自分の生き方は、自分自身で決めていくべきだ。
他人のことばかり気にかけているのではなく、もっと「自分自身」を気にしてやろう。
1日前と、今日、私は別人になっていい。
「生の自分」を活かす方法を考える。
自分の「需要」を考えてみる。
それもまたトレーニングだろう。
初心・・・これが好きだというパワー。
で、これから、ここから、どこへ向かう?
結局、私も弟も、お互い、コミュニケーションが下手くそなのだ。
周囲に目を配る。= 人から見ると、うさんくさい。
何をやっても、空振りで、どう動いても、空回り。
余計なことはするな。
他人の気持ちなぞ、結局分かりはしないのだ。
なら、最初から考慮するな。
何事もタイミング次第。
結果が総てだ。
私は、自分の気持ちの表現が、下手くそなのだろう。
今年はどう生きていけば良いだろうか?
町田と伊勢崎、場所が違っても、出るのは同じ太陽だ。
古希 (こき。 原文の表記は古稀。 「稀」は常用漢字にはないので
現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。
唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)
「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」
(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。
(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。
還暦は数えの61歳(≒満60歳)であるが、
古希は数えの70歳(≒満69歳)のこと。
古希は長寿の祝いとされている。
お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色。
長寿の祝いには、他に、還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、
傘寿(さんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)、
百寿(ひゃくじゅ) などがある。
清の乾隆帝は 「古稀天子」 と自ら称し印判などにも用いた。
中国史上古稀を迎えた天子は乾隆帝の他は梁の武帝、南宋の高宗などわずかしかおらず、統一王朝の皇帝となると空前といってよかった。
てぇと、私は既に 「古稀」 だということなのだ。
完璧でなくともいい。
もともと完璧など、とても無理だし、人は常に未完成なのが、つまり人生なのだから。
まずは、やる気。
他人に寄り添う心、他人を支える気持ち。
上滑りになるかもしれないが、まずは、気持ちから入る。
不完全でいいというわけではないが、そこにもまた「美」がある。
今年こそ、一つだけでも、完成、完了する。 (毎年、同様の事を言っていたっけ・・・。)
このところ気が急いて仕方がない。
「古稀」 だからなどとは、今さら言わぬが花だろうな。
昨日、伊勢崎から町田に帰ってきた。
外は晴れ。
「家にくすぶっている時間はないぞ。」
誰かが耳元でささやく。
特に死に急ぐ事はないにしても、生き急ぐ必要はありそうな気がする。
そう、何か気が急ぐのだ。
連日の株安。
金の無い私にはチャンスなのだが、それを生かすだけの資金が無い。
金を持たない私、まぁ、それは当然なのだが、残念至極。
何をするにも、最低限の資金は必要だということなのだろう。
何とも、間の悪いことだ。
もっとも、それが不幸となるか、はたまた幸となるか、神のみぞ知る・・・か。
すっごく美味しくなった。= すっごくまずかった。
→保護され感。
無駄もまた人生。
思いどおりにいかないのが人生だよ。
しかし、「存在感ゼロ」っていうのも、何かなぁ・・・。
はっきり言ってしまえば、私、けっこう真面目に生きてきたと思う。
だが、生きてきた時間のわりに、後輩に教えてやれることが、何一つ無い。
とは言え、今さら自分の生き方に異を唱えても何にもならない。
60を過ぎたら、自分の生き方は、自分自身で決めていくべきだ。
他人のことばかり気にかけているのではなく、もっと「自分自身」を気にしてやろう。
1日前と、今日、私は別人になっていい。
「生の自分」を活かす方法を考える。
自分の「需要」を考えてみる。
それもまたトレーニングだろう。
初心・・・これが好きだというパワー。
で、これから、ここから、どこへ向かう?
結局、私も弟も、お互い、コミュニケーションが下手くそなのだ。
周囲に目を配る。= 人から見ると、うさんくさい。
何をやっても、空振りで、どう動いても、空回り。
余計なことはするな。
他人の気持ちなぞ、結局分かりはしないのだ。
なら、最初から考慮するな。
何事もタイミング次第。
結果が総てだ。
私は、自分の気持ちの表現が、下手くそなのだろう。
今年はどう生きていけば良いだろうか?
町田と伊勢崎、場所が違っても、出るのは同じ太陽だ。
古希 (こき。 原文の表記は古稀。 「稀」は常用漢字にはないので
現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。
唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)
「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」
(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。
(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。
還暦は数えの61歳(≒満60歳)であるが、
古希は数えの70歳(≒満69歳)のこと。
古希は長寿の祝いとされている。
お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色。
長寿の祝いには、他に、還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、
傘寿(さんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)、
百寿(ひゃくじゅ) などがある。
清の乾隆帝は 「古稀天子」 と自ら称し印判などにも用いた。
中国史上古稀を迎えた天子は乾隆帝の他は梁の武帝、南宋の高宗などわずかしかおらず、統一王朝の皇帝となると空前といってよかった。
てぇと、私は既に 「古稀」 だということなのだ。
完璧でなくともいい。
もともと完璧など、とても無理だし、人は常に未完成なのが、つまり人生なのだから。
まずは、やる気。
他人に寄り添う心、他人を支える気持ち。
上滑りになるかもしれないが、まずは、気持ちから入る。
不完全でいいというわけではないが、そこにもまた「美」がある。
今年こそ、一つだけでも、完成、完了する。 (毎年、同様の事を言っていたっけ・・・。)
このところ気が急いて仕方がない。
「古稀」 だからなどとは、今さら言わぬが花だろうな。