「障害者手帳」
普段は気にならないが、私には、常に 「障害者」 がついてまわっている。
事実、障害者である以上、それは当然の事ではあるのだが・・・。
先日、定期券を購入しようとして、
「障害者手帳を拝見・・・。」 と言われた。
今年 (?) から、定期購入の際、毎回、確認するよう決められたとか。
「障害者割引」 があるので、まぁ仕方がないと言えば言えるのだが。
普段、気にしていないだけ、いきなり 「手帳」 を見せろ などと言われると
どきっとして、 「あぁ、私は障害者なのだ」 と 「自覚」 させられる。
無論、実際、恩恵を受ける身としては、それが当然、やむを得ない事なの
かもしれないが。
私は、自分が 「障害者」 だということにこだわりがある。
勿論、確かに私は、嫌応もなく、今後共、一生 「障害者」 だ。
が、よくよく考えてみれば、老いてなお、全く障害のない人間なぞ、
一体、この世に存在するのだろうか?
良い悪いではなく、現実問題として、言ってしまえば、自分を含めて、
老人とは、ある意味、「障害者」 だとも言えるのではないか。
だから障害者は、そして老人は駄目だという事では、全くない。
むしろ全然・・・、 そう・・・全く逆だ。
老人であれ、障害者であれ、やる場所とやる事さえあれば、若者、または
健常者と何ら変わる事なく、それ以上に働いていく事ができる。
それを踏まえて、今後、出来れば、 「介護する方法」 を学んでみたい。
それは同時に、 「介護される方法」 を学ぶ事でもある。
介護を学習し、その成果を整理して、
いずれは、ブログの上で発表していけたらいいなと思う。
それで「介護」について、より自分の理解を深めていく事が出来ると
同時に、周囲にも 「介護の理念」 を拡げていく事になるのじゃあない
だろうか?
今後は、多かれ少なかれ、「介護」 について考えていく事は、実際
介護を行う行わないに関わらず必要になってくる。
いずれにせよ、何かを成そうとするには、その分、何かを犠牲にし
なければならないのだ。
そんな気がしている。
しかし、私の場合、何かをやろうと決めた時、あるいはやった場合、
自らの期待した成果、あるいは効果を、充分に発揮できたと感じる
事がほとんどない。
何とも困った老人なのだ。
普段は気にならないが、私には、常に 「障害者」 がついてまわっている。
事実、障害者である以上、それは当然の事ではあるのだが・・・。
先日、定期券を購入しようとして、
「障害者手帳を拝見・・・。」 と言われた。
今年 (?) から、定期購入の際、毎回、確認するよう決められたとか。
「障害者割引」 があるので、まぁ仕方がないと言えば言えるのだが。
普段、気にしていないだけ、いきなり 「手帳」 を見せろ などと言われると
どきっとして、 「あぁ、私は障害者なのだ」 と 「自覚」 させられる。
無論、実際、恩恵を受ける身としては、それが当然、やむを得ない事なの
かもしれないが。
私は、自分が 「障害者」 だということにこだわりがある。
勿論、確かに私は、嫌応もなく、今後共、一生 「障害者」 だ。
が、よくよく考えてみれば、老いてなお、全く障害のない人間なぞ、
一体、この世に存在するのだろうか?
良い悪いではなく、現実問題として、言ってしまえば、自分を含めて、
老人とは、ある意味、「障害者」 だとも言えるのではないか。
だから障害者は、そして老人は駄目だという事では、全くない。
むしろ全然・・・、 そう・・・全く逆だ。
老人であれ、障害者であれ、やる場所とやる事さえあれば、若者、または
健常者と何ら変わる事なく、それ以上に働いていく事ができる。
それを踏まえて、今後、出来れば、 「介護する方法」 を学んでみたい。
それは同時に、 「介護される方法」 を学ぶ事でもある。
介護を学習し、その成果を整理して、
いずれは、ブログの上で発表していけたらいいなと思う。
それで「介護」について、より自分の理解を深めていく事が出来ると
同時に、周囲にも 「介護の理念」 を拡げていく事になるのじゃあない
だろうか?
今後は、多かれ少なかれ、「介護」 について考えていく事は、実際
介護を行う行わないに関わらず必要になってくる。
いずれにせよ、何かを成そうとするには、その分、何かを犠牲にし
なければならないのだ。
そんな気がしている。
しかし、私の場合、何かをやろうと決めた時、あるいはやった場合、
自らの期待した成果、あるいは効果を、充分に発揮できたと感じる
事がほとんどない。
何とも困った老人なのだ。