最近は風呂に入ってもメロディは浮かばず、DTMも休止中。昨晩は、湯船に浸かりながら読書や音楽などについて思いを巡らせた。/自分が過去に読んだ本、過去に聴いた音楽に対する捉え方の変化。つまり、過去にどっぷりハマった本や音楽の賞味期限は、自分のなかではどうなっているのか、鮮度は落ちたのか落ちていないのか、どれが「いまはもうダサく」て、どれが「いまでも十分通用すると思う」のか。翻って、最近読んだ本や聴いた音楽はどないか。なしてあんまり興奮せんのか。それにはこれまでの読書歴、音楽鑑賞歴が確実に関係しているはずだが、どう関係しているのか。あるいは、読書歴と音楽歴の間に、つながりや傾向はないのか。あるのならどういう接点があるのか。また、これまでたびたび感じてきた、誰かに本や音楽を薦めることの難しさや心もとなさについて。はたまた誰かの音楽や本の良し悪しについて、何かしらコメントすることの根拠性について。さらに、本や音楽への評価を、安易に「個人的好み」に帰結させてしまうことの退屈さ、相対化することの無意味さについてなど。これらを言葉のスコップで、もっと掘り下げたい。||趣味の世界であれ、スポーツであれ、なにかの専門分野であれ、初心者と経験者の差異をフラットにしてしまうような考え方は、その世界の豊かさや奥行きを見失うことにつながる。たしかに、「経験値を笠に着た年功序列」は胡散臭い。だが一方で、自己評価が高すぎ、「俺が伝統破壊して、今までにない新しいもの作ったる」なんて豪語してみても、経験者が言うのなら別だが、ほとんどの場合が単なる勘違いだ。初心者のそうした考え方は、経験者の微笑みを誘う。なぜって、経験者の多くにとってもそれは「いつか来た道」だからだ。もちろん、「勘違いな野心」も当人が大化けする契機となるのなら、無駄ではない。大口を叩いても、やることは慎重で確実という人もたまにはおる。だが、それこそが経験者の「いつか来た道」である。なお、初心者ゆえの慢心がモラトリアム的に長期化して、いつまでもグズグズしてたらあかん。中途半端なまま淘汰されてまうので、大胆な転身も大事。/初心者は、できれば目標とする先輩やベテランをもったほうがいい。よく観察すると、「昔は血気盛んな一匹狼だった」風なプロはどこにでも存在する。体制に媚びるのは嫌だし、群れたくないという人は、そういう元反骨者に注目し、フォローすればいい。また、探したけどどうしても憧れる人物がいないという人でも、達したい境地が具体的にイメージできていれば、吸収もレベルアップも可能である。でも、なにも参考にせずに、自分のオリジナルだけで突っ走るぞっていうタイプが、結局、一番失敗のリスクが高い。それでも、無名&無収入あるいは低収入を覚悟で続けられるのであれば、期限を設けてチャレンジすればいい。/そして、経験者はなにより奢らないほうが息が長い。奢る経験者は、始末が悪い。時間とともに煙たがられ、いずれは窓際に一人佇む。||BGB:①『音楽が聴けなくなる日』(宮台真司、永田夏来、かがりはるき著、集英社新書、2020年)、②『読書について』(ショーペンハウアー著、光文社古典新訳文庫、2013年)
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