自分のフィルターを通して文章を書いてみることは、決して無駄ではない。たとえ、発想のきっかけは他の誰かが書いたことであっても、自分で書くことで思考をなぞっていくと、途中から話の方向がズレたり、別の結論に至ることもある。そこが自分でものを書くことの意味や楽しみではないか。|要は、堂々とマネしていいのだ。仕事も外国語も楽器演奏もマネから始まる。最初からマネすることをカッコ悪いと思ったり、真剣にマネしたこともないうちから弱音を吐いたり、初めから自分より優れた人と比較して落ち込むのは、ちょっと気負いすぎ。興味がなければハナから取り組まくていいし、興味があるのなら、まずマネから始めてみる。そういう自分もまだマネを続けている。初心者のみならず、中級者でも上級者でも、マネしたい優れた対象はいくらでも見つかる。自己評価の中止や高止まりこそ前進の否定につながる。いまは人生100年時代だという。本当に百歳まで生きられるかは神のみぞ知るだが、あまり早い内からベテランぶったり、老境を自認しても、余生を持て余すだけだ。一方、若い人たちにとっては元気に働く中高年層が増えて辛い(ウザい)という見方もあるだろうが、平均寿命が延びるということは平均労働年数が増えるということであり、老若協働の確率も益々増えるということである。そして、それはいまはまだ若い人たちが将来、年配になっても、違う年齢層の人たちと元気に働けるということをも意味する。立場がいつか逆になるという想像力が必要だ。||さて、「ヒューマン・リソース(人的資源)」とか、「こういう人材を募集します」とか、「自分の商品価値を高める」などという言い方に慣れっこになってしまっている人が、大学生にも社会人にもようけおる。おそらく、それが普通・無難だと思って、無意識に肯定しているだけだろう。でも、それは、採用する側の企業の人事部に、自分のことは個性など無視して、他と比較可能な似たり寄ったりの「商品」として取り扱ってくれて構いません、と宣言しているに等しい。比喩とはいえ、商品なのだから、普通は大量生産、大量販売が善しとされ、「商品価値」がなくなれば、いつでも他の「商品」に代替可能だ。これでは、自分を売り込むどころか、最初から自分を骨抜きにしようとしていることにはならないか?そもそも、小学校から大学在学期間中までは、個性尊重という言葉を耳にタコができるほど聞かされてきたのに、就活期間や入社後は角が立たない立派な歯車になれというのは、完全に矛盾してないか。大学3、4年から、急に「ビジネスマインド」を持てなんて言われてもピンと来るはずがない。無理がありすぎる。/「ちょっと考えすぎですよ」「単に言葉の綾ですよ」という人もいる。/「言葉の綾」という言葉を使いたがる人自体かなりいかがわしいが、言葉も商品と同じで、信用第一。言葉の使い方が軽佻浮薄であれば、その人物への信用・信頼が揺らぎ、周りもその人の言葉に次第に耳を傾けなくなる。自動車どころか「人材」だって「リコール」されかねない。//ビジネス界ということを考え始めたら、急に、これまで身近に接したことのある、何人かのカリスマ経営者についてしゃべりたくなってしまった。彼らの語る経営理念、企業の公益性に関する言葉には重みがあり、個性があり、創造性があった。ただ、生来、風任せでプライバシーもあるのでどうなるかわからない。名前ぐらい出してもいいとも思うが、それだと単なる自慢話になるので、迷うところ。
最新の画像[もっと見る]
- Urayasu-605 14時間前
- Ueno-3 3日前
- Urayasu-604 1週間前
- Ota-176 2週間前
- Kokubunji-4 1ヶ月前
- Ota-174 1ヶ月前
- Urayasu-601 1ヶ月前
- Miyazaki-3 1ヶ月前
- Urayasu-600 2ヶ月前
- Katsuura-12 2ヶ月前